03_Reboot
転機は『彼女』と連絡が取れなくなって三か月ほどで訪れた。
闘病していた祖父の危篤を『転機』などというのは不謹慎が過ぎるかもしれないが、膠着状態を打破できたのは、この件により実家に帰ったことなのは間違いない。
高速バスと鈍行を乗り継ぎ数時間、数年振りの故郷は長閑で緑と蝉の声に満ち溢れていた。
田舎駅に降り立った瞬間、懐かしい匂いが肺を満たす。
目に見えるもの、耳に聞こえるものの全てが柔らかい。都会にいたのはたった数年だというのに、目も耳も随分と喧騒とネオンに慣れてしまっていたようだ。
その後、実家に帰り、集まっていた親戚に挨拶する。幸い、祖父の臨終には立ち会うことができた。
通夜と告別式は問題なく終えられた。勿論、ドラマにあるようないざこざや修羅場なども起こらず、誰もが思い出話や近況を語る中、私は精進落としの酒に悪酔いしてしまい、一足先に自室へ戻ることとなった。
弟から薬を貰い、吐くほどではない気持ちの悪さをベッドで我慢しながら効くのを待っていると、ノックの音がした。
応えると、片手にコップとペットボトルの乗った盆を持った弟が顔を覗かせる。
「大丈夫か? 水とかいる?」
「あー……要るー……」
手渡された水を一気に飲み干す。
霞がかった脳と胸焼けが、きりっと冷えた水の一気飲みですっきりしていく。
「兄ちゃんって酒弱かったの?」
様子を見ていた弟に訊ねられ、私はいいやと首を振る。
「いつもはこんなんじゃないって……」
大学やバイト仲間との飲み会や、ジョニーに付き合って缶ビールとカップ酒で夜明かししたときも、こんなに酔うことはなかった。長旅と葬儀の準備で疲れたせいにしても、一合もない日本酒でこんなにぐだぐだになってしまうのは想定外だ。
(何だっけ……葬式の酒はお清めか何かで出されるやつだっけ……)
しかし清められた感は全くない。むしろ体調としては真逆である。
酒は酒でも、種類によって酔い方が違う体質があるらしいと聞いたこともあるので、単純に合わないのかも知れない。折角の故郷の酒なのだから、気持ちよく酔える体質であって欲しかったが。
「そうだ兄ちゃん、ちょっと見てほしいものあんだけど」
弟が唐突にそう言って、盆を床に置いて部屋を出て行き、すぐに戻って来る。
その手には角の潰れた埃っぽい段ボール箱。
「何だそれ」
「離れの方、片付けてたときに出てきた。兄ちゃんの名前書いてあったから兄ちゃんのだろ」
離れとは庭の片隅にある、元は蔵だったらしき建物だ。いろいろ古いものの他に両親の趣味の品や使わなくなった道具や玩具類がしまってあり、茶室のような小部屋には亡くなった祖父がよく居座って、書や一人将棋などを嗜んでいたように思う。
手渡された箱の表面には、油性ペンで書かれた私の名前と『たからばこ』という拙い文字が見える。
埃を払ってガムテープを剥がし蓋を開けば、懐かしい品々。
アルバムや卒業文集、ささやかな賞を取った絵画と賞状、折れ曲がった小さな紙飛行機、使わなくなったけどお気に入りだった筆箱、隙間には菓子のオマケのカードやシールが輪ゴムで括られて詰め込まれている。
「うーわー、なっつかしー!」
弟が思わずと言った調子の声を上げ、カードの束を取り出してペラペラと捲った。
「オークションで超高くなるレアカードとか入ってたりしない?」
「どうだろうな。どのみち状態悪いと買い取ってもらえないぞ」
カードを雑に括った輪ゴムは劣化して、側面に貼り付いてしまっている。
高値が付けば生活費の足しになる、という考えは私の中にも湧いたが――小学生の自分が聞いたら何と言うだろう。
数々の子供時代のお宝を掘り出し並べると、底から一冊のノートが出てきた。
ちらと見えたのは手書きのタイトル。
『小さな小さな夢物語☆』。
「げっ」
アルバムを捲っている弟の目を盗み、私はそれを抜き取って背中側に隠した。
「あれ? 今何かした?」
「いや、何にも」
不審げに問うような弟にとぼけて返し、誤魔化すために話題を逸らす。
「しかし、こんなにカードとかシールとか、よく集めたよな」
「ウエハースとか一緒に入ってたんだっけ? 兄ちゃんがよくそっちだけくれたやつ」
「一人じゃ食べきれなかったからさ……食べ過ぎるとごはん入らなくて怒られるし」
「買い過ぎだよ。毎日コンビニとゲーム屋と雑貨屋と、あと菓子コーナーあった酒屋とかまでハシゴしてたじゃん」
「そう、だっけ?」
三か月前、辻本と話した件を思い出す。抜け落ちていた放課後の記憶。
それを弟は覚えているらしい。
いま掘り返そうとしても雲を掴むように手応えがない。ので、水を向けてみることにした。
「えーっと……よく覚えてるな、そんな昔のこと」
「はあ、あんな熱中してたのに忘れたのかよ。子供の頃は子供の頃ってかー」
大袈裟な溜息を吐く彼の口から、不意に零れ出た言葉。
「あんな大事件あったのにさぁ」
思わず弟の顔をまじまじと見る。
無言の私に、弟が呆れて顔を上げた。
「山で女の子が二人、行方不明になってさ、そんで暫くして、片方しか帰ってこなくて……兄ちゃんの知り合いだって話だったから、葬式も行っただろ」
「……」
それは、確かに大事件だ。
子供の頃に経験する葬式なんて大方は祖父母か親戚くらいのものだ。同年代の子供の、しかも知り合いの葬式なんて、忘れる筈がない。
しかし、そんな記憶は全く無い。
更に詳しく聞こうとしたが。
「兄ちゃんが小学生の頃の話だぞ? こっちの年齢考えてみ?」
呆れ顔で返された。よく考えるまでもない話だ。
その後、当時も大人だった家族親戚、近所の人々に聞いて回った。
だが具体的な話は何故か聞き出せなかった。確かにそういった事故はあった、葬式もやった。けれど具体的な日付や状況は曖昧で、人により食い違っている。
小さな女の子が二人も山で行方不明になり、挙句一人が亡くなってしまったなんて重大な事件、世間が放っておくだろうか。いや、そんな筈はない。警察や記者や野次馬がこの田舎に押し掛け、捜索の状況などが全国ニュースで連日流れ、現代であればSNSでもトレンドに載るだろう。
けれど私はそんな状況に覚えはない。
私だけならトラウマになって記憶から消している、と考えられるだろうが、弟や周囲の人間も、となると話が違う。
そうならなかったのは何故か。
(例えば……他にもっと大きな事故とか事件があれば、世間的にはそっちに注目が集まる、だろうけど)
飽くまで『世間的に』の話だが。
近所の、この狭い町の中では、そうはならない筈だ。
(あとは何だ? 町で他に大きな事件があったのか? それとも、実は女の子は普通に見つかっていて、葬式は別の話と混ざっちゃってるとか……)
考えながら、それはないだろうと頭を振る。
一人二人ならまだしも、訊いた全員がそんな勘違いをしているなんて荒唐無稽だ。まだ、不思議な魔法で見せられた集団幻覚で、実際には起きていないという方が理解できる気がする。
そもそも二人の女の子とは誰なのだ。私の知り合いなら朱音と有香里の二人が符合するが、どちらにも亡くなったという記憶はない。己の記憶に自信は無いが、それでも流石に葬式に行ったなら忘れる筈はないだろう。
第一、辻本が言っていたではないか。少なくとも有香里は中学のときに引っ越して行ったと。
つまり中学までは普通に生きて暮らしていたのだ。
流石に、未成年ではあるけれど、中学生を『小さな女の子』とは表さない、だろう。
ただのクラスメイトでも知り合いとは呼ぶし、葬式があれば顔を出すに違いない。
(だからいなくなったのは、別の子の筈……)
都会へ戻る前日、様々な疑念を抱いたまま、私は町の中を歩き回った。
元酒屋や雑貨屋だったコンビニ、特に何か建てられることもなく草ぼうぼうの空き地、看板だけが新しい洋食店。四六時中人や車が行き交って騒がしい都会と比べれば、閑散として、より活気に乏しく見えてしまう。
(普通ならここは、懐かしい故郷も変わっていくのだな、的な感慨を呟くところなんだろうけど)
目にする町は、建物は、どこか見覚えがあり懐かしさを感じるが、やはり具体的な『思い出』は浮かんでこない。現物を目にしたからこそ、自分の中の欠損が明らかに感じられる。
夏の日差しでべたつくアスファルトの熱も、トタン屋根が反射する眩しい光の刺激も、記憶の呼び水にはなってくれない。
足は自然と、辻本との会話で思い出した滝沢朱音の家へと向かっていた。
曲がりくねった路地を行き、青々とした田んぼの脇を通り過ぎ、小さな雑木林を抜けて更に歩いた先。
辿り着いた一軒家は、廃墟と呼んで差し支えない程に荒れ果てていた。
(有香里ちゃんは中学の頃よそに引っ越した、って辻本が言ってたけど……)
中学といえば六、七年ほど前になる。夏の盛りに茂った草、割れてはいないが埃に汚れた窓ガラス、塗料が剥げてひび割れた壁を見れば、それくらいの年季は入っていそうな荒れ具合。
有香里と同じく、朱音も似たような時期に引っ越したということだろうか。
(いくら仲良しだからってそんな偶然)
考え始めて、弟たちから聞いたばかりの話が脳裏を過る。
山で行方不明になり、亡くなったという女の子。
昨日までの聞き込みの中、自分の中で否定し続けた予想がむくむくと膨らみ始めた。
そのとき。
「おお、欅田んとこの坊じゃないか」
道の脇から声を掛けてきたのは筋肉質な中年の男性。
振り向き顔を見た瞬間、弾けるように脳裏に浮かぶ記憶。そして考える間もなく口が動く。
「クリスマスツリー屋のおじさん」
「馬鹿野郎、ウチは製材所だ。よく見ろ看板を」
少し離れた『宮守製材事務所』と書かれた看板を指し示しながら渋面で言った後、製材所の主人、宮守は綻ぶように破顔する。
「って、最後にコレ言ったのは何年前だったか? 寒くなると鼻真っ赤にして見に来てさ、クリスマスツリーまだーってな」
「だって毎年クリスマスのとき町で一番でっかいツリー飾ってたから」
「元々は木組みや彫りの練習用だ。まあ、始めは廃材のちっこいやつだったんだが、若えのがどんどん気合い入れちまって……季節のもんなら正月の干支やら盆の精霊馬やらも作ってたんだぞ」
「そっちは知らなかった」
「だろうな」
「それにたぶん小学生のときくらいまでだったし」
「そうだったか? いつの間にか随分でっかくなって……ああ、そういや都会の大学に行ったんだったか。俺はかみさんとの旅行で行ったきりで、あれももう」
「ところでおじさん、ちょっと聞きたいんだけど」
思い出話が長くなりそうな予感に、私は慌てて口を挟んだ。
「お? なんだ?」
「この家……に住んでた子のことでさ」
「あぁ……」
先程まで明るかった彼の表情が曇り、言葉を濁らせる。
「滝沢さんのとこの朱音ちゃんだったか。あの子のことは気の毒だった。空気がいいからってこっちに越してきて、本当にすぐ、ひと月かふた月かで……お前も辻んとこの坊とよく遊びに来てたものな」
はっきりと朱音の名を出され、覚悟をしていたとはいえ一瞬どきりとする。
朱音ちゃんは亡くなっていたのだ。
葬儀に行った記憶は、他の諸々の記憶と共に抜け落ちているようだけど。
(……いや、もう今更だ)
欠けた思い出はあとで数え直すことにして、私は製材所の主人の話の続きに耳を傾ける。こういうとき、語りたがりの人物というのは正直有難い。
「お前も知ってるだろうが、すぐ引っ越しちまってな。後に入居するって人もいなくて家もあの有様だ。きれいな新築だったから勿体ねえとも思うが、あんなことがあっちゃ無理もない」
「……」
「そこの自動車屋も店じまい、他の連中も都会に出たりして、寂しくなるばっかりだ。あ、いや、都会の学校行ったからって坊に何か言おうって訳じゃないがな」
語る言葉を聞きながら、私は考える。
現時点で確定していることは、滝沢朱音と仲本有香里が、中学に入ったくらいの頃に山に入ったこと。そして朱音が亡くなってしまったこと。なのに大きなニュースにもならず、当時一緒に遊んでいたはずの私や辻本も覚えておらず、町全体で事件への記憶が曖昧なこと。
おかしなことばかりだ。
製材所の宮守とひとしきり話した後、私は再び歩き出す。
今度は特に目的も無く、忘れてしまった記憶について考えながら宛てもなく足を進め続けた。
気付けば日は傾いて、一面の青々とした稲穂が橙に染まる田を前に、私は立ち尽くしていた。
(帰ろうか……)
思った次の瞬間、私の背後でカラスが鳴いた。
何の変哲もない一声に振り向くと、そこは神社だった。
石造りの鳥居の向こうに、木立の影が落ちて薄暗い階段が続いている。
(そういえば)
辻本との会話を思い出す。
子供の、小学校の頃のことで思い出せるのは、家や学校でのことばかりで、外で過ごした放課後の記憶は周辺の光景ごと消え去っていた。
なのにこの神社の景色だけは強く『見覚えがある』と感じる。
(ここには来たことがある)
故郷の神社なのだから、当たり前と言えば当たり前だろう。
けれど歯抜けの記憶群の中で明確に残っているものだ。
「何かあるのかも知れない」
敢えて口に出して呟き、現実感を強めてみる。
鳥居の奥の暗がりは不気味で、黄昏が迫り、これからは暗くなるばかりの時間だ。小学生の時分なら肝試し以外で行こうとはしなかっただろう。何なら今でもかなり怖い。
にも拘らず足を踏み出したのは、それ以上の得体のしれない恐怖が、私の内外に渦巻いていたからだろう。
鳥居を潜った瞬間、ふっと肩が軽くなった。
混乱し、霞のかかった頭の中がすっきりと冴え渡っていく感覚。
(彩乃ちゃんが言った通り)
同時に、繋がった糸を引くように彼女の名前を思い出す。
『彩乃ちゃん』
その名前を、存在を、どうして忘れていたのだろう。
印象的な出会いを経てからほんの三か月前まで、毎日のように会っていた彼女のことを。
だが、私が忘れていることはそれだけではない。
(先へ進めばもっと思い出せるかも)
そんな期待に突き動かされ、私は暗い石段を登り始めた。
結論から言うと、他に思い出せたことは無かった。霞を払って蘇った記憶は『都会で出会った彩乃ちゃんと過ごした日々』だけ。
けれどもこれは進展だろう。そうに違いない。彩乃を思い出せたことで、彼女に訊ねることができる。記憶の喪失や別れの言葉、神社巡りにも意味があった筈だ。
長い石段を登りきり、木漏れ日すら見えなくなった境内で、私はひとり頷いた。
その夜、夕食の後に弟から声を掛けられた。
「明日帰るんだっけ。大学ってまだ休みなんじゃないの?」
「そうだけど、急いで帰ってきたからな。冷蔵庫の中身とかバイトとか、ほったらかしにできない感じのがある訳よ」
「うわ、冷蔵庫はヤバそー」
呟いた彼は少し思案しつつ、話を続ける。
「実はさ、爺ちゃんが危なくなる前にさ、話してたんだよ。今年は祭があるからそれまで頑張りたいって。あと、兄ちゃんはそれ合わせで帰って来るのかって」
「祭? そんなんあったっけ?」
「おれもあんまし覚えてないけど、何年かに一回やるタイプの祭らしい」
「うーん……?」
記憶を掘り返しても、それらしいイメージは浮かんでこない。今日行った神社の参道や境内に屋台が出ている画も、まるっきり。
きっと忘れていることの一つだろう。
「それっていつ?」
「来月。って、夏休み終わってるから無理か」
「いや? 実は大学は九月まで夏休みがあるんだ」
「え、マジで? いいなー!?」
今までで最も熱い羨望の眼差しを受けながら、私は考えを廻らせる。
もう一度往復するための運賃は少々懐に厳しいが、何年かに一度の祭はレア感がある。
彩乃を誘ってみるのも良いかも知れない。
彼女は神社にも詳しいのだし、きっと喜んでくれるだろう。
帰りのバスの中でも私は目が冴えたままだった。
そこでふと、実家から持ち帰ろうと鞄に詰めた荷物のことを思い出す。
取り出したのは一冊の古いノート。
『小さな小さな夢物語☆』。
確か小学校の四年か五年のときに書いた話だ。
パラパラと捲って流し読む。ページ数は僅か八ページ。短い作中に、当時想像する限りの冒険活劇がありったけ詰め込まれていた。場面の繋ぎも文章自体もハチャメチャだが、情熱と勢いだけははち切れんばかりに伝わってくる。
自分から創作に勤しむような、そんな性格の子供では無かったような気もするが。
(……すごく勇気が出る感じの話)
誰かにそんなオーダーをされたような、そんな気がする。
自分の過去の作品を見ると恥ずかしくなるというが、それを感じるには流石に作者が幼過ぎる。
辻本や、朱音や有香里にも見せたりしたのだろう。
残念ながら今思い出せる記憶の中に、そんな光景は無いけれど。
戸惑いと微笑ましさの混じった気持ちで読み終えたとき、ふと、最後のページに欠けがあることに気が付いた。
ノートの紙の角が破れている。
うっかり破ってしまったというより、わざと千切ったような形だ。
どうしてこんなことをしたのか思い出せないし、意味も理解できない。
(けど、この形はどっかで見たような……)
見ているうちに、目と喉の奥がざわざわし始める。悪酔いが戻ってきたような頭痛と吐き気に顔を顰めていると、不意に鏡が割れるように何かが閃いた。
震える手で平べったい財布を開く。
詰め込んだレシートの間から、小さな紙の切れ端が覗いているのを発見して引っ張り出す。
紙面には拙い手書きの『つづく』。
破れたノートの角に、その切れ端を添えた。
二つの切り口は、パズルのピースのようにぴったりと合わさる。
私はその亀裂のような合わせ目を、息を吞んだままじっと見つめ続けていた。
彩乃が再び私の前に姿を現したのは、そんな帰郷から三日後のことである。




