42、ランデル風フル・ブレックファスト
隣室から聞こえるシュルフト語の会話に、わたしがぎょっとして動きを止める。
『ヒルダ、声が大きいわよ』
『大丈夫よ、どうせ愛人はランデル語しかわかんないわよ。まともな教養があるなら、王子の愛人の分際で、のこのこ外国までやってこないわよ』
『……とにか声を抑えて。それから手が止まっているわ。お喋りだけをするつもりなら、もういいから行って。殿下の従僕の方もいるし、わたし一人で十分よ。むしろ邪魔』
『……何よ、手伝ってやろうと思ったのに』
『あわよくば、王子様のお目に留まりたいと思って、押しかけてきたんでしょ。いつもより化粧が濃いからすぐにわかるわ。……でも無駄よ。あの王子様は彼女に夢中だから。あんたの出る幕はないわ』
『失礼ね! ……いいわよ、もう行くわ!』
『ついでに、そこのシーツとバスタオル、持って下がってちょうだい。それくらいは働いてよ』
『ああもう、何なの、ムカつくったらないわっ!』
どかどかと足音が響いて、バタン! ……と乱暴に扉が閉まる音がした。およそ、貴族の邸であんな躾けのなってないメイドは見たことがなくて、わたしはしばらく、ドアの前で茫然と立っていた。
愛人呼ばわりされるのは覚悟はしていたが、メイドからあそこまで言われるのはさすがに堪える。
カチャカチャと食器のぶつかる音がして、ハンナが朝食の準備をしているらしい。
わたしはしばし躊躇ったけれど、このままここに突っ立っているわけにもいかず、深呼吸を一つしてからドアを開け、殿下の部屋に戻る。部屋の丸テーブルに真っ白いクロスをかけ、食器やカトラリーを並べていたハンナが顔を上げた。
「どうぞ、お座りください。すぐに紅茶をお持ちいたします」
「……ありがとう」
……ハンナはむしろ、陰口を止めてくれていた。
わたしは自分を鼓舞して、勧められた椅子に座る。目の前のお皿には金色の縁取りと、緑色の小さな葉が連なった模様の、白い皿。
以前、祖母に見せてもらったことがある、アルティニア皇家御用達のブランドだ。
ノックの音がしてドアが開き、ジュリアンがワゴンを押して入ってきた。
「おはようございます、ミス・アシュバートン」
「おはよう、ジュリアン」
わたしは皿の上にきれいに畳んで立ててあったナプキンを取り、膝に広げる。ジュリアンがお皿と揃いのティーカップに、綺麗に色の出た紅茶を注いだ。
オートミールのポリッジが供され、糖蜜の壺が添えられる。あまり好きではないけれど、わたしは大人しく糖蜜を少しかけて、スプーンを手にする。――ランデル大使館の朝食は、ランデル式のフル・ブレックファストらしい。
わたしがポリッジを二口ほど食べたところで、扉が開いて殿下が入ってきた。すでにカッチリと軍服を着ていて、髪も固めている。
軍服姿の殿下は、とても格好がいい。
若いメイドが玉の輿を夢見て騒ぐのも当然かもしれない。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。――腹が減って死にそうだ。朝食はランデル式か。ルーセンやアルティニアの朝飯は不味くはないが、物足りなかったな」
殿下はまっすぐにわたしのところにきて、長身をかがめて額にキスを落とす。ハンナやジュリアンの目の前で恥ずかしい、と思ったけれど、殿下はごく自然に、わたしの向かいの席に回って腰を下ろす。すぐにジュリアンが殿下のカップにも熱い紅茶を注いだ。
殿下の前にもポリッジの皿が置かれ、殿下が食べ始める。林檎のコンポートと、クランベリーのジュース。それから、ベーコンとソーセージ、ニシンの燻製と目玉焼き、ベイクドビーンズが盛り合わせになったメインの皿が置かれ、久々の豪勢な朝食にわたしは一瞬、目を瞠る。――絶対に、食べ切れない。
そこへダメ押しのように、薄切りのトーストが二枚、バターとマーマレードの小皿が添えられる。わたしはベーコンと目玉焼き、マーマレードを塗ったトーストをなんとか一枚食べ、クランベリージュースで流し込む。殿下はと言えば、あっという間にメインの皿を片付け、トーストのおかわりまで命じていた。特に、一週間ぶりに食べるニシンにご満悦だった。
「あの列車、ニシンの缶詰を積んでないんだ。朝メシにニシンが出ないなんて、あり得んだろ。ベジャールのおっさんにも俺はその点、文句をつけておいてから、次からは改善されるといいな」
嬉しそうのニシンを頬張る姿はどこか子供っぽい。わたしはお茶を飲みながら肩を竦める。
「そう言えば、老姉妹も塩辛いものが足りないって零していらしたわ。歳を取ると、習慣を変えたくない、とも」
「朝メシは大事だぞ? 戦場でも、朝メシだけは何とか、温かいモノを配るようにしていた。状況が緊迫するとお湯も沸かせないからな。水と固パンの日が続くと、栄養云々以前に、人間、気力が無くなっていくんだ」
時々、殿下の語る戦争中の話は、正直なところ聞くのが辛い。でもその苦労を乗り越えて今の殿下がいるのだからと、わたしは殿下の話の先を促すように、彼の目を見た。
殿下は金色の瞳を少し細めて、わたしに微笑みかける。
「戦時中のシュルフト兵の強さは、俺は食事のせいじゃないかと考えてる」
「……シュルフト軍の軍用食が優れていると? ならば研究して、我が軍でも取り入れてみては?」
わたしが言えば、殿下は笑った。
「捕虜の持ってた携帯食を奪って食ったけど、メシはどっこいどっこいだった。そうじゃなくて、奴ら、普段から夕食はいつも、パンとチーズとハムと、ワインやエールで済ますらしいじゃないか。なんて言うんだっけ? えーとカリエスじゃなくて……えーと……そうだ、冷たい食事だ! 俺たちは毎食、必ず熱いお茶だスープだって、火を使ったもんが出てこないと、食べた気がしない。でも、シュルフト人ってのは、冷たい食事に慣れてるんだよ」
殿下の言葉に、わたしはなるほどと頷いた。
「確かに習慣の違いはありますわね。わたしたちは熱いお茶がないと生きていけないけど、それがルーセン人はワインで、シュルフト人はビール、コーキチのようなヤパーネ人は生魚とライスなのね」
「……コーキチの民族だけは、正直、理解不能だ」
「お酒もライスから作るそうですわ。どんな味なのかしら?」
「朝からライスを食うのかな? しかもカトラリーじゃなくて、二本の棒で」
「パンがないって言ってたから、たぶん……」
わたしは両手に一本ずつ棒を持っているコーキチの姿を思い浮かべ、首を傾げた。それでどうやってライスや生の魚を食べるのか。さっぱり想像もつかない。
コーキチの国の王は後宮のおかげで、二千年も続いていると言うけど……。
やっぱり、東洋は神秘の国だと、わたしは改めて納得した。
食事が終わり、殿下が再び打ち合わせに向かう。
「ああ、そうだ、ロベルトがタイプして欲しい書類があると言っていた。隣の部屋にテーブルとタイプライターを準備するから」
「わかりました」
殿下が部屋を出てから、わたしはハンナに尋ねる。
「マニキュアを塗りなおしてくれるサロンに行きたいのだけど、近くにあるかしら」
ハンナはわたしの手をじっと見て、しばらく考えていたが、頷いた。
「大使の奥様とお嬢様が行きつけていらっしゃる、ヘアーサロンが近くにございます。マニキュアも承っているはずです」
「申し訳ないけど、予約をお願いできる? ……せっかくだから、髪のカットもお願いしようかしら。午後の早い時間がいいわ」
「畏まりました」




