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43、虎の威を借る

 わたしが隣の部屋――殿下の居間兼執務室――に行くと、ロベルトさんが書類を辞書で首っ引きしながら、シュルフト語に訳していた。


「おはようございます」

「ああ、おはよう。昨日はよく眠れた?――わけないかー、あははー!」


 下品なからかいは軽く無視して、わたしはタイプライターの前に座る。


「で、タイプする書類はどちらです?」

「エルシーたんって、時々、視線だけで氷漬けできそうに、冷たいよね?」

「くだらないことを仰るからですわ」


 わたしは手書きの書類を受け取り、タイプを打ち始める。――実は、わたしはタイプ打ちがとても得意だ。天性のタイピストだと自負している。ピアノを弾いている時もそうなのだが、一心不乱に打ち込んでいると、周囲の物音も何もかも、すべて消えてしまう。もちろん、さっきから一人でブツブツ言っている、ロベルトさんのくだらないお喋りも、全てシャットアウトだ。


 カタカタカタカタ、カタン、カタタタン、カタカタ、チーン!


 数日、ピアノが弾けない欝憤を晴らすように、ひたすらタイプ打ちに没頭する。

 きれいにタイプした書類を眺め、わたしは満足の溜息を漏らす。


「あー、これもお願いできる?……タイプ打ってる時のエルシーたんって、ほんと、機械人形みたいだよね」


 ロベルトさんのくだらない発言はもちろん無視し、差し出す書類だけを受け取り、再びタイプライターに向かう。


 カタカタカタカタ、カタン、カタカタ、チーン! 


 タイプライタ―はピアノに似ている。無心に指を動かし、音楽を奏でるように文字を打ち込んでいく。この瞬間がたまらなく好きで、わたしは職業婦人に向いていると思う。貴族にさえ生まれなければ、きっとタイピストとして独り立ちできたのに。


 そんなことを考えながら、タイプした書類をチェックし、ロベルトさんに渡す。殿下が軍縮会議の会場に向かう時間も近づいて、軽食を取るために殿下と護衛の方たちが戻っていらっしゃった。

 ジュリアンとハンナ、それから数人のメイドが昼食のサンドイッチとお茶を運んできた。殿下も配下の方たちも凛々しく軍服に身を包み、厳めしい雰囲気だ。


「ロベルトは明日の会議の準備に残ってくれ」

「わかってます。オレのシュルフト語じゃあ、会議の雰囲気ぶち壊しだし」


 一人、普段と同じ、くだけたラウンジ・スーツ姿のロベルトさんが肩を竦める。


「前日までの会議の抄録をランデル語訳し、タイプしたものがこれっす。こっちが今さっき届いたばっかりの、本日の午前中に行われた次官級の会議の、シュルフト語の抄録。これを今から大至急で翻訳して、タイプに打っておくっす」

「頼んだ。――結局、毒ガスの禁止条項を盛り込むか否かがで揉めているようだな」

「以前も言いましたけど、小国の賛成をもぎ取るのは結構、大変でしょうね」

「わかっている」


 殿下はロースト・チキンのサンドイッチを食べながら、書類をチェックしている。ジュリアンが殿下のカップに熱い紅茶を注ぐ。


「……エルシーは午後はどうする? ロベルトの手伝いばかりでもウンザリだろう?」


 急に尋ねられて、わたしは食べかけのサンドイッチを急いで飲み込み、殿下に向き直る。


「お手伝いに関しては、ウンザリはしていません。仕事ですから、それはいいんですけどね。……午後はマニキュアのために、サロンを予約してもらいました」

「……いったい何にウンザリしているんだ、エルシー」

「もしかして、エルシーたんがウンザリしてるのって……」


 ロベルトさんの一言だけで、殿下も配下の方々も、わたしが何にウンザリしているか、きっとわかって下さったと思う。


「サロンはここから近いのか? 誰か護衛を――」


 殿下が周囲を見回せば、ハンナが進み出て頭を下げた。


「サロンまではわたしがお伴いたします。ここから歩いてもすぐの場所で――」 

「念のため、ジュリアンも連れていけ」

「畏まりました」


 ジュリアンがお茶を注いでいた手を止め、頭を下げる。


「六時までには戻る」


 殿下はそう言って、配下の方を引き連れ、軍縮会議に向かわれた。

 




 サロンは一時半の予約だと言うので、わたしは少し考えて、プルオーバーを脱いでツイードの上着を着、さらにウールのケープを羽織り、ジュリアンとハンナとともに大使館を出た。


「馬車を呼ぶまでもない距離で……」

「ええ、構わないわ」


 久しぶりに外を歩くと、それだけで気が晴れるようだ。石畳の街路はさすが、伝統ある古都の風情がある。


『予約をしていた、ランデル大使館のものです』


 ハンナさんが声をかければ、サロンのオーナーらしい、中年の女性が出迎えてくれた。


『ランデルからいらした方ですね。通訳は必要かしら』

『いえ、だいたいわかります』


 わたしがシュルフト語で答えれば、マダム・ヒューラーと名乗った女性が頷き、すぐに奥の個室に案内され、鏡の前の椅子を勧められる。


『ネイルケアと……髪はどうされます?』

『一週間、長距離列車に乗り続けて、ボサボサになってしまって……今夜は大切な夜会があるんです』


 わたしが有り体に言えば、マダムは大きく合点した。


『なるほど、承知いたしました。明日からもまとめやすいように考えましょう』


 わたしは爪を磨いてマニキュアを塗りなおしてもらい、髪の毛も綺麗に整え、夜会に相応しくまとめ上げてもらった。






 施術を終えると、殿下から現金を預かっていたジュリアンが支払いを済ませ、わたしたちは大使館へと戻る。運の悪いことに、玄関のところでバッタリ、大使の令嬢であるキャロライン嬢に出くわした。


「あら、いやだわ。早速、愛人がちゃらちゃら着飾って」


 聞えよがしに言うキャロライン嬢に、ジュリアンが咄嗟にわたしを庇おうと前に出る。わたしはそれを軽く制止し、じっとキャロライン嬢を見つめた。


「……な、何よ、何か文句あるの? 愛人のクセに」

「もちろん、あるわ。なぜ、ないと思うの。わたしがあなたの発言を殿下に告げ口しないと、どうして思えるのか疑問だわ。……殿下はわたしへの攻撃はすべて排除すると誓ってくださったわ。あなた、昨夜の晩餐会から追い出されたのに、まだ、懲りないの?」

「……フン、どうせ後、数日で国に帰るクセに!」

「あなたがここで威張っていられるのは、あなたが大使のご令嬢だから、あなたが偉いわけじゃない。わかっていらっしゃる?」


 キャロライン嬢が眉を顰め、じっとわたしを睨みつける。


「何が言いたいの?」

「……つまり、あなたのお父様が大使じゃなくなったら、あなたはここにいられない。あなたの軽はずみのせいで、お父様が職を失うことがないといいわね?」

 

 キャロライン嬢が青い目を見開く。


「な……わたくしを脅すの? この性悪が!」

「脅すなんて人聞きの悪い。忠告して差し上げているだけよ。言っておくけど、わたしはいちいち、あなたの発言を殿下に告げ口するつもりはないわ。でも、ジュリアンは何かあれば、殿下に全て報告するように命じられているの。わたしが止めても、あなたがわたしを『愛人』呼ばわりしたと、殿下に報告するでしょうね。昨日のことがあるから、きっと殿下はすぐに、あなたのお父様に苦情を申し立てると思うわ」


 キャロライン嬢はキュッと唇を噛んで、わたしを睨みつけ、忌々しそうに吐き捨てた。


「なんて女なの! ステファニー様の婚約者を奪っておきながら……!」

「わたしから殿下に近づいたわけでもないのに、殿下はわたしと結婚すると言い張っていらっしゃるの。昨夜だって、わたしはあなたを追い出せなんて、一言も言っていないけど、殿下はあなたを追い払ってしまった。これ以上殿下を怒らせて、何をするか、わたしにも予想はつかないの。わたしを卑猥な言葉で罵って殿下を怒らせて、顔が変形するほど殴られた方をこの目で見たわ。どうせ数日と思うなら、その数日の間だけでも、大人しくしていらっしゃった方がいいわ。……これは親切心からの忠告よ?」


 キャロライン嬢は真っ青になって反論もできず、そのまま乱暴に踵を返してどこかに行ってしまった。


「いやだわ、まるでわたしが脅したみたいじゃない」


 わたしが肩を竦めて言えば、ジュリアンがポツリと言った。


「……結果的にはそうなってますね……」

 

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― 新着の感想 ―
ツンケンしてる割には「でもでもだって」で何も決められなかったエルシーが、やっと図太さと伯爵令嬢っぽさを押し出してきて楽しくなってくる段。笑
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