33、ビルツホルン
リーデンから東、クレヴァネス山脈を突っ切る山道の難所を越え、列車はアルティニア帝国の首都、ビルツホルンの郊外に入った。駅まではもう、少し。
ビルツホルンは、神聖帝国以来の伝統を誇る、大陸有数の歴史ある古都だ。
音楽や絵画などの芸術の都としても名高い、憧れの街。
わたしが足を踏み入れることがあるなんて、想像もしていなかった。
――ましてや、王子の随行員としてなんて。
駅は市街の外れにあり、駅からは馬車で、わがランデル王国の駐在大使館まで向かうことになっている。
今回、アルバート殿下は講和会議に付随する軍縮会議の全権大使として、ランデル王国の第三王子にして、陸軍第一司令部司令の身分で派遣されている。故に、ビルツホルンの駅に到着する前に、大使らの出迎えに備えて軍服を着用していた。金釦のついた濃緑色の上着に黒いトラウザーズ、黒い長靴。黒いタイには青いサファイアのタイピンが光る。
殿下は背も高く均整の取れた体つきだから、本当に軍服がよく似合う。黒い髪をかっちりと撫で付け、徽章のついた黒い軍帽を被れば、整った精悍な美貌がさらに引き立ち、ついつい、見惚れてしまいそうになる。
だが――
「大使の出迎えとか、七面倒臭ぇ」
どうしてこう、言葉遣いだけが、残念なのか。
これで何とかボロを出さずにやっていると言うけれど、ちょっと信じがたい。
じっと殿下を見つめていた視線に気づいたのか、殿下がわたしを振り返り、検分するように見た。
わたしは濃いグレイのツイードのスーツに、レースの襟のついた絹の白いブラウスを着て、紺の大きなリボンのついたトーク帽を斜めに被っている。黒い絹のストッキングに黒い靴。寒さに備え、毛皮のついた濃紺のウールのケープが準備されている。
「今日も綺麗だな、エルシー。少し地味だが、それがお前の美しさを引き立てる」
褒めてくれるのは嬉しいけれど、秘書官としてはちょと派手なくらいだ。
「わたしは陸軍事務員の制服の方がよかったのでは」
「そんなダッサい服装の婚約者を連れて歩けるか、みっともねぇ。ゴシップ紙の餌食にされるぞ」
……そうなのだ、あの山の中の駅で殿下のプロポーズを受けてしまったために、殿下は随行員に対して、わたしを「秘書官」ではなく「婚約者」として扱うように通達したのだ。
「国王陛下のお許しも何もなく、勝手なことして大丈夫なのかしら。議会が承認した婚約者はステファニー嬢ですよ?」
「外野の言うことなんて気にするな。どうせ、俺はお前としか結婚しない」
どっかりと座席で長い脚を組み、殿下は薄く窓を開けて胸ポケットから煙草を出し、口に咥える。殿下の胸元に光るタイピンは、特に請われて、父マックス・アシュバートンの形見のサファイアをお貸ししている。
絶対にわたしと結婚する、という決意を示すのだそうだ。ちょっとよくわからない。
ノックの音がして、やはり軍服姿のロベルトさんが顔を出した。
「エヴァ嬢がお別れを言いたいって、食堂車にいますよ?」
「少しだけ顔を見せて来ても?」
「ああ、でもあと十分で着くから、ちょっとだけだぞ?」
殿下に断りを言って、わたしはロベルトさんについて食堂車に向かう。
「エリース! お別れなんて残念だわ。せっかくお友達になれたのに」
立ち上がって出迎えるエヴァ嬢と握手を交わし、わたしも微笑む。
彼女とはあれから幾度かお茶をして、すっかり親しくなった。エヴァ嬢には、エルスペスという名は発音しづらいらしく、いつのまにかエリースという愛称で呼ばれるようになっていた。
食堂車で向かい合って座り、二人がっちりと手を取り合う。
「あなたの婚約が認められるよう、陰ながら応援するわ! あの狂犬を宥められるのは、あなたしかいないもの! エリースこそ、未来のランデル王妃に相応しいわ!」
「いえ、あの、アルバート殿下は第三王子なので、たとえ彼と結婚できたとしても、わたしが王妃になる可能性はほぼなくてですね……」
「そうだわ! わたくしとフェルが結婚して生まれた、アルティニアの皇子か皇女と、あなたとアルバート殿下の間に生まれた王子か王女を結婚させたらいいわ! そうすればもう、あんな悲惨な戦争もなくなるし! 素敵だわ! わたくしたち親戚同士になれば、世界も平和になるわ!」
「お願いですから、そんな先走らないで……」
殿下とカーティス大尉の話では、フェルディナンド大公とエヴァ嬢の結婚が、すんなり許される可能性は低いようだったのに、彼女は自分の結婚に横槍が入るなんて、想像すらしていないらしい。
一人で盛り上がっていくエヴァ嬢に呆れながら、わたしはふと、ステファニー嬢のことを考えた。
きっと、殿下が戦地から戻られるのを待つ間、彼女もこうやって、殿下との未来を夢に描いていたのだろう。殿下が自分を内心、疎んじていたなんて、かけらも考えていなかったに違いない。そんな彼女にとって、突然現れて殿下の心を奪ったわたしは、無礼で卑しい泥棒猫に違いない。
わたしははしゃぐエヴァ嬢の手を握って、静かに窘めた。
「人生、一寸先は闇と申しますわ。……フロイラインは、ビルツホルンに着いたら、元の婚約者に会われるとして、そこからどう、なさるの? いつまでご身分を隠しておかれるおつもり? そろそろグリージャからの追っ手も追いつくころじゃないかしら」
わたしの問いに、エヴァ嬢は気まずそうに視線を泳がせる。
「ええ、そうね……フェルの元に行くことしか考えていなかったわ」
「婚約を再び取り結ぶことはできそうですの?」
「あちらから申し出てもらえれば、きっと……」
わたしはエヴァ嬢に顔を寄せて、小声で言った。
「わたしも、フロイラインとお近づきになれて、嬉しいです。何かあったら、わたしを頼っていただきたいの。わたしはずっと、ランデルの大使館にいます。年の近い友人が訪ねて来るのは、不自然じゃない。ランデルの大使館なら、あなたの身分を明かさずに保護できます」
わたしの言葉に、エヴァ嬢が眉を寄せた。
「わたくしが、フェルの側にいられないかもしれないと?」
彼女の碧色の瞳が、自分と彼の間でそんなことはあり得ないと告げる。わたしはただ、微笑んだ。
「単なる保険ですわ。グリージャの大使館を頼るくらいなら、わたしのところに来て欲しいと思っただけで。わたしにとっても数少ない、大事な友人ですもの。……身分違いをあなたが咎めないでくださるなら」
エヴァ嬢の目が輝いた。
「もちろんよ! ええ、何かあったら、いえ、何もなくてもお訪ねするわ。せっかくできたお友達ですもの!」
嬉しそうに頷くエヴァ嬢の表情から、とりあえずグリージャ大使館に駆け込まれる危険は回避できそうだと、わたしはホッとした。
エヴァ嬢と抱擁を交わして、別れを惜しむ。――とても素直でいい子だ。ちょっとばかし頭がお花畑だけど。彼女が傷つくことがないように、祈るばかりだ。




