34、婚約者
シューッと白い蒸気を上げて、列車は滑るように駅に停車した。窓から見れば、ホームにトップハットにフロックコート姿の紳士の一団が並んでいる。
チッと殿下が行儀悪く舌打ちする。
「面倒臭ぇ。あんなに大挙して来なくてもいいだろうに」
「腐っても王子がやってくるんですから、あんなものではありませんの?」
「まだ腐ってない!」
扉が開き、カーティス大尉の先導でわたしたちも個室を出る。
「エルスペス嬢のことは電報で知らせてありますが、どこまで情報が回っているかはわかりません。大使が、どう出るのかも――」
カーティス大尉が殿下の耳元で囁き、殿下がわたしの腰をぎゅっと抱き寄せて頷く。
「エルシー、堂々としていればいい。お前は俺の婚約者だから」
カーティス大尉が心配そうにわたしを見た。――在アルティニア大使館には、当初、わたしは秘書官の身分で届け出ていたはずだ。それが到着直前に「王子の婚約者」だとの申し送りがあっても、大使館の人はわけがわからないだろう。
正直に言えば、こんな形で「婚約者」だと言って連れ出されるのは苦痛だ。普通に考えても認められると思えないし、その非難の眼差しはわたしに向かってくるのだし――。
殿下はいったい何を考えているのか。
不安のまま、殿下の後について列車を降りる。車掌が頭を下げているのに会釈をし、殿下の後ろに立つと、殿下がわたしの腰を抱き寄せた。
「アルバート殿下、長旅お疲れ様でございます。駐在アルティニア大使のクラウザー子爵スティーブン・バートレットです。こちらは妻のナタリー。殿下のご滞在中、誠心誠意、お世話させていただきます」
大使のクラウザー子爵は壮年でやせ型、灰色の口ひげを生やした厳しい雰囲気の人で、隣の夫人を殿下に紹介して、握手を求める。殿下も如才なく応じてから、わたしを紹介した。
「俺の婚約者のミス・エルスペス・アシュバートン。故リンドホルム伯爵の令嬢だ。滞在中は世話になる」
わたしが無言で会釈すると、大使夫妻は何とも言えない表情で互いに顔を見合わせる。
「その……電報では確かに伺いましたが……私が本国から聞いた話では――その――」
「俺が結婚するのはエルスペス嬢だ。彼女を婚約者として扱わないのであれば、大使館への滞在はやめる」
大使はわたしを値踏みするように見て一瞬、眉を顰める。
「承知いたしました。大使館でもお部屋はお隣にしております。馬車を待たせておりますので」
「ありがとう……エルシー、行こう」
殿下に促され、わたしは歩きだすが、周囲の大使館員と思われる人たちの視線が痛くて、顔が上げられない。
「大丈夫だ。……顔を上げろ」
殿下に囁かれ、わたしは深呼吸して顔を上げる。――全くどういうつもりなんだか!
大使夫妻と馬車に同乗して大使館に向かうが、道中は本当に気まずいったらなかった。
殿下は馬車の中の異様な雰囲気をものともせず、やたらベタベタと身体に触れて話しかけてきて、それもまた大使夫人の眉を顰めさせているのだが、全く気にするようすもない。
「そうだ、聖ゲオルグ大聖堂には、大使館から近いのだろうか」
殿下が大使に尋ねれば、大使が灰色の眉を動かす。
「馬車で二十分ほどですかな。大聖堂に行かれるご希望がおありで?」
「ああ、空き時間に是非、行きたい」
「ならば、機会を見て我々もご一緒に――」
「いや、それには及ばない。完全に私用だ。……な、エルシー」
殿下が悪戯っぽく笑いかけて、わたしはハッと思い出す。――おばあ様の喪中にも関わらず関係を持ってしまったから、ビルツホルンについたら大聖堂で懺悔すると言っていたのを。
何となく顔が熱くなって、わたしは視線を逸らして俯く。結局、終始気まずい雰囲気のまま、わたしたちは在アルティニアのランデル大使館に到着した。
在アルティニアのランデル大使館は、本来は別の場所にあったのだが、戦争直前に一度閉鎖されていた。休戦協定が締結され、講和会議が開かれるにあたり、大使館を再設置しようとしたが、以前の建物は別の用途にすでに転用されてしまっていた。急遽、とある大貴族の館がアルティニア政府より提供されたのだという。アルティニア政府の威信がかかっているだけあって、宮殿と言ってもいいくらいの、立派なお屋敷だ。
殿下の部屋は東翼の二階の続き部屋で、わたしの部屋はその隣。ロベルトさんら侍従官の部屋は三階なので、本来ならわたしの部屋もそちらに用意されていたと思われる。……つまり、殿下がわたしを「婚約者」だと言い張ったのは、わたしの部屋を隣に用意させるためなのだろう。
ジュリアンが指示して、わたしのスーツケースを運び込み、大使館のメイド数人がドレスをクローゼットに入れていると、コネクティング・ドアから殿下が現れた。
「今夜、大使主催の晩餐会が開かれるらしい。お前も出席するからドレスと――」
そしてクローゼットの前で働くメイドたちを見て言った。
「この部屋の係は誰だ」
二十歳くらいのメイドが手を止め、殿下に向き直って頭を下げた。
「わたしです。ハンナと申します」
「晩餐会に向けて、彼女の仕度を手伝って欲しい」
そのやり取りを聞いて、わたしは思わず尋ねていた。
「……わたしも出なければならないのですか?」
大使夫人はわたしのことをあからさまにいない者として扱って、馬車の中はまさに、針の筵状態だった。もう、あんな思いはしたくないのだけど――。
「晩餐会には講和会議の全権大使であるマールバラ公爵も出席する。――お前を紹介したい」
マールバラ公爵は国王陛下の従兄で、殿下の次の王位継承順位を持つ方だ。わたしは、有力な後ろ盾が欲しいと言っていた、殿下の言葉を思い出す。
「もしかして、わたしをビルツホルンに連れていらしたのは――」
「それもある。マールバラ公爵は軍の特務機関の長官を長く勤めていた。……つまり、お前の父親の上司だったんだ」
初めて知る事実に、わたしは息を呑む。
殿下はクローゼットから、ハンナに指示していくつかドレスを並べさせる。しばらく考えて、「これにしよう」と、黒い絹のイブニング・ドレスを選んだ。ドレスの膝から裾にかけて金糸・銀糸で豪華な東洋風の、写実的な鳥の刺繍が入っている。
「鴛鴦って言うんだ。……夫婦和合の象徴だ」
殿下はそう言うと、ハンナに黒いハイヒールと、黒い長手袋を用意させる。
「宝石ケースはお前が管理しているんだな」
ジュリアンに言えば、彼が宝石ケースを開いて、中を見せる。
「このドレスには真珠だな。……そうだ、今夜はコーキチも来るんだ。ビルツホルンでの最初の商談らしい」
殿下は真珠のロングネックレスを取り出しながら、わたしに笑いかけた。
でもわたしは、父の上司だったというマールバラ公爵のことが気になって、上の空だった。
アルバート殿下を歓迎する晩餐会のために、わたしはハンナに手伝ってもらい、黒地に鴛鴦の刺繍のドレスを纏う。亜麻色の髪は左右を編み込みにしてうなじでシニョンにし、銀のクラッチバッグを持って、殿下のエスコートで広間に向かった。今夜の殿下は黒のテールコート。
「軍服ではないんですね」
少し残念と思いながら尋ねれば、殿下は笑った。
「明日、軍縮会議全体のレセプションがあるから、その時は軍服を着る。正装のね」
「……明日もあるのですか? まさか、わたしは行かなくてもいいですよね?」
「んなわけあるか。何のために連れてきたと思っている」
「もしや、また間諜ごっこ?」
わたしが冗談めかして言えば、殿下も肩を竦める。
「まさか。……お前と俺の婚約のお披露目だ」
「……そんなの勝手にしたら大変なことになります。わたしの苦労も少しは思いやって」
殿下の腕に縋る手で、さりげなく抓ってやれば、殿下は一瞬、眉を顰める。
「すまない、わかってる。……でも、ステファニーとの婚約は俺が望んだことじゃないと、言い続けておかなければこのまま結婚させられてしまう」
馬車の中の態度から、大使夫人がわたしのことを不快に思っているのは明らかだ。その上、社交界デビューもしていないわたしが、正式の晩餐会に出るなんて。
その不安を訴えれば、殿下は安心させるように微笑み、わたしの腕を撫でた。
「大丈夫だ、お前のマナーは完璧だ。会話は適当に流せ。少なくとも、今夜お前に文句をつける奴がいたら、俺が排除する。……今夜の招待客の中で、一番身分が高いのは俺だから」
殿下の手がわたしの手をぎゅっと握る。
手袋越しのその感覚しか、わたしには縋るものはないのだ。




