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30、花束

 突き飛ばされて、殿下がようやくわたしか離れてくれた。

 たぶん、殿下も停車することに気づいたからだ。殿下はチッと舌打ちして、金色のギラギラした瞳でわたしを睨めつけながら、手の甲で唇を拭う。

 その視線があまりに欲望を孕んでいるので、わたしは羞恥に耐えきれず、目を逸らして窓の外を見る。


 山の中の小さな駅だった。……次第にスピードを落としていって、列車が静かに止まる。シューッと機関車が吐き出した白い蒸気が、窓の外を流れてくる。

 

 わたしは殿下を睨みつけ、半ば捲りあげられたスカートの裾を整え、皺を伸ばす。


 本当にプラットホーム以外、何もない小さな駅だった。なぜこんなところに停まるのだろうと考えていると、ずっと座席に膝をついてわたしに覆いかぶさるような状態だった殿下が、ポツリと言った。


「……列車が、すれ違うんだ」


 しばらく停車していると、警笛の音がしてホームの向こう側に、進行方向からきた列車が滑り込んでくる。

 殿下は溜息を一つつくと、わたしの隣の座席にドサっと腰を下ろし、ぐったりと背もたれに身体を沈める。


「結婚してくれ、エルシー」

「はああ? それ、今言うことですか? ふざけてるの?!」

「ふざけてない。本気だ。……何度もプロポーズしているのに、いつも返事を誤魔化されてる。……チクショウ!」


 ガバリ、と殿下が身体を起こすと、ギラギラした金色の瞳で、わたしをじっと見つめた。


「お前はリンドホルム伯爵だったマックス・アシュバートンの娘で、第三王子の俺と結婚するのに、何も問題のない身分のはずだった。ステファニーと公爵が大人しく婚約を諦めてくれていれば、そしてお前がちゃんと代襲相続を認められていれば、俺とお前の結婚を阻むものは何もないはずだったんだ! それなのに、お前は王子の愛人呼ばわりされて、あまつさえ、外交部の木っ端役人までアバズレだのビッチだの、言いたい放題言いやがって! 許せねぇ!」

「……リジー……」


 いったい何が、殿下をここまで怒らせたのか、わたしもようやく理解した。

 ハーケンは、わたしを爵位と玉の輿を狙った売春婦紛いの女だと思い込んで、下品な言葉で罵ったのだろう。そして、グリージャの王女をこそ娶るべきだなどと、余計なことを言ったに違いない。でもそれは――。


「リジー、仕方ないわ。傍から見たら、わたしは愛人にしか見えないもの。要するにそれは――」

「ああ、俺が悪い。俺が我慢しきれなくてお前を抱いちまったからだ。貴族令嬢に結婚を申し込む作法通り、結婚式まで手を出さず、清い仲でいるべきだったんだ。でも、そんな悠長なことしてたら、お前はハートネルの求婚を受け入れちまっただろうが!」

「そんなことは――」


 わたしは目を逸らす。

 わたしは正直に言えばハートネル中尉のような人は、個人的には好きではない。チャラチャラしているし、散々、からかわれた記憶しかない。突然、掌を返されて、本気で結婚したいなんて言われても、信じられないという気持ちの方が大きい。


 ――それに、彼はわたしが司令部をクビになる、その時を待っていたのではないか、という疑いがどうしても消えない。仕事を失い、経済的に追い込まれたわたしの前に現れ、救世主のように求婚するつもりだったのではないか。

 だが、アルバート殿下がわたしを秘書官に登用したことで、彼の思惑は外れる。

 急接近してきたアルバート殿下に危機感を煽られて、慌てて求婚してきたようにしか見えなかった。

 

 最初からちゃんと好意を示して求婚してくれていたら、違ったかもしれない。

 そうしておばあ様にきちんと挨拶をしてくれていたら、おばあ様だって、彼(ハートネル中尉)との結婚を認めたかもしれない。

 そうなっていたら、もしかしたら――。


 殿下は溜息をついて言う。


「……爵位を失ったお前が、王子の俺とじゃ釣り合わないって尻込みするのも当然だ。だからこそ、俺は――どうしても、奪われたくなくて、お前を手に入れるためならと、自分自身に言い訳してた。……それが、ここまでお前を貶めることになるなんて、想像できなかった。だから俺は、事情も知らずにお前を貶める奴らも、何より自分自身が許せない」

「リジー……」


 グシャリと黒髪を掻き毟って頭を抱えてしまった殿下を見て、わたしは何と言っていいかわからなかった。

 今さら、彼の愛を疑うつもりもないけれど、でもどれだけ愛されていたとしても、この恋が実るという、道筋は全く見えていない。

 この狭い個室(コンパートメント)の中に二人だけでいる時間、わたしたちは許された恋人であるかのように錯覚してしまう。

 でも一歩世間に出れば、わたしは王子を色仕掛けで誑し込んだ愛人だ。

 いずれ王子は正道に立ち戻り、相応しい相手を妃に迎え、愛人は捨てられる。おそらく誰もが、そう思っているのだろう。

 他ならぬわたし自身ですら、過去(リジー)も現在(殿下)も変わらず愛していると自覚はしても、二人の未来を信じられない。


 だから、何度プロポーズされても、イエスと答えることができないのだ。


 コンコンと窓を叩く音がして、ギョッとして窓の外を見れば、ホームに地元の子供が二人、バスケットに入れた何かを掲げている。


「物売りだ」


 殿下が立ちあがって窓を開ける。ひゅう、と風が吹き込んで、その冷たさに、わたしは思わず身を縮める。外は小雪が散らついていた。

 少し背の高い十歳くらいの男の子が、古びた蔓で編んだバスケットの中から、白い花束を見せる。ツイードの上着は襟も裾も擦り切れ、肘にはパッチがついて、袖丈は少し短い。黄ばんだシャツに、やはり接ぎの当たった毛織のズボン、ボロボロの布靴を履いている。女の子は少しだけ背が低く、栗色の髪をお下げにし、臙脂の毛織のショールの下は、やはり毛織の茶色いワンピースを着ている。日に一度か二度か停まる列車を目当てに、この寒空の下で待つのだろうか。


『お兄さん、そのキレイなお姉さん、恋人? お花はどう?』

『花? こんな時期に?』 

『布で作った造花だよ! いつまでも枯れないんだ!』


 男の子が窓の隙間から、小さな白い薔薇の花束を差し出してくる。端切れを糊で固め、細い針金を芯にして精巧に作られたそれは、遠目には本物の花のように見えた。殿下がそれを受け取り、花びらを摘まんで眺めていると、女の子がわたしに言う。


『手作りの木彫りの馬もあるわよ! 父さんはここらでは名人なの!』


 差し出された木彫りの馬は白く塗られて、青と赤の彩色が施され、丁寧だが素朴な造り。反射的に手にとってしまい、もう買うしかなくなって、わたしが戸惑っていると、殿下が微笑んで、男の子のカゴからもう一つ、青い小花の花束を選ぶ。


『青いのは勿忘草(ワスレナグサ)だよ! この辺りに春になると咲くんだ』


 殿下はその二つの花束を持ってにやりと意味ありげに笑うと、突然、わたしの前に膝をついて、わたしに花束をささげた。


『俺と結婚してれ、エルシー。一生、お前だけを大切にする』


 突然、目の前で繰り広げられるプロポーズに、子供たちは二人とも榛色の目を丸くし、一方のわたしは木彫りの馬を抱きかかえて茫然とする。……ちょっと、こんな場所でやめて!


『え……えっと……』


 ちらりと子供たちを見れば、二人は頬を上気させ、期待に満ちた目で見つめている。……この状況で、断れる人がいるだろうか?


『……はい(ヤー)……』


 わたしが躊躇いがちに花束を受け取ると、殿下が拳を天に突き上げて叫んだ。


『やったぞ! お前たちも聞いただろ? 何度もプロポーズして、やっと了解をもらったんだ! お前たちの花のおかげだな!……ホラ、代金だ!』


 殿下はポケットからピカピカ光る金貨を取り出して、ポイっと男の子に投げ、男の子が両手でガッチリ受け取る。


『こんなに!』

『金貨なんて見るの初めて!……兄ちゃん、これで母さんの薬が買えるね!』

『祝儀込みだ。俺の幸せのお裾分けだ! 二人で仲良くわけるんだぞ?』

『ありがとう、お幸せにー!』


 発車のベルが鳴り、シューッと蒸気が上がって、汽車がゆっくりと動き始める。子供たち二人が手を振ってくれたが、汽車はどんどんスピードを上げて、二人の姿はあっという間に見えなくなった。

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