29、ランデルの金狼
「何のためにそんな!」
「エヴァ嬢が仰るには、彼女が外国に嫁ぐのを阻止し、いずれ王太子を廃して女王に担ぎ上げたいのだろうと。それと、我が国の内部の、グリージャを実質的に保護国化したい勢力の、利害が一致したのでは――」
「待てよ。女王に担ぎ上げたところで、ランデルに保護国化されちまったら、意味ねーじゃん!」
「その辺りの危険は承知の上で、ランデルの武力をアテにしているのかも。自国の独立の誇りを棄てても、自らの権勢のために動く者もいるでしょうし」
わたしは政治向きのことはよくわからないけれど、議会が強い力を持つ我が国と異なり、グリージャは王太后が政治に口出しするような国だ。女王と外国の王子なら、いくらでも操れると思っているのかもしれない。
「……どっちにしろ、ウチの殿下をずいぶんと舐めてくれるじぇねーかよ……」
眉を顰めたロベルトさんと、わたしはエヴァ嬢を見比べる。
「ランデルの金狼って……」
「それ、戦場での殿下の渾名だ。狼みたいな金色の瞳をしているせいらしいけど、獣みたいに容赦ないって恐れられてた。実際、滅多にないけど切れるとコワイ。……シャルローの後、撤退する、しないで軍の上層部が揉めた時にブチ切れまくって、少数の兵で敵の砦に特攻かましたことがあって……怒りが臨界を越えると物理方面の攻撃性が暴走して、狂戦士と化しちまう。まともにやりあったら、俺なんか多分、瞬殺」
「ランデルの狂犬とも言われてましたわ。塹壕戦で、わが軍はかなりの損害を受けたと聞いています」
エヴァ嬢の言葉に、ロベルトさんがケッと顔を歪める。
「塹壕戦での被害は、お互い様だっつの。三年前の、グリージャの突然の中立破棄で、めちゃくちゃ被害が出たんだ。来ないはずの方角から、敵が来るんだからな。我が国は中立を維持する代わりの、通商協定まで結んでたんぜ? それが全部パアだし、さらに王子は死にそうになるし、被害者ヅラすんの、まじでやめて」
エヴァ嬢は困ったように眉尻を下げる。
「戦争のことはわたくしもわかりませんが、あんな最前線に王子がいるなんて、想像もしてなかったんじゃないかしら。軍の上層部の予測では、短期に決着がつくはずだったんです。でも降伏ギリギリで、狂犬が率いる部隊が暴れ出して、わが軍の砦をいくつも落として、情勢がひっくり返ってしまったんです」
「ああ、それがさっきのレヴァンヌ砦だよ」
「……狂犬……」
たしかに、殿下は大型犬じみているけれど、どっちかと言えば駄犬だと思っていた。
「さすがに一国の王子に狂犬はまずかろうと、代わりに金狼と……」
その時、ドカドカと乱暴な足音がして、ガラリと食堂車の扉が開いた。
見れば、殿下が金色の瞳をぎらつかせ、何かを引きずるようにして入ってきたのだった。
「殿下!」
「リジー!」
わたしとロベルトさんが立ちあがり、エヴァ嬢が戸惑ったように見上げる中、殿下はドンっと黒い大きな何かを床に投げ出した。
それは、殴られて顔が変形した、男性だった。
唇は腫れあがり、唇の端から黒い血が固まってこびりつき、頬は青くなっている。
『きゃああああ!』
『カーラ、しっかりして!』
叫んで失神しかけたのは、エヴァ嬢ではなくて、付き添い婦人の方だった。
ガタン、ゴトン……列車の音が食堂車の中で、やけに大きく聞こえる。通路に仁王立ちする殿下は、いつもと同様、三つ揃いをパリっと着こなしているのに、全身から怒りと殺気のオーラが滲み出て、紳士らしさのかけらもなく、野生の獣のよううだった。
……そう、まさしく狂犬。
ハーケン書記官が何を言ったのか知らないが、本当に殿下の逆鱗に触れてしまったのだ。
「ヒイ……た、たすけ……」
通路に投げ出されたハーケン書記官らしき男性が、モゾモゾと動いて、殿下から逃れようとする。そこをすかさず磨き抜かれた革靴で蹴り上げ、ギラギラする金色の目で周囲を一瞥すると、ロベルトさんを見つけ、言った。
「ロベルト!」
「は、はいぃ!」
ロベルトさんがわたしの隣でビクッと背筋を伸ばした。普段の不遜さがウソのよう。
「このクソ野郎、次の駅で捨てとけ!……エルシー!」
名を呼ばれたが、わたしだって殴られた男性を見るなんて初めてのこと。恐ろしさで声も出せず、その場に立ち尽くしてしまった。
「エルシー! 来い!」
もう一度呼ばれるが、ギラギラと殺気立った金色の瞳に見据えられて、一歩も動くことができない。
食堂車の通路では、蹴られて血だらけになったハーケン書記官らしき男性が、痛みに呻いてもぞもぞと芋虫のように蠢いている。
ガタン、ガタン……
こんな暴力沙汰にも列車は規則正しく揺れ続け、窓の外ではのどかな風景が後ろへと飛んでいく――
わたしは夢でも見ているような気分で、呆然とその場の情景を眺めていた。
「エルシー!」
殿下が大きな手を前に差し出して、もう一度呼ぶ。
ドン、と背中をロベルトさんに押され、わたしがハッとして振り返れば、ロベルトさんが殿下の方に行くように、必死に促していた。
「……大丈夫、エルスペス嬢には無茶はしない。……たぶん。……お願いだから、殿下を宥めて!」
わたしは通路に横たわって呻き声を上げている、ハーケン二等書記官――と思われる物体――を避けるように、通路を殿下に向かって踏み出す。
ガタン、ゴトン……
列車の規則正しい揺れと、ドキンドキンと大きく脈打つ自分の心臓の音が同時に聞こえてくる。
廊下に倒れている男性を踏まないように、食堂車のテーブルに縋って歩み寄り、彼の脚を跨ごうと片足をあげたところでガタンと大きく列車が揺れ、わたしはバランスを崩してしまった。だが、素早く歩み寄った殿下が腕を伸ばしてわたしの腕を掴み、ぐいっと強引に抱き寄せられ、その胸に倒れ込む。殿下の両腕がギュッとわたしを抱きしめた。
「……エルシー。……ひどいことはされていないか」
「いいえ、そんなことは、何も――」
「なら、よかった――」
殿下がひどく渇いたような声で言うので、わたしは首を振った。殿下は金色の瞳でじっとわたしを見下ろし、大きな手がわたしの頬に手を当て、そのまま唇を唇で塞ぐ。
――こんな、人目のある場所で!
がっしりと抱きしめられているので、逆らうことはできなかった。
それに、もしここで殿下を振り払ったら、何かまずいことになりそうな予感がした。それくらい、殿下の状態は普通ではなかった。
だから、わたしは恥ずかしさを堪え、彼のなすがままにされていた。
時間にして、ほんの数瞬。
殿下はわたしの唇を解放すると、呆然とこちらを見ているだろう、エヴァ嬢には目もくれず、わたしの腰を抱くようにして踵を返す。
ちらりと振り向いたわたしと、びっくりして見開かれたエヴァ嬢の、碧色の目が合った。
個室に戻ると、殿下はガシャンと鍵をかけ、わたしを座席に突き飛ばすようにして強引に座らせ、窓と背もたれで囲うように、大きな身体で閉じ込めてしまう。
「……ジョナサンに聞いた。あの女は俺に結婚を迫られて、アルティニアの皇子のもとに逃げるつもりだったと」
ギラギラ光る瞳に射すくめられ、わたしは慌てて頷く。
「え、ええ……どうやら、彼女の周囲の方が、ランデルの王子が結婚を強要していると、ウソをついていたらしくて……」
「ふざけやがって……! ハーケンの野郎、なんて言いやがったと思うか?アバズレ女の身体にもそろそろ飽きただろ、グリージャの王女と真っ当な結婚をして、少しは国の役に立て、なんぞと抜かしやがった! 戦争でグリージャの奴らに殺されそうになった、俺や部下たちの前でな! あのクソ野郎! 本気で殺してやろうかと思った!」
殿下はわたしの上に覆いかぶさって、唇を塞ぐ。すべてを食いつくそうとするかのような強引なキスに、わたしは息もできないでいた。さらに彼の手が太ももを撫で上げ、荒々しくスカートを捲り上げようとするのに気づき、咄嗟にその手首を掴む。
こんな明るい時間から、やめて!
汽車は山道を走っているのでカーブのたびに大きく揺れ、時々、真っ暗なトンネルを通り過ぎる。
ゴオオオオオ……
列車の音が響く中で深い口づけに蹂躙されながら、彼の手首を必死に押さえつける。それでも諦めずにスカートを捲ろうとするので、わたしはマニキュアをして尖った爪先で力一杯つねってやった。
「ツッ……」
さすがに唇を離して睨んでくるので、わたしは必死に息を吸って呼吸を整える。
「はあっはあっ……」
「エルシー……誓ってくれ、俺から離れないと。一生、俺のものだと。エルシー……」
トンネルを抜けて、汽車に明るさが戻ってきた。窓の外は一面の深緑――時に、白いものが後ろに飛んでいくのは、溶け残った数日前の雪か。
「愛してる、エルシー」
ガタン、ゴトン……と揺れ続ける列車の個室で、殿下がわたしをじっと見つめる。
「こんな明るい時間にやめてください」
「わかってる。でも……」
だが殿下はもう一度唇を奪ってきて、やはり深く貪ってくる。長いキスが果てしなく続くうちに、列車のスピードが緩まっているのに気づく。――駅に、停車するのだ!
カーテンが開けっぱなしだ。わたしは渾身の力で殿下を突き飛ばした。
「こんな昼間から! 最低!」




