28、駆け落ち王女
殿下から聞いた話では、アーダルベルト王太子は愛人に夢中の色ボケ王子だとか。……口にこそ出さなかったが、わたしの表情からエヴァ嬢は汲み取り、早口で兄を庇った。
「お兄様は謀られたのよ。ハニートラップって言うのかしら。よからぬ思惑を持った者たちが、あの毒婦をけしかけたのよ。……あっさり引っかかったお兄様も情けないけど、お兄様よりも七つも年上なのよ? 汚らわしいったらわないわ」
「……でも、お兄様が正道に立ち戻らない限り、あなたを女王に、という不満は消えないのではないかしら。わたしが国民だったら、そんな王様は嫌だわ」
エヴァ嬢も深く溜息をつく。
「そうなのよね……わたくしが出奔することで、お兄様も目を覚ましてくださればいいのだけれど」
つまり、エヴァ嬢は、毒婦に狂ってしまった兄の目を覚まさせるために、敢えて国を出てきたというのだ。――兄は愛人宅に入り浸りで、妹は外国の王子との結婚を嫌がって国外に出奔。兄妹揃って何をやっているのかしらと、わたしがグリージャの国民だったら頭を抱えていると思う。
わたしも何となく疲れて、すっかり冷めた紅茶の残りを飲み干していると、背後からカーティス大尉が尋ねた。
「……ビルツホルンの知人という方は、あなたが国を出奔したのを、ご存知なのですか」
「電報は打ったわ。リーデンで返事も受け取って。列車が遅れて、彼はきっとイライラしているわ」
「彼?」
意味がわからず聞き返せば、エヴァ嬢は肩を竦めて、あっけらかんと言った。
「わたくし、以前の婚約者の元に向かっていますの」
わたしは思わず、目を瞠った。背後のカーティス大尉も複雑な表情だ。
エヴァンジェリア王女のかつての婚約者とは、アルティニア帝国のグスタフ皇太子の長男、フェルディナンド大公だ。王女は身分を隠して国を出奔し、政略的に引き裂かれたかつての婚約者の元に向かう。――だが乗り合わせた列車には、彼女に結婚を迫る(と思い込んでいた)ランデルの王子が乗っていて――。
「元の婚約者の方は、婚約が解消になったのに、あなたを迎え入れてくださると?」
「もちろんよ。婚約の解消は我が国がランデルに降伏したせいだけど、その後、結局、アルティニアだって降伏したんだもの。何より、わたくしたちは愛し合っているんだから」
エヴァ嬢は自信満々だが、身近にステファニー嬢という実例がいたので、わたしもカーティス大尉も疑い深くなっていて、食い気味に念を押した。
「本当に?」
「ええ。リーデンで受け取った電報でも、会えるのが待ち遠しいって。でも、困ったわね、わたくし、ランデルの王子の悪口をさんざっぱら、手紙に書いてしまったのよ。婚約を強要されて困ってるとか、何とか。周囲の者のウソに惑わされた誤解だったなんて。……フェルが、ランデルの王子にひどい態度を取らないか、心配だわ」
「……もしかして、ビルツホルンの駅まで、迎えに来ちゃったりします?」
「ああ、フェルのことだから、きっと来てくださるわ! 一刻も早く会いたいわ、一年ぶりなのよ?」
碧色の瞳を輝かせ、両手を胸の前に組んで、エヴァ嬢はいかにも嬉しそうに言うけれど、わたしとカーティス大尉は、思わず顔を見合わせていた。カーティス大尉が見かねたように言う。
「……お願いですから、ビルツホルンに着いて完全に別行動になるまでは、正体がバレないようにしてください。身分を隠して旅する王女と同じ列車に、我が国の王子が乗り合わせるなんて、どんな噂を立てられるかわかりません。それこそ、殿下があなたを無理に攫ったかのように誤解されたら、大変な国際問題になります」
カーティス大尉に言われて、エヴァ嬢は初めて、そのことに気づいたらしい。
「……まあ、そうね……。どうしましょう。だからこの列車はダメだって、しつこく言われたのね。でもわたくし、一刻も早く、ビルツホルンに着きたかったの。きっと、フェルが心配しているに違いないから。三日もリーデンに足止めなんて、それこそ、国に連れ戻されてしまいますでしょう?」
たしかに、身分を隠して昔の婚約者の元に向かう身としては、一日も早く目的地に着きたいと思うのは当然だ。でも、間が悪すぎる……。エヴァ嬢は隠しているつもりでも、鉄道会社にはバレバレで、すでにわたしたちにもバレている。そもそも本気で隠す気もないのかもしれない。
「しかし……ハーケンはあなたの正体に気づいたでしょうね? 二等書記官で、何度かグリージャとの交渉のために、貴国にも足を運んでいるはずです」
カーティス大尉の問いに、エヴァ嬢は首を傾げる。
「ハーケン?……さあ、わたくし、外務大臣や大使ならともかく、ランデル外交官の名前と顔までは。でも、外交官ならわたくしの写真ぐらいは見ているでしょうし、気づいたかもしれませんわね?」
「ならば今頃、殿下もあなたの正体を知らされているでしょう」
その時、乱暴に扉が開き、ロベルトさんが駆け込んできて、カーティス大尉の耳元で囁いた。
「ジョナサン! 殿下を止めてくれ! 俺じゃ無理だ! このままだと、殿下がハーケンを殴り殺しちまう!」
ロベルトさんの言葉を聞いて、カーティス大尉はハッとして立ち上がるけれど、わたしとエヴァ嬢を見て躊躇する。
「ロベルト、僕は殿下の個室に向かうから、お二人を――」
ロベルトさんは向かい合ってお茶をしているわたしたちを見て、眉を上げた。
「マジで! いつの間に、何が……」
「だいたいの事情はそちらの――姫君から聞いた」
姫君、という響きに、離れていた付き添い婦人がハッと顔を上げる。
「やはり、ハーケンは彼女の素性に気づいていたんだな?」
「ああ、それで――もう、完全に殿下の地雷を踏みまくってくれて……あの人ああ見えても、士官学校じゃあ拳闘部だったんだよ! ジュリアンとラルフで押さえてるけど、俺やジェラルドじゃ歯が立たない!」
ロベルトさんもジェラルド・ブルック中尉も、陸軍士官として十分、鍛えられた体格をしているけれど、本気で切れた殿下には太刀打ちできないらしい。
「僕だって、喧嘩では敵わないよ」
「あの方向に切れちゃったら、俺じゃ無理なんだよ! レヴァンヌ砦に特攻かました時みたいな切れ方だから! ああなっちゃった殿下を説得出来るの、ジョナサンだけだから!」
カーティス大尉はロベルトさんにわたしの護衛を頼んで、足早に特別車両へ向かう。付き添い婦人が堪えきれずに、エヴァ嬢の近くまでやってきた。
『約束が違います。正体は明かさないって……』
『しょうがないじゃない、バレてしまったんだから』
そんなやり取りを耳にして、ロベルトさんがわざとらしく肩を竦め、どっかりと椅子に腰を下ろす。
『ほんっと間が悪すぎ! どういうつもりで乗ってきたのか知らないけどさ、ウチの殿下は政略結婚とか、大っ嫌いなの! グリージャの王女様とか、あり得ないっつの。三年前の奇襲攻撃で、俺たちの仲間が何人死んだと思ってんの?』
『まあなんて失礼な! 姫様に向かってなんて口の利き方です!』
『あー、うっせー! 母国語じゃねーから、尊敬語とか謙譲語とか、無理無理無理ー!』
付き添い婦人が思わず窘めるけれど、わたしはシュルフト語になっても口の悪いロベルトさんにびっくりだった。誰に習ったら、そんな柄の悪いシュルフト語になるのだろう。
『ええ? 俺下町育ちだからさ、隣の家がシュルフトからの移民だったんだよ』
『殿下の柄が悪いの、五十パーセントくらいの責任はロベルトさんにあると思うわ』
『ええ? 俺のせい? ひでえなあ』
ボリボリと頭を掻いてから、ロベルトさんはエヴァ嬢に向き直る。
『国民感情的にも、グリージャのお姫様はあり得ねえな。そこのエルスペス嬢の父親だって、あの時死んだんだし。女王になりたいからって、よりによってウチの殿下に結婚を迫んなくってもいいだろうに』
『なっ……! いつわたくしが結婚を迫ったと?! 失礼な!』
『ああん? どういうことだよ?』
わたしはロベルトさんの袖を引っ張って、小声のランデル語で囁いた。
「その……双方に誤解、というか、どうやら周囲の者が嘘の情報を流していたようで……彼女は、ランデルの王子が、グリージャを手に入れるために結婚を強要していると……」
「はああああ?」
「声が大きいです!」
ロベルトさんが叫び、慌てて口を押えた。




