26、グリージャからの乗客
夕方の五時に発車した列車は、ゆっくりと東へと向かう。クレヴァネス山脈の南側を縫うように走り、一部は山塊を突っ切ることになる一番の難所だ。冬は雪が深く、豪雪で列車が閉じ込められることもある。
「ここから先は山道で、トンネルばかりだ。……相当の難工事だったろうけどな」
「山を迂回することはできなかったのですか?」
「山を迂回するとアルティニア帝国の版図を出てしまう。権利の関係で鉄道を敷設するのは難しい」
リーデンを少し超えた小さな町では、国境の検問があるはずと、アルバート殿下が左腕にはめた腕時計と、地図を見比べながら言う。ルーセン共和国に入国する時にも検問はあったけれど、殿下も我々も軍縮会議に参加するための外交使節であるから、外交特権で検査はほぼパスだった。……もちろん、旅券は提示するけれど。
殿下が胸ポケットからシガレット・ケースを取り出し、一本抜き出して口に咥える。
「部屋が煙くなるから、窓を開けて吸ってください」
「わかってるよ……本当に煙草が嫌いなんだな」
殿下は窓を薄く開けて、煙草に火を点ける。山は日の入りも早く、もう、周囲は薄暗い。
「……もうすぐトンネルに入って、窓を開けていられなくなる。これ一本吸ったら、しばらくお預けだな」
殿下はそう言って、美味そうに煙草をくゆらせた。
アルティニア帝国に入国する検問は何事もなく終わり、七時の夕食に間に合うように身支度を整え、殿下のエスコートで食堂車に向かう。食堂車の給仕はリーデンで交代していたが、きちんと申し送りがされていて、いつもの席に案内された。
食堂車はそこそこ埋まっていて、客は他にはリーデンから乗った老夫婦のテーブル、中年の太った男性とその秘書らしい、青年のテーブル。中年女性二人組のテーブルは早速べちゃくちゃと、お喋りに花が咲いている。
「そうそう、若い女性だったんですよ、グリージャからの旅客」
「女?……こんな時期に? まさか一人旅じゃ……」
ロベルトさんが通路越しに殿下に話かけ、メインのステーキにナイフを入れていた殿下が、驚いたように目を瞠る。
「付き添いらしき中年女性も一緒です。初め母子かと思いましたが、違うみたいですね」
ジェラルドさんもワイングラスを手に頷く。
「……それに、他にも護衛がいるようです」
「護衛……?」
殿下が眉を顰める。メイドや従者、付き添い婦人ならばともかく、護衛を連れての旅は相当の身分の者に限られる。
「侯爵家にゆかりの者、と言っていたが、俺の存在をやり過ごしてくれればいいのだがな」
「この列車に、アルバート殿下がご乗車になっていることは、皆、知っているのですか?」
殿下は付け合わせのマッシュポテトをフォークで掬いながら首を傾げる。
「公表はしていないが、薄々気づくだろうな。寝台チケットを購入できるならそこそこの金持ち層だろうから、誰が乗っているかくらい、車掌にチップをはずんで聞き出すんじゃないか?」
「それでさっきから、ジロジロ見られているのね。……王子が愛人連れだから、みんな気にしているわ」
殿下はアルティニア風ソースのかかった仔牛のステーキをフォークに刺して、わたしを見た。
「……愛人じゃなくて恋人だ」
「ロベルトさんも言ったように、傍からどう見えるかでしょう」
「いっそ俺たちもリーデンで乗り換えて、シクラサにでも駆け落ちすればよかったかな。軍縮会議も何もかもほっぽり出して。――確かにいい生活はさせてもらっているけれど、戦争中の悲惨な生活で全部帳消しだし、王族の義務ばかり押し付けられて、本当にうんざりする」
今ここで、殿下が王族の義務を放り出して逃げ出せば、軍縮会議を含めて、きっと大変なことになる。人は平等だという人権思想の高まりから、王制への逆風は強い。
「自由民権を声高に叫ぶ奴らは、そのくせ、俺たち王族の人権も自由も認めてくれないからな」
アルティニア産の赤ワインを片手にそんな会話を交わして――。
食事を終え、自分たちの車両に戻るために、テーブルの間の狭い通路を殿下に腰を抱かれながら通り過ぎていくと、ふと視線を感じた。
二十歳くらいの若い女性と、四十くらいの中年の女性の二人組。どちらも仕立てのいいツイードのスーツに、小さなトーク帽を斜めに被っている。その後ろの席には、少しいかつい、男性二人組。……グリージャからの乗客だ。
その若い女性が、燃えるような瞳でわたしたちを見ていた。栗色の髪に、やや暗い碧色の瞳。意志の強そうな瞳に刺すような視線で射抜かれて、わたしは内心ぎょっとした。
――何か、気に障ったのかしら。
「どうした?」
「い、いえ、なんでもありません……」
わたしは睨まれている理由がわからず、釈然としない気持ちで、食堂車を後にした。
翌朝、わたしが白いブラウスにツイードのスカート、グレーのニット・カーディガンにチャコール・グレーのウールのベレー帽を斜めに被り、薄く化粧をして準備を整える横で、ジュリアンはわたしたちのガウンと寝間着を片付け、宝飾品をテーブルに並べる。殿下は洗面台で素早く髭を剃って、カフリンクスを嵌めてタイを結ぶ。今日はグレイの縞柄の三つ揃いだ。ノックの音がして、ジョナサン・カーティス大尉が迎えに来た。
ジュリアンに見送られて食堂車に向かう。
朝食時の食堂車は、そこそこ混雑していた。我々が席に案内されていくと、朝食を終えたコーキチが、勘定をを済ませて出ていくところだった。軽く帽子を上げて頭を下げ、出て行く彼を見送って、わたしたちも席につく。
朝食もアルティニア風に、ずばり、パンが変わった。クロワッサンではなく、ずっしりとしたライ麦の黒パンの薄切りや、ケシや胡麻の種子をまぶして焼いた小麦のパン。数種類の腸詰、ハム、チーズ、果物。クランベリーのジュースがグラスに注がれ、ヨーグルトに蜂蜜を添えたものがついた。
「……パンはルーセンの方が美味かったな」
殿下が黒パンにバターを塗り、ハムを乗っけて齧りながら言えば、わたしは肩を竦める。
「これはこれで美味しいわ。わたしは割と好きよ?」
「おばあ様は黒パンが嫌いだっただろう?」
殿下の言葉にわたしが目を丸くする。
「ええ、どうしてご存知なの?」
「リンドホルムでは、夕食はおばあ様と摂っていたからな。黒パンが出るたびに文句を言っていたから」
まだ幼かったわたしとビリーは、食事は子供部屋で摂っていたし、何しろ十歳までは七時に寝かされていたから、大人たちと夕食を囲むことはできない。乳母からある程度の食事のマナーを習い、八歳ごろから昼食を、十歳を過ぎてやっと、夕食のテーブルを囲むことが許された。リンドホルムでの半年ほど、殿下は毎晩、おばあ様と食卓を共にし、時には厳しくマナーを直されたりしたらしい。
「初めて食事を一緒にした時、お前のマナーがおばあ様にそっくりだから、ちょと感心したんだ」
それからは窓の外の風景を見ながら、幼い時の想い出などを語り合って、穏やかに朝食を終えた。食後のコーヒーを飲み終え、殿下が煙草を一服すると、ロベルトさんが呼びに来て、耳打ちした。
「悪い、打ち合わせだ。すぐに済む。ジョナサンを置いていくから」
「わかってます、大丈夫ですから」
特別車両に向かう殿下を見送り、わたしはホッと溜息をつく。何となく、後ろの座席に残ったジョナサン・カーティス大尉に申し訳なくて、わたしが謝る。
「申し訳ありません。わたしがいるせいで……」
「いえ、そんなことはありません。あなたの安全を守るのは、護衛の大事な仕事です」
「でも、貴族出のあなたが、わたしなんかの護衛をするなんて――」
以前、ステファニー嬢が貴族出の彼に愛人の護衛を命ずるのはひどい、と言ったことを思い出して、思わず尋ねてしまった。だが、カーティス大尉は穏やかに微笑んで、給仕にコーヒーのお替りを頼んでから言った。
「あなたの護衛を命じられたのは、僕をいろんな意味で信頼してくださっているからです。とても、栄誉なことだと思います」
碧色の瞳には微塵も嘘も偽りもなく、態度は自信に満ちていた。
「僕は士官学校では、殿下の二年先輩で、寮の舎監をしていました。卒業直前に家族がトラブルを起こして、決まっていた就職がダメになってしまった。それを殿下が拾ってくださったんです」
ゆったりと落ち着いた動作でコーヒーを飲みながら、大尉はそんな話をしてくれた。学生時代からの付き合いで、殿下にとっては最も古い部下になるのだと。
カーティス大尉がカップをソーサーに戻し、窓の外を見た。
「汽車の旅もあと、二日ほどです。この後、クレヴァネス山脈を突っ切る、一番の難所にさしかかります。雪が心配ですけどね」
わたしは進行方向の遠くに聳える、冠雪した山塊を見やる。しばらく無言で車窓の風景を眺めていると、ふと、人の気配を感じた。振り向くとグリージャの令嬢が立っていた。いつのまに?




