24、国家機密
翌朝、昨夜の行為の余韻がまだ抜けないわたしは、それでも朝食を摂らないわけにはいかず、気怠さを化粧で誤魔化して食堂車へ向かう。殿下の方はと言えば、久しぶりに発散できたせいなのか、妙にご機嫌で、笑顔が眩しいくらいだ。
ルーセン風の朝食も三日目ともなれば慣れてくる。カリカリに焼いたベーコンにスクランブルエッグ、サクサクした軽い生地のクロワッサンに数種類のチーズ。パンは皮がパリッとして歯ごたえのあるバゲットも選ぶことができ、殿下はもっぱらこちらを召し上がっている。
わたしはパンは控えめにし、デザートの果物――今日は林檎だ――に手を伸ばす。
アルバート殿下は通り過ぎる給仕に手を挙げて、二回目のパンのお替りを申し付ける。――朝から、本当によく食べる。
「ああ、バターもくれ。それと水を」
殿下は籠一杯のパンから好みのものを選び、ついでに給仕に言えば、給仕が「畏まりました」と応じて、追加のバターの小皿と、ミネラル・ウォーターの小瓶を持ってくる。
「よく召し上がりますね」
「うん?……昨夜、運動したから腹が減った」
「もう!」
ニヤけて答える殿下に、わたしが頬を膨らますと、殿下がくすくす笑いながらバゲットをちぎってバターを塗りつけ、口に放り込む。と、通路を大股で歩いてきた、鉄道会社の重役、リュシアン・ベジャール氏が控えめに声をかけた。
「アルバート殿下、お食事中に失礼します。――会社の方から連絡がありまして」
「何だ?」
殿下が顔を上げると、ベジャール氏が恐縮そうに言った。
「リーデンから先の路線で、雪のために運行を見合わせる車両が出ています。リーデンまでは現在のところ予定通りに到着できそうですが、多少、ダイヤの乱れが発生するかもしれません。それに――」
ベジャール氏が殿下と、それからわたしをちらりと見て、言った。
「実は、リーデンから先、運休した車両にご予約いただいていたお客様が、こちらの列車に乗車を希望しているのです。――もちろん、殿下の安全のために、身許については我々も確かめておりますけれど――」
王族であるアルバート殿下が乗車するため、食堂車で出会う可能性のある寝台客車の利用者には、予約の時点で制限をかけていたらしい。
「何か問題のある乗客なのか?」
「……一応は、グリージャの侯爵家にゆかりのある方とのことですが……」
ベジャール氏の回答に、殿下の眉がピクリと上がる。
「グリージャ? なんでグリージャ人がこんなところから乗るんだ?」
「北の、スポーケン回りの路線でリーデンまで来て、乗り換えてビルツホルンに向かうのです」
「ふーん……」
殿下が目を眇めて何か考える風で首を傾げる。
恐縮して戻っていくベジャール氏を見送り、殿下がロベルトさんを呼ぶ。
「聞いたか?」
「聞いたっすよ? 殿下のビルツホルン行きが決まったのも数日前ですし、前の列車が運休になったせいだって言うからには、偶然だろうとは思います」
「……まあいい、ハーケンの野郎から目を離すな」
「了解っす」
ロベルトさんを下がらせ、わたしを見て決まり悪げに肩を竦める。
「俺もグリージャってだけで神経質になっているな」
「そうですよ。グリージャの人だって、旅行くらいするでしょう」
食後のコーヒーを飲み終わると、わたしは殿下に断りを言って、老姉妹を見つけて声をかける。ちょうど、外交部の二人の年嵩の方が、書類ばさみを抱えて殿下に近づき、殿下が頷いて特別車両に向かい、わたしに手を挙げた。
「先に戻っている」
「ええ、わかりました。少しだけお喋りしてから戻ります」
殿下を見送って、わたしが老姉妹のテーブルに着くと、もう一人、中年の女性が同席していた。
「フェルマン夫人とおっしゃるの。アデレーンからご乗車になって」
ルーセン人らしいフェルマン夫人は、トーク帽を被った頭を少しだけ傾げ、わたしに挨拶した。……少しだけルーセン訛りのランデル語だ。
「ご機嫌よう、マドモアゼル。ご一緒させていただいても?」
「もちろんです。エルスペス・アシュバートンと申します」
わたしの前に紅茶のポットが運ばれてきて、わたしたちはたわいないお喋りに興じた。フェルマン夫人は、リーデンで乗り換えて北のスポーケン行きの列車で、ルーセン北部の街に嫁いだ娘の家に向かうのだという。
「初めてのお産ですのよ。あちらのお義母さまはもう亡くなっていて、こんな時、男は頼りになりませんでしょ? 娘も少しばかり神経質になっておりましてね、ママンに側にいて欲しいなんて、甘えたことを言うものですから」
「んまあ、羨ましいわ。宅はむさい息子が二人でしてね。本当は娘が欲しかったのよ、あたくし」
「でも、娘は結局、お嫁に取られてしまうから、つまりませんのよ」
女性たちの話のタネはいくつになっても本当に尽きないのだなと、つくづく思う。もちろん、フェルマン夫人も、わたしと殿下の関係には、興味津々だった。彼女はわたしと殿下が結婚するつもりなのかどうか、根掘り葉掘り聞いてきたが、もちろん、答えられることではない。
わたしは微笑んで躱していたが、少しばかり面倒くさくなったので、さりげなく中座して化粧室に立った。女性用の化粧室は食堂車を出て、特別車両の反対側、一等客車の端にある。わたしの護衛として食堂車に残っていたジョナサン・カーティス大尉も、わたしの目的が化粧室だと気づくと、そのまま見送り、さすがに、化粧室までついてくる失礼は犯さない。この列車には限られた人間しか乗っていないし、狭いから何かあっても、すぐに駆け付けられるからだ。
わたしが用を済ませて化粧室を出たところで、ばったり、外交部の若い方――ハーケン二等書記官といったっけ――に出くわした。
ガタン、ガタンと揺れる列車内、連結部分はさらに揺れるので、わたしはふらついて彼の肩に触れてしまった。
「失礼、ミスター……」
詫びを言って通り過ぎようとした、すれ違いざまに話しかけられ、わたしは足を止めた。
「それがあんたのやり口か? 王子に取り入って玉の輿を狙うか? ……あるいは目的は爵位を取り戻すことか? 清純そうな顔してとんだ――」
「えっ? なんですって?」
最後の言葉が聞き取れず、思わず聞き返す。
「ごめんあそばせ、最後の言葉が聞き取れなくて――何て仰ったの?」
「わざとらしい! 売春婦紛いに殿下に貢がせているくせに、今さら! ランデルの北部の安全のためにも、グリージャとの婚姻は願ってもないチャンスだ。それを、あんたは自分の欲だけで潰すつもりか? このビッチが!」
何やら非難されているのはわかったが、本当に最後の言葉の意味がわからなかった。聞いたことはある気もするが、わたしは意味を知らなかった。殿下に貢がせているのは本当だし――わたしから要求しているわけではないけれど――グリージャ王女との結婚話にわたしが邪魔なのは理解できるのだが、最後の言葉の非難は不当かもしれない。
「申し訳ないけれど、本当に知らないの。国際的な外交用語か何かなのかしら?」
「ふざけてんのかよ、このアマ! 白々しい!」
そこへ、様子を見に来たカーティス大尉が出くわし、碧色の瞳を瞠った。
「どうかしたのですか、ミス・アシュバートン? 何か非常に不穏な言葉が……」
ハーケン書記官はチッと舌打ちすると、するりと身を躱して一等客車の奥に歩み去ってしまう。
心配そうに見下ろすカーティス大尉に向け、わたしは肩を竦めて微笑んで見せた。
「いえ、わたしの無知を窘められただけですわ」
「無知?」
「ええ、知らない言葉で……聞き返したら余計に怒ってしまわれたの。当然知っているべき言葉だったのかしら、ビッチって。後で殿下に教えていただかないと――」
「なっ……あの野郎!」
「……わたし、やっぱり知らないことばっかりで、殿下の随行員なんて、本当に恥ずかしいわ」
口元を押えて俯くわたしに、カーティス大尉が少しばかり呆れたように言った。
「……いえ、知らないのは別に恥ずべきことじゃないです。その代り、絶対に、人前で口にしないでください。情報元がハーケンだと知られたら、たぶん、あいつ殺されます……」
「え? もしかしてそんな重大な国家機密でしたの?! ええ、もう絶対に口にしませんから、ご安心なさって!」
わたしが確約すれば、カーティス大尉は心底ホッとしたような表情で溜息をついた。




