22、不安
グリージャの王女との話を聞かされて、わたしはすっかり気が滅入ってしまった。
殿下の心を疑うわけではないけれど、いい気分はしない。
帰国した殿下が我儘を言わず、ステファニー嬢との婚約を了承していれば、グリージャの王女との縁談など、入り込む隙間もなかっただろう。我が国の国民感情としても、グリージャの王女と王子の結婚は厳しい。……グリージャの突然の参戦によって、西部戦線は一気に激戦地となり、わたしの父を含めた多くの兵士が死んだ。グリージャに対して、遺族として複雑な心情がある。
でも、それと国益とはまた話が異なる。
殿下がステファニー嬢を拒否してわたしを望んだことで、祖国ランデルに不利益が発生したのだとしたら――。
わたしは欝々とした気持ちを抑え込み、命じられた書類をタイプし、平静を装って仕事に励んだけれど、気づけば窓の外をぼんやり眺めていた。
「エルシー?」
殿下に呼びかけられ、ハッとして我に返る。
「どうした、何か、気になることでもあるのか?」
「いえ……その……何でもありません」
「次のアデレーンでは三時間ほど停車する。少し、外に出ないか?」
殿下に持ちかけられ、わたしは躊躇する。
「……よろしいのですか? 警備の方に迷惑などは……」
「ずっと列車の中に閉じ込められ、奴らの方が滅入っているだろう。俺もたまには外の空気を吸いたい。……実はアデレーンの駅は新進建築家のコルヴィールの設計なんだ。去年、完成したばかりで、前から一度見てみたいと思っていたんだ」
それで、わたしと殿下はアデレーンの駅で停車中、夕暮れのプラットホームに降り立った。
アデレーンはルーセン共和国の首都だ。国際寝台列車の乗客用のシャワールームや休憩室もあり、車内の清掃や備品の補充、乗員の交代が行われる。さすが大国の首都だけあり、駅の構内は賑やかだった。
鉄骨を組んだ巨大な屋根。周囲に飛び交う異国の言葉。――機能性を重視して設計され、装飾を極限まで削ぎ落とした駅のデザインは、一見、武骨だけれど、何とも言えない近代的な機能美に溢れていた。
「申し訳ないですが、停車時間が短いので、ホームからは出ないで欲しいのです。……僕たちも交代でシャワーを浴びたり、しなければならないことが多くて。リーデンはもっと停車時間が長いのですが」
ジョナサン・カーティス大尉に詫びられて、わたしは慌てて首を振る。
「いえ、こちらこそ、我儘を言ってすみません。……ホームの端まで歩いても?」
「それは構わないですが……でも、武骨な駅ですよね? 見ても面白いとは僕には思えないのですが……」
カーティス大尉には呆れられたけれど、わたしも殿下も、こういう斬新で近代的なデザインが好きだから、殿下と二人、手を繋いでホームのあちこちを見て回る。
「新大陸では装飾美術ってのが流行ってるんだが、俺に言わせればちょっと中途半端だな。装飾を削って機能性を追求するならこれくらい、大胆にやるべきだと思って。直線的デザインで大量生産に耐え、なおかつ美しさを失わない。この駅も、戦時下の限られた物資と時間の制約の下で、それでも耐久性と機能美を追求している」
装飾的な建築に見慣れた目には、鉄骨が剥き出しなのは武骨だと思うけれど、高い天井に組まれた鉄骨そのものが美しいと思う。
端まで歩きながら、ホームから出て行く列車を見送る。ここから東に向けて、次第に山がちになっていく。東側に見える山地の、頂は白く冠雪していた。
――山の上にはもう、冬が来ている。
わたしが山の方を見つめていると、殿下がわたしの手を掴み、指を絡めてぎゅっと握り締めた。
「その……エルシー……その……お前がまだ喪中だって言うのはわかってるんだが……」
「……リジー?」
「……愛してる」
わたしが彼を見上げれば、殿下の金色の瞳が不安げに揺れていた。
「どう、なさったの。こんなところで」
風がホームを吹き抜け、発車を知らせるベルや、駅員が呼びかける声、乗客の雑踏やざわめきが通り過ぎる。
殿下はいったん気まずそうに顔を背け、そしてわたしの耳元に顔を近づけて、苦しそうに言った。
「不安なんだ。お前が……俺から離れてしまうんじゃないかって……」
「不安……」
殿下の言葉に、わたしは目を瞠る。
常に足下から崩れていきそうな不安に苛まれていたのは、わたしの方だとばかり思っていたのに――。
夜、食堂車から戻って、わたしは列車の揺れに身をゆだねて、真っ暗な窓の外を眺めていた。
ガタン、ゴトン、ガタン……列車の揺れの、規則正しい音が響く。
昼間、グルージャの王女と殿下の縁談を聞いて、わたしは動揺した。
わたしは元は伯爵の娘だけれど、でも、要するに田舎に爵位と城を持っていただけの話。今は、それすらもない、ただの平民だ。
身分も、財産も、家族すらもいない。
今は殿下の庇護の下にいて、贅沢な旅をさせてもらっている。……わたしは身に着けている絹の、濃い紫色のドレスを見下ろして思う。
ミス・リーンは祖母を亡くしたばかりのわたしに配慮して、暗い、地味な色調のドレスを多く持たせてくれた。――殿下の秘書官として同行するのに、あからさまに喪服を着ては過ごせないから。準備期間もほとんどなかったのに。色柄は地味だけれど、素材は最高級の、東洋からの絹だ。そして真珠。
船で何か月もかかる、遠い東の国。ノーラが荷物に入れてくれた、螺鈿の手鏡を思い出す。どれも、殿下の側にいなければ、到底、手に取ることもできなかった、美しい品々。
出生に秘密があるとはいえ、殿下の父親は間違いなく国王陛下で、殿下は紛れもない王族だ。万一の場合にはランデル王国を背負って立てるように、母の血筋を偽ってまで育てられた王子。国のために生きることが義務付けられていると言える。
ステファニー嬢との結婚も、政略的にも意味があって、ランデルの安定に寄与するのだろう。グリージャの王女との結婚は、もっとはっきり国益目当てで持ち上がり、かつ、世界の平和にも貢献する。
でも――。
彼はわたし以外とは結婚しないと言い張っている。それは純粋に、彼の愛からのもの。国のためにはなんの、利益も生むことはない。――つまり、殿下とわたしの結婚は、確実に国益を損なうのだ。
黒い、窓ガラスに映る自分の顔を見つめていると、シャワーブースの扉が開いて、殿下が出てきた。バスローブを羽織り、黒い髪をリネンで拭きながら、まっすぐわたしの方へやってくる。
「真っ黒で、外は見えないだろう。何を考えている?」
「……いえ……別に……」
殿下は窓に手をついて、わたしを囲い込むように閉じ込めると、わたしの肩口に顔を埋め、耳元で囁く。濡れた髪が頬に当たってヒヤリと冷たい。
「エルシー……約束してくれないか?」
「約束?」
わたしは振り返ろうとしたけれど、すぐ耳元に殿下の顔があって、動くことができない。正面には、黒いガラスにわたしと、わたしをまっすぐに見つめる殿下の顔が映っていた。ガラス窓の向こうは黒々とした夜の風景が広がり、ポツポツとした光が後ろへと飛んでいく。
ガタン、ゴトン……
窓ぎわに閉じ込められて、殿下がガラスに映ったわたしの顔をじっと見つめる。
「俺の不手際のせいで、お前には辛い思いをさせた。……おばあ様が亡くなった時、もう俺の側にいられないと思ったのは当然だし、俺が悪い。もう二度と、お前を傷つけないと誓う。だから――」
殿下がわたしの頬からこめかみへと唇を滑らせて、それからガラスに映るわたしに、目を合わせて言う。
「俺が王子だという理由で、俺を捨てないでくれ」




