20、愛か、政略か
わたしが答えに逡巡しているうちに、特別車両からロベルトさんと外交部の二人が戻ってきて、ロベルトさんが言う。
「エルスペス嬢、殿下がお呼びだよ? タイプして欲しい書類があるってさ。それから手紙の口述筆記」
「は、はい、わかりました。今すぐに」
わたしが老姉妹に断りを言って立ち上がると、二人も立ちあがってわたしを優しく抱きしめてくれた。
「あなたは悪くないわ、ミス・アシュバートン。選択に自信を持ってね」
ミス・アランが言い、ミセス・リーガルは、
「しいて言えば、あなたが魅力的過ぎるのがいけないのね。大丈夫よ、きっと幸せになれるわ」
と言って、わたしの頬に軽くキスをしてくれた。祖母に抱きしめられたのなんて、弟が死んだ時以来で、わたしは昔のことを思い出し、目の奥が熱くなるけれど、それを堪えて微笑んで礼を言った。
「ありがとうございます。また、夜にでも――」
「ええ、もちろん」
ジョナサン・カーティス大尉とともに、特別車両に戻ると、殿下は車窓に凭れるようにして、シュルフト語の辞書を片手に、書類を読んでいた。
流れていく晩秋の田園を背景に、殿下は上着は脱ぎ、糊のきいた白いドレスシャツの上に背中側が黒く、前面が薄いグレイのウエストコートを着て、濃いグレイのトラウザーズを穿いた長い脚を組んでいる。その姿は、見慣れたわたしでもドキッとするほど格好がいい。
殿下は入ってきたわたしに気づくと、持っていた辞書を小テーブルに置き、隣に席に座るように手招きした。
「ああ、エルシーはこちらに……ジョナサンは下がって、ジェラルドとロベルトから、さっきの話を聞いておいてくれ。些か厄介な件が持ち上がっている」
「それは……ハーケン二等書記官が言っていた、グリージャの件ですか?」
「そうだ。俺は関わるつもりは全くないし、ハーケンにもそう、言った。だが、向こうの出方が読めない。気をつけておいてくれ」
「承知しました。詳しくはまた、後ほど」
ジョナサン・カーティス大尉が一礼して下がると、殿下が言う。
「お節介なばあさん二人組に捕まっていたらしいな」
「ご親切な方がたですわ。人生に有益なアドヴァイスを……」
殿下は、隣に座ったわたしの顔をじっと見つめる。
「どうせ余計なことを吹き込まれたんだろ? 俺みたいな男はやめておけ、とか」
「……具体的なプランのない男はやめておけとは言われました」
殿下が凛々しい眉根を寄せ、言い訳がましくまくしたてる。
「プランはあった。二人で国外に逃げる。ハンプトンの港から新大陸行きの客船のチケットも押えたんだ。……でも、マクガーニにしこたま叱られ、代わりにビルツホルン行きを押し付けられた」
「……新大陸に駆け落ちなんてしたら、わたしは王子を誑かした稀代の悪女って言われ続けるでしょうね」
新大陸に逃げればいいってものじゃない。その後どうするつもりだったのか。わたしが溜息をつけば、殿下も肩を竦める。
「俺だって、女に入れあげて国を捨てた馬鹿王子って言われ続けるだろうけど、俺は評判よりもエルシーの方が大事だったから……」
「ご自分の評判は殿下の勝手ですけど、わたしの評判も少しくらい気にしてください」
殿下は両掌を上に向け、おおげさに困惑を表現する。
「本当は、お前の爵位を取り戻して、その上で父上の許しを得るつもりだった。それで、ビリーの死の不審さに気づいて……調査に手間取ってる隙に、まさか議会に手を回されるなんて、想像もしてなかった。新聞の件は、俺の不注意だ。俺は新聞社みたいなものに注意を向けなさ過ぎた。ロベルトとも相談して、新聞社を一つ買おうかとも考えているけど、俺が社主ってのもあからさまな気がするから、少し迷ってる。投資先としては利益はイマイチだし、手を広げ過ぎはよくないとも思って。……全部、後手後手に回っているのは、認める」
「殿下のせいだけではないから、そのことはもう……。それはともかく、タイプする書類はどれです?」
無駄話を切り上げ、事務モードに入ろうとわたしが話を変えれば、殿下は腕を伸ばしてわたしを抱き寄せる。
「二人っきりの時はリジーと呼んでくれ」
「でも、これはお仕事ですから。ケジメはつけたいの」
殿下は、息を呑んで、恐る恐るわたしの顔を覗き込むようにして、言った。
「……つまり……食事や、その、ベッドの上はもう、業務じゃないと……」
わたしは目を伏せ、顔を逸らして小さな声で言った。
「……愛して、くださっているのでしょう? わたしを……」
「もちろんだ! 最初から俺は――ただその、余計なことを言ったせいで、お前にいらぬ誤解をさせてしまった。……本当にずっと、昔から愛しているのは、エルシーだけだったのに……」
殿下が感極まったようにわたしを抱き締めて、顔中にキスの雨を降らせるのを、わたしは身を捩って避ける。
「朝っぱらからやめてください。仕事があるのでしょう? 指示していただければ、タイプでも口述筆記でもしますから――」
「今はキスがしたい」
「リジーって呼ぶのやめますよ?」
わたしが少しばかり凄んでみせれば、殿下は慌てて両手を引っ込めてわたしを解放した。
「すまない。タイプして欲しい書類はこれだが、別に急がない。ビルツホルンに着くまでは、差し当たって特にすることはないんだ。現在、すでに進んでいる海軍の協議の結果によっては、こちらの要求も変わってくるかもしれないし」
殿下は少し躊躇うように、視線を車窓に移し、それから意を決したようにわたしを見た。
「それより、外野から余計なことを言われる前に、俺の口からきちんと説明しておいた方がいいと思って呼んだんだ。……さっきの、ジョナサンに言ったグリージャの厄介事について――」
「わたしが聞いてもいいことなのですか?」
国の機密に関わることなら、特には聞きたくはないのだけれど。
殿下が形のよい眉を顰めて、わたしをじっと見つめた。
「お前とも関係ないわけじゃないから。……外交部の若い方、ハーケン二等書記官と言うんだが、あいつには注意しろ」
「ええ?……あの、若い方の人……? あのかたがどうかなさったの?」
「あいつは外交部でもグリージャ寄りの派閥らしい。あろうことか、俺とグリージャの王女との結婚を画策している一派の野郎だった。……レコンフィールド公爵が議会を抱き込んでまで、強引にステファニーと婚約させた理由が、やっとわかったよ」
グリージャの王女と、殿下が、結婚?
あまりの突飛な発言に、わたしは凍り付いてしまう。――意味が、わからないんだけど。
「ああ、もちろん、速攻で拒否したし、あり得ないと断言した。今度口にしたら列車から叩き落すと脅しておいた。選りにもよってグリージャの王女となんて、絶対あり得ない」
殿下は固まったわたしを抱き寄せて、頬にキスをする、
「どういう……ことなんです?」
「政治の……というか、外交の問題はキナ臭いからな。ビルツホルンで現在行われている、講和会議の重要な議題の一つが、敗戦国の王家の処遇だというのは、聞いているだろう?」
わたしはのろのろと頷く。
この度の大戦で、わがランデル王国と隣接する大国、ルーセン共和国を中心とする連合国は、大陸の中・東部を領有するシュルフト帝国、アルティニア帝国を中心とする同盟軍と戦い、途中、中立を宣言していたグリージャ王国が帝国側に参戦する危機を乗り越え、五年に渡る戦いを制して勝利をもぎ取った。その講和会議が、アルティニア帝国の首都・ビルツホルンで開かれている。
戦争末期、敗色濃厚となったアルティニア帝国で帝国議会が時の皇帝を退位に追い込み、グスタフ皇太子を中心に、講和に踏み切った。現在、帝政は一旦停止して、帝国議会が政治の主導権を握っているが、おそらくはグスタフ皇太子が即位し、立憲君主制の元で国の再編が行われる予定だ。
七つの領邦の君主の中から選挙で皇帝を選ぶシュルフト帝国では、敗戦の責任を取ってシュタウフェン家の皇帝ルードヴィヒ五世は退位し、現在は暫定的にブルンスマイヤー家のアクセル大公が摂政として、全権代表を務めている。平和条約締結後に改めて選挙を行い、皇帝を選出する予定だが、共和制への移行も噂されている。
「シュルフトとアルティニアはいいんだ。もともとが大国だから、議会もあるし、多少、賠償金を搾り取ったところで、国がなくなることはない。戦勝国側の、一部の過激派は王家を取り潰せと息巻くけれど、やり過ぎると共産化して、革命が他国にも波及するかもしれない。それは困るから、王家は温存する方向で議論は進んでいる」
殿下はそう言って、わたしの髪を撫で、じっと目を見つめる。
「……問題は、グリージャだ」




