19、愛だけでは
ミス・アランが言えば、ミセス・リーガルも頷く。
「三年前のシャルロー村の事件はわたくしも聞いていましてよ。いえね、わたくしの息子の以前の部下も、シャルローで亡くなりましたのよ。まだ幼い子供を残して……奥様が本当にお気の毒で」
「グリージャが突然、宣戦したんでしたわね」
「そうそう、中立国だったはずが、突然、敵の同盟軍側に参戦して……グリージャに近いシャルロー村は、中立国に近いから、安全地帯だと思っていましたのにね。ずいぶんたくさん、亡くなられたと聞いていますわ」
「シャルロー村だけで二百人。助かったのは殿下を含めて八人ですって」
二人の老婦人の会話に、わたしはただ、黙って相槌を打つ。
三年前、父が戦死の報せに、わたしは状況をまともに聞くことができず、ただ庭で泣き明かした。あの後、すぐに弟が倒れて、そして今度は祖母まで――。
思わず涙ぐんでしまったわたしを気遣って、二人は話題を変えた。
「食堂車の向こう側が王族専用の特別車両になっているのですってね。わたくし、昨日方角を間違えてしまって」
「あなたったら、わたくしが止めるのも聞かずに、どんどん行っていしまうから。わたくしの方が恥ずかしい気分でしたよ」
「どうせなら中を見てみたかったわ。こんなおばあちゃん一人くらい、通してくれてもよさそうなのに」
「何を暢気なことを」
二人はひとしきり言い合って、わたしに尋ねる。
「ビルツホルンでは講和会議にご出席?」
「いえ、軍縮会議だそうです。……先に、海軍の会議が進んでいて、殿下は陸軍の特使として、できれば正式調印までもっていきたいと――」
「まあ、そうなの。殿下ったら、あなたのことはひと時も離したくないって雰囲気ね。噂には聞いていたけど」
噂、という言葉に、わたしがギクリと顔を上げる。
「エミリー、あなた、本当に言葉を選びなさいって、いつも言っているじゃない」
「あら、ごめんなさい。でも実はね、あの療養院の森でお逢いした時、わたくしたち、後であんな話をして、あなたに申し訳なかったと、二人で反省しましたのよ」
ミス・アランに謝られて、わたしが目を見開いて、首を傾げる。
「反省……?」
「実のところね、わたくしたち、レディ・アシュバートンの入院費はどこから出ているのかしら、って密かに疑問に思っていましたの。だってあのヴィラは、王族クラスの高位貴族用の特別室で、失礼だけれど、相続が認められずに領地を出てきた方が支払える金額ではないもの。だからあなたが陸軍にお勤めと聞いて、咄嗟にアルバート殿下の例の噂を思い出したのよ。……もちろん、レディ・アシュバートンには内緒だったのね?」
「そうよ、それを、彼女の前であの噂を暴露するなんて、アナベラ、あなたも軽率だわ」
今度はミス・アランが妹のミセス・リーガルを窘める。
「そうなの、わたくしったら、噂話の最中にようやく気づいたのよ。ほんと、なんて話を持ち出してしまったのかしらって」
老婦人二人に謝罪されて、わたしはどう、反応すべきが戸惑う。
「いえ、その――」
「わたくしもいけなかったわ。表面的な噂だけを鵜呑みに、ずいぶん、失礼なことを言った気がするわ。でも、あなたはもともと伯爵家のご令嬢で、第三王子の殿下と結婚しても問題はないお家柄ですものね。不幸が重なって陸軍で働くことになって。お父上がシャルローで戦死されたのなら、殿下が特にお心を留めても無理はないわ。何より、お二人ともすごくいい雰囲気で……」
ミス・アランがうっとりとした表情で言い、ミセス・リーガルが肩を竦めて窘めた。
「また始まったわ。この人ときたら――いえね、姉は身体が弱かったので、結婚はしなかったのですよ。そのせいか、恋愛やら結婚やらに、妙な夢を見てしまって……」
「いいじゃない、そのくらい。せめて想像の世界に羽ばたいて夢をみたいわ」
ミス・アランはわたしの方に乗り出すようにして、少し声を潜めて尋ねる。
「……殿下はあなたに夢中ね。本気で結婚したいと思っているわ、あの顔は間違いないわ」
「またこの人は、わかったような口を……」
呆れたように言うミセス・リーガルに、ミス・アランが反論する。
「あら、わたくしは恋の傍観者としては、いっぱしの権威よ。当事者じゃないからこそ、わかるのよ。間違いないわ。殿下は本当に、あなたのことが好きなのよ」
ミス・アランに自信たっぷりに断定され、わたしは顔が熱くなる。
「いえ、そんな――」
「……でも、何のかのと言い訳しても、結局、公爵令嬢と婚約してしまったじゃないの。いいこと、男なんてそんなものよ。口では甘い言葉を吐いても、裏では何しているか、わかったもんじゃないわ。……少なくとも、うちの死んだ亭主はそうだったわ」
今度は、ミセス・リーガルが断言する。
「それはあなたの旦那様だからでしょ。殿下は違うかもしれないわ、ええ、きっとそうよ」
「いいえ、男なんて信じたらダメよ。泣きを見るのはいつも女。……ミス・アシュバートン、あなたもね、男なんて本当に、アテにならないわ。身分だって関係ないのよ。結局、大事なのは自分よ」
二人からそれぞれ言われて、わたしはどう、答えていいかわからず、困惑する。
「そうよ、大事なのは自分よ。これは間違いないわ」
ミス・アランも大きく頷く。
「結局、大切なのは、あなたが彼を好きかどうかよね」
「まあ、要するにそうよね。相手のことが好きなら、ダメ亭主でも諦めがつくもの」
二人はわたしの顔をじっと見つめて、言った。
「あなたは殿下のこと、どう思っていらっしゃるの? やっぱり好きなの?」
直球で切り込まれて、わたしは思わず息を呑む。
――それは、わたしがずっと、考えまいと思っていたことだったから。
わたしは殿下を好きなのか。
ズバリ聞かれて、わたしは答えられずに俯く。
ずっと、考えないようにしていた。いやむしろ、好きになってはいけないと、思ってきた。
殿下がわたしを抱いたのは、わたしが処女で金に困っていて、都合がいいから。
いずれ、レコンフィールド公爵令嬢か、あるいは別の、とにかく殿下の身分に相応しいご令嬢と婚約されるまでの、つなぎの女だと。……いずれ捨てられる女が、本気になっても辛いだけだと。
なのに、殿下はわたしと結婚したいと言いはり、そして、彼はかつて、リンドホルム城にいたリジーだと知った。
ずっと、わたしのことが好きだったと。
殿下には何度も、愛を告げられているのに、わたしは一度も答えを返したことがない。
いつもいつも、「おばあ様のお許しが」「おばあ様に相談しないと」。
だって――何かを自分で決めたことなんてない。司令部で働くと決めた時くらいだ。あの時もおばあ様は大反対なさったけれど、本当にお金がなくて、「背に腹は代えらえません」とジョンソンとメアリーまでもが説得して、ようやく認めてくださった。でもおばあ様が反対なさるんだから、女のくせに働くなんて、本当は好ましくないんだろうと、わたしだってどこかで思っていた。結局、その仕事のせいで殿下に会って、こんなことに――。
「ミス・アシュバートン? どうかなさったの?」
ミセス・リーガルに心配そうに問いかけられ、わたしはハッとして顔を上げる。
「いえ、何でもありません。その……」
「エミリー、あなたが不躾なことを聞くからよ」
「何よ、アナベル、あなただって知りたいって言ってたじゃない」
お互いに言い争う老姉妹の様子からして、どうやら、二人の間ではわたしと殿下の関係をあれこれ詮索していたらしい。
「その……殿下からは何度か、その……結婚したいとは言われているのですけれど、わたしのようなものが、軽々しくお返事していいかどうか、その――」
「そりゃあ、気後れして当然よ。その辺の普通の男にプロポーズされても迷うものよ。まして、ねぇ?」
ミセス・アナベルが姉に向かって同意を求め、ミス・アランも頷く。
「ええ、そうよ。当たり前よ。王子の上に、他の女と婚約してるんですからね。でも、そちらの方はどうするつもりでいらっしゃるの?」
ミス・アランは穏やかな口調でぐいぐいと詰めてくる。
「え、その……結婚したいのは、わたしだけだとの一点張りで……」
「あら、それは――」
「あらまあ――」
老姉妹は顔を見合わせる。
「それはダメね。具体的な道筋を示してもらわないと」
「ええ、そうよ。愛だけでなんとかなるんだったら、この世に悲恋はないわ」
ミセス・リーガルが首を振る。
「殿下は意外と、詰めが甘いようね。脇が甘いって言うのかしら」
「あっさり議会を通されてしまうしねぇ……」
ミス・アランもうんうんと頷いて、わたしに言った。
「愛は大切よ? 愛がなければ、すべてが虚しいわ。でもね、愛だけではダメなのよ」
「まあ、お金も大切よね。でも、愛は必要よ。そして何より自分よ」
ミセス・リーガルが改めて言う。
「頼りない男とやっていけるかどうか、やっぱりあなたの気持ち次第よ。愛していれば我慢できるし、愛がなければ我慢できない。結局はそこに帰るのよ」
わたしは殿下を愛しているのか、それとも――。




