18、老姉妹
「でん……」
「リジーだ」
「……リジー?」
わたしは彼に抱き着いて、尋ねた。ずっと、疑問に思っていたことを。
「どうして、わたしと昔出会っていることを黙っていたのです? おばあ様と親戚だってことも」
「お前が俺のことを忘れていたからだ」
何だそんなこと、と言うふうに殿下が言う。
「お前がローズの息子のリジー・オーランドのことを憶えていれば、実はそれは俺だ、と言うつもりだった。最初、お前は俺のことがわからないようだったけど、でもお前は幼かったし、俺もだいぶ印象が変わったから無理もないと思っていた。昔の約束通りワーズワース邸に連れていって、天井画を見ながらいろいろと探りを入れてみたが、天井画を見る約束どころか、リジーの存在自体、まるっと忘れているらしいことに気づいて、実のところ、俺はめちゃくちゃ落ち込んだんだからな」
完全に忘れていたのは確かなので、そこを責められると反論できない。
「でも……以前に会っているって教えてくだされば、わたしだって、思い出したかもしれないのに」
殿下はわたしの髪を撫でながら言う。
「俺が、リジーとしてリンドホルム城で過したことは秘密だ。俺の出生も、俺が王妃に虐待されていたことも、公にはできない。俺がリンドホルム城に行ったことがあると言えば、お前はなぜと聞いて、そこから全部話さなければならなくなる。もともと知っているならともかく、何も知らない相手に一から話せることじゃない」
それはその通りで、わたしは殿下の肩に頭を持たせかけて、溜息をつく。
「でも……おばあ様に会いたいとか、言ってくだされば、わたしだって――」
最後、あんなふうな再会で、すぐに祖母が亡くなったことが、わたしは残念でならなかった。殿下が一緒に食事をと仰った時、わたしは何も知らなくて、断ってしまったから。
「――おばあ様からは、もう二度と会わない、リンドホルムにも来るなと言われていた。記録の上では、俺は王妃の実の息子で、俺とアシュバートン家とは何の繋がりもないんだ」
殿下はわたしの髪を撫でながら、小さな声で言った。
「俺はずっと、諦めていた。お前に会うのも、リンドホルムに戻るのも。全部諦めて、すべて封印して生きていくつもりだった。ステファニーとの結婚も、しょうがないとも思っていた。でも――」
殿下の声は、ほとんど聞き取れないほど、掠れていた。
「戦場で、信じられないくらいの人の死を見た。……一介の兵士から、将官まで。何の罪もない善良な村人や子供たちが、風向きの関係で毒ガスを浴びて、ものすごい苦しみの果てに死んだのも、見た。俺は王族だから標的になりやすくて、巻き込まれて死んだ者もたくさんいる。――マックス・アシュバートンのように」
殿下が父の名を口にした。
「マックスは、俺を庇って死んだんだ。俺は――おばあ様にもお前にも、そのことで申し訳なくて……」
「リジー……」
わたしは涙声になった彼にぎゅっと抱き着いた。
「リジーの、せいじゃないわ。お父様は……あなたを守るのが役目だったんだもの。立派に、お役目を果たしたんだわ」
「ああ……とても、立派な人で――俺もジョナサンも、マックスがいなければ間違いなく死んでいた」
殿下の指が、わたしの髪を梳いていく。
――そうか、ジョナサン・カーティス大尉がわたしを守ろうとしてくれるのも、きっと、父への恩があるから……
わたしを抱きしめる殿下の腕に力が籠った。
「目の前でマックスに死なれて俺は、決意したんだ。全部諦めてきたけれど、それじゃダメだって。俺は、俺の人生を生きなきゃだめだって」
殿下がわたしの耳元に口づけを落としながら、掠れる声で言う。微かに触れる頬は濡れているような気がした。
「この地獄から生還したら、俺はエルシーに会いに行こうと決めた。おばあ様に禁じられても罵られても、もう一度あの庭で、エルシーに会うために――」
ゴトン、ゴトン……
規則正しい汽車の揺れと、殿下のぬくもりに包まれていると、幼いころこうして抱きしめられて眠った記憶が甦って、なつかしさと同時に、あれがもう遠い過去の、けして戻らない日々なのだと、思い知らされる。
父も、ビリーも、そして祖母も、もうこの世にいない。
そして殿下もまた、出征し、戦場を見て――
「リジー……ありがとう」
「エルシー?」
「生きて、戻ってくれて。それだけで――」
わたしたちは狭い寝台に折り重なるようにして、抱き合って眠った。
翌朝、殿下と食堂車に行き、朝食を摂る。朝食はルーセン風の簡素なもので、オレンジ・ジュースとパン、チーズ、卵料理、果物が少しと、そんなものだった。たっぷりの朝食を摂る、我が国の習慣に慣れた男性たちには、少し物足りなかったようで、殿下も殿下の配下の方たちも、パンを何度もお替りしていた。
ロベルトさんと、外交部の官僚二人が立ちあがり、殿下も急いでコーヒーを流し込んで、立ちあがってからテーブルを挟んで、わたしのこめかみに触れるだけのキスをして言った。
「悪いが、機密の打ち合わせがある。少しだけ、ここで時間を潰してくれるか? ジョナサンを置いて行くから――」
「ええ、大丈夫です。コーヒーのお替わりをゆっくりいただいていますから」
殿下たちが個室のある車両に向かうと、入れ替わりのように、ミス・アランとミセス・リーガルの姉妹が、わたしに声をかけた。
「ミス・アシュバートン、よかったら、こちらにいらっしゃいませんこと?」
「ええ……では、お言葉に甘えて」
わたしがカーティス大尉に目配せすると、大尉は無言で頷き、立ちあがって席を変わった。だいぶ空いた食堂車で、わたしはアラン姉妹の向かい側の席に座り、カーティス大尉はその後ろの席に座る。給仕を呼んで、飲みかけのコーヒーを移動させて、わたしはついでに、紅茶をお願いした。
「シクラサには療養で?」
シクラサは、大陸南部の、メディーナ海に面した保養地だ。青い空に白塗りの壁の家が連なる、絵葉書を見たことがある。わたしが尋ねれば、ぽっちゃりと優し気なミス・アランがニコニコと頷く。
「ええ、そうなの。わたくしの喘息の療養にね。本当はもっと、南の――海の向こうのエイジャンに行きたかったの。古代文明の地に興味があって。でも、そちらは治安も悪いし、暑いし砂漠はあるしで、医者に止められましたのよ」
「当たり前よ。療養のために途上国に行くなんて。シクラサでも南過ぎるとあたくしは思うのよ? 国内のバールか、せめてルーセンの南海岸辺りにしておきなさいと……」
冒険心の強い姉のミス・アランを、慎重で常識的な妹のミセス・リーガルが窘める。お互い、言いたいことが言える関係というのは、羨ましいものだ。……祖母にも、近しい姉妹か親族がいればよかったのに。
「おばあ様は残念でしたわね。……わたくしどもが退院して、すぐに?」
目を伏せてしまったわたしを気遣うように、ミセス・リーガルが尋ねる。
「ええ……その……ほんの半月くらい前、でしょうか。葬儀は故郷で済ませて……でも、あちらには住む家もありませんし、王都の家も人に貸していて……それで、たまたま殿下が外遊に出られるので、秘書官も着いて行く必要があって――」
祖母の喪中にもかかわらず、愛人として王子の外遊にくっついていくことを、わたしは言い訳がましく早口で言う。
「秘書官のお仕事もしていらっしゃるの」
ミス・アランの素直な質問に、ミセス・リーガルが肘で突っつく。
「エミリー、失礼よ」
「い、いえその、もともと、秘書官なので……一応……」
気まずくなったわたしが、紅茶のカップを手に取り、一口啜る。視線を合わせることができなくて、不自然に目を動かすわたしに、ミス・アランが優しく言った。
「まあ、そうなの。お若いのに働いて、おばあさまを支えていらっしゃったのね。……大変だったでしょう。爵位の継承については、レディ・アシュバートンから聞きましたよ。息子さんは戦死だったのに、代襲相続が認められなかったって……」
「おかしな話よねぇ。特務とはいえ、正規の陸軍中佐で、志願兵でもなく、勅命による従軍だったそうなのに」




