17、地上の星
声をかけてきたのは上品な老婦人二人組。……どこかで見たことが――と、思うそばから気が付いた。
「ええっと――レディ・アランと、レディ・リーガル……でしたっけ。いつぞやは――」
「ああ、やっぱり! お久しぶりですこと! まあ、こんなところで偶然!」
「知り合いか? エルシー?」
殿下に聞かれ、わたしは慌てて小声で言う。
「祖母の――療養院でお会いしたのです」
殿下が目を見開いた。
「入院していたのはわたくしだったのだけどね、あの後、すぐに退院して――この後、暖かい南の方に転地療養に行くのよ」
ふっくらした方の老婦人が言い、痩せた、やや厳しい雰囲気の老婦人が補足をする。
「ええ、リーデンで南のシクラサ行きの長距離列車に乗り換えますの。姉は呼吸器がよくないので、暖かくて空気のいい、海辺の町で療養しようと思いましてね」
「そうでしたの。……お元気におなりになって、よかったです」
「あなたはどちらまで? レディ・ウルスラはまだ療養院に?」
「それは――」
善良な笑顔で何気なく聞かれて、わたしは絶句してしまう。思わず口元を押えて俯いたわたしを、殿下がそっと抱き寄せ、優しい口調で言った。
「彼女は軍の仕事で東の――ビルツホルンまで。……レディ・ウルスラは亡くなって、葬儀もすんだのですが、彼女は家族もいなくなってしまったので、一人にするよりは仕事をしていた方がいいだろうと」
「んまあ! なんてこと!」
「そんな、全然、存じ上げませんでしたわ! 王都の新聞に死亡広告はお出しにならなかったのね!」
「……ええ……王都には特に知り合いもおりませんでしたので、地元の方でだけ……」
半ば涙声になってしまったわたしを気遣うように、殿下が二人の老婦人に言う。
「レディ・ウルスラが最後に、王都でもご友人に恵まれたようで、幸いです。……リーデンまで三日ほどある。もしよければ、また、彼女と話をしてください」
「え、ええ、もちろんですとも」
「では、失礼します」
殿下に支えられるようにして、わたしは食堂車を後にした。
思わぬ人に会って、わたしは動揺したまま個室に戻る。
ジュリアンに笑顔で出迎えられて、わたしは思わず目を逸らした。
「では俺はこれで。――夜間は食堂車と連結する入口を中心に警備します。途中、駅で停まると思いますが、この車両の入口は開きません」
ラルフ・シモンズ大尉が殿下に言えば、殿下が頷く。
「ご苦労だった。明日の朝食は――」
「八時で予約しております」
ジュリアンがすかさず言い、殿下が手を挙げて、シモンズ大尉は下がった。わたしがキモノ・コートを脱ぐと、すぐにジュリアンがそれを受け取る。
「お着替えはそちらに準備を。宝飾品だけお預かりして、他に御用がなければ俺も下がりますが――」
殿下がすぐに、わたしの背後に回ってダイヤモンドの首飾りを外し、それをジュリアンに渡した。わたしもイヤリングを外す。
「……ごめんなさい、お水を一杯、いただけるかしら。……ああ、いいわ、車掌に頼むから――」
わたしが言えば、ジュリアンが微笑んで言った。
「いいえ、ご用は俺に御申しつけください。こちらには車掌は滅多に近寄りませんので」
ジュリアンは宝石鞄を金庫に入れに行くついでに、冷えたミネラル・ウォーターの瓶とグラスを持ってきた。
「外はかなり冷えてまいりましたね。今年は冬が早くて、もっと東の、クレヴァネス山脈を突っ切る辺りでは、すでに初雪が降ったそうです。……数年前ですが、豪雪で列車が閉じ込められたことがありましてね。リーデンより東は戦争で運行をやめていて、再開後初めての冬ですから、慎重に進むんじゃないでしょうか」
「……まあ……」
ミネラル・ウォーターを一口飲んで、わたしは溜息をつく。
「お前も食事をしてきたらどうだ。後は大丈夫だから、もう下がっていいぞ?」
「では、そうさせていただきます。この隣の部屋ですから、何かあれば壁でも蹴り上げてください」
ジュリアンが壁を指さし、一礼して下がっていった。
「大丈夫か、疲れてしまったか」
殿下が、ぐったり座り込んで着替える気力もないわたしを気遣って言う。――座席はすっかり、寝台のように整えられていた。小さなテーブルを挟んで、ギリギリ、大人一人が寝られそうな狭い寝台が二つ並び、白いシーツがかけられて、毛布と掛布が折り畳んで置いてある。
殿下と当たり前のように同室で眠る状況が、わたしの気分をさらに滅入らせていた。
「いえ、その――意外な人に会ったので……」
やはり、来るべきでなかった。
祖母が死んだばかりなのに、殿下とはいえ、男性と旅行してチャラチャラ着飾って……なんて軽薄な女だと思われたに違いない。たとえ新聞記者に取り囲まれたとしても、王都で一人過ごすべきだった。
思わず両手で顔を覆ったわたしの、隣に腰を下ろして殿下が背後から抱きしめる。
「……偶然だが、仕方ない。それほど、親しいわけでもなかったのだろう?」
「ええ、お会いしたのは一度だけで――祖母は、お世話になったようですが」
殿下はわたしの懸念を感じ取ったのか、わたしの手を取って握り締めて言う。
「俺が――無理を言って連れてきたんだ。お前は気にすることはない」
「でも――」
「愛してる。……これ以上、ひと時でも離れるのは嫌なんだ。全部、俺が悪い。俺のせいにしておけ」
殿下はわたしを抱き寄せ、わたしのこめかみに口づけを落とした。――列車の揺れるゴトン、ゴトンという音が、閉じた瞼の奥でずっと響いている。
簡単にシャワーを浴びて着換えて、わたしは寝間着の上にいつもの薄紫色のキモノを羽織ると、ベッドメイキングの出来上がった座席に腰を下ろす。真っ暗な窓の外を眺めながら、グラスのミネラル・ウォーターをちびちび飲んでいた。暗い窓には室内の灯りと、わたしの疲れ切った顔が映っている。その背後に、線路わきの灯りと、町の灯りがビュンビュン流れていく。
ゴトン、ゴトン……
列車は常に揺れ続け、黒い窓の外の灯りも揺れ、後ろへと流れていく。
まるで、流れ星のように。
殿下がシャワーを終え、シャワー・ブースからバスローブを羽織って髪を拭きながらやってきた。わたしの隣に座ると、小テーブルの上に準備されている、デキャンターのブランデーをグラスに注ぐ。
そして準備されたベッドを見て苦笑した。
「添い寝で我慢するつもりだったが、ベッドが狭すぎて添い寝の方が難しいな」
いったい何のお話なのか……わたしの困惑を余所に、殿下はわたしを抱き寄せ、唇を奪ってきた。微かにブランデーの酒精の味がする。
「……苦いです。お酒臭いし」
「お前のキスが甘すぎるんだ」
殿下は飲み干したブランデーのグラスを小テーブルに置くと、わたしをベッドに押し倒した。
「ダメ、ですってば!」
「わかている。キスだけ――」
そんなことを言いながら、殿下の唇はわたしの首筋を這い、鎖骨を過ぎてモスリンの寝間着の上から、わたしの胸に顔を埋める。服の上と言っても布地は薄く、肌着を着ていないから、わたしの身体のラインは全部透けてしまって、むしろ裸より恥ずかしい。
「エルシ―……もう少しだけ……」
しばらくスーハ―と深い息を吐いていた殿下が、身体を起こす。わたしはホッと、安堵の息をついた。
「せめて、お前が眠るまで一緒のベッドにいたい。……子供の時、いつも、そうしていただろう?」
殿下が微笑んで、枕元の灯りを残して個室の灯りを消した。室内が暗くなると、窓の外の風景がよく見える。真っ暗な闇の中に、ぽつ、ぽつと淡い光が灯っているのは、農村の人家だろうか。その光が車窓を流れていく。
「いくら何でも狭すぎるわ」
狭い寝台の上でぎゅうぎゅうになって抱きしめられ、わたしが文句を言えば、殿下はわたしの身体を胸の上に乗せるようにして、掛布を引き上げて身体を覆う。
「いいんだ。もっと狭くて硬くて、寒くて湿って、かび臭くて悲惨な場所で寝たこともある。――塹壕の中で、いつ、敵襲があるかわからないから、俺も交代で見張りに立ったんだ。凍てつくような寒い夜で、星だけは信じられないくらい綺麗だったけれど。……もう一度、お前を抱き締めて眠れるなら、そのまま死んでもいいと思っていた。今、本物のお前が腕の中にいるのに、手放すなんて絶対にできない」




