首席秘書官ロベルト・リーン大尉の独白
「神罰が下ったんです。……わたしが、おばあ様の言いつけに背いたから。だから、おばあ様が亡くなって、わたしは一人になった。……さようなら、アルバート殿下」
療養院のヴィラで、エルスペス嬢から別れを告げられた殿下は、文字通り膝から崩れ落ちた。
――ものすごい、一撃だった。
戦場で「ランデルの金狼」と称えられ、無敵の強さを誇った殿下を、エルスペス嬢はたった一言で完膚なきまでに叩きのめしてしまった。
殿下はやり方を間違えた。
彼女を手に入れるために彼女の祖母をダシにして、強引に囲い込んだ。
共犯者のオレが言うことじゃないかもしれないが、要するに殿下の自業自得だ。
祖母の死によってこうなることは、当然、予想できることなのだから。
最愛のエルスペス嬢に振られ、魂が抜けたみたいになった殿下を、オレは引きずるように王都のアパートメントに連れ帰り、まずは姉貴に電話をかけた。
『ロベルト! どうなってるのよ! あのムカつく公爵令嬢と、殿下が婚約ですって? 話が違うじゃない!』
姉貴はステファニー嬢にサロンに踏み込まれたことを恨みに思っているから、議会が婚約を承認したというニュースにカンカンだ。
「ねえさん、今はそれどころじゃなくて……エルスぺス嬢に喪服が必要になったんだ。彼女のおばあ様が亡くなった」
『喪服? まあ、ご愁傷様。……喪服ねぇ……うちにも高級既製服は数着しかないわ。友達のメゾンにも聞いてみるわね。あとは黒い靴と下着……コートに手袋、帽子も必要ね。わかった、揃えておくから取りにいらっしゃい』
「恩に着るよ!」
だが、姉貴は予想外のことを言い出した。
『長期の旅行に行くからってその用意もしてたんだけど。豪華客船で駆け落ちってやつ』
「駆け落ちぃ? 何それ、オレは聞いてねーよ!」
『駆け落ちなんだから、あんたなんか連れていくわけないじゃない。お邪魔虫もいいところだわ』
「いやいや、あの人、何のかんの言っても王子様なんだから、一人じゃあ切符一つ買えないって! 無理! 飢え死にする! だいたい誰に頼んでそんな――」
と言ってから思いついた。
殿下はオレに、エルスペス嬢の旅券を申請するように命じていた。他に客船のチケットを手配するとなると――。
「バーナードか! わかった、ありがとう! 喪服頼んだよ!」
オレは電話を切ると、バーナード・ハドソンのオフィスにダイヤルした。
『おお、ロベルトか、久しぶりだな』
「バーナード! アルバート殿下、客船の予約してる?」
『ああ、しとるよ。ハンプトンの港から出るやつで――十日後ぐらいに出港するやつを今、押さえている。二人分。愛人と駆け落ちするつもりらしいが、二人っきりは無謀過ぎるから、お前や従僕の分も押さえた方がいいか?』
バーナードの発言に、オレは当然キャンセルを頼み、告げた。
「彼女の祖母が亡くなったんだ。駆け落ちどころじゃないね」
『それは大変だな……というか、殿下は彼女の祖母を残して二人で逃避行する気だったのか?』
「それは――」
確かにあまりに短絡的だ。
殿下は肉弾戦には無敵の強さを誇るが、戦略的思考が苦手だ。
相手の出方の先の先の先を読む、というのができない。――というかやりたがらない。
だからレコンフィールド公爵に対し、完全に後手に回ってしまった。
オレは電話を切ると、エルスペス嬢の寝室に籠ってしまった殿下を思い浮かべて、溜息をつく。さすがに女に振られたくらいで自殺したりはしないだろうが、数日は使い物にならないだろう。
オレが寝室を覗くと、殿下は彼女が着ていたらしい藤色のキモノ・ガウンを抱きしめて、しくしく泣いていた。
大の男が、気色悪りいんだよ。まったくもう――。
そう思ってオレはふと、暖炉の上に飾られた、印象派を目指して失敗したみたいなへたくそな絵を見上げた。
そうだ、エルスペス嬢の「大事なもの」。
故郷の城も爵位も、すべてを失った彼女に唯一残された、思い出の絵。
殿下ははっきりは言わない。でも、この絵を描いたのは少年時代の殿下だ。
第三王子アルバート殿下は、表向きは王宮育ちで、幼少期に王都を離れたことはない。でも、オレの推測では、士官学校入学前後の数か月を、ストラスシャーのリンドホルム城で過ごした。
そして――当時、六歳か七歳のエルスペス嬢と、忘れられない出会いをした。
もしかしたら、殿下があの過酷な戦場を生き抜いたのも、彼女と再会したい一心だったかもしれない。
意に添わない婚約者だったステファニー嬢との結婚話は白紙に戻していたし、帰国当初から、エルスぺス嬢と結婚できると信じ込んでいたフシがある。
今となっては、その自信はいったいどこからと思わざるを得ないが、司令部で初めて彼女を見た時から、殿下は妙に浮かれていた。最初のデートは旧ワーズワース邸に決めていたと言う。
女を口説くのに巨匠の天井画? 庶民のオレには殿下の頭が沸いてるとしか思えなかったが、あの天井画が二人の思い出に関わっていたのかもしれない。
ところが、エルスぺス嬢は天井画どころか、殿下のことをまるっと忘れていた。
でもマクシミリアン・アシュバートン中佐も、エルスペス嬢の祖母レディ・ウルスラ・アシュバートンも、殿下の正体を知った上で、知らぬふりをしていた。
――殿下が過去、リンドホルムで過ごしたことは何か重要な秘密らしい。だから、殿下は過去のことをエルスペス嬢には告げていないのだろう。
レディ・アシュバートンの今際の際に、老夫人とエルスペス嬢と殿下とで、どんな会話があったのか、オレにはわからない。でも、エルスペス嬢は殿下と自分の過去を、うすうす知ったに違いない。
その上で彼女は、殿下との関係をすっぱり断ち切ったのだ。
殿下があの絵の作者だと知り、むしろ恩人でもある祖母の病に付け込んだ殿下に対して、幻滅の度を強めただけかもしれない。
殿下が彼女を取り戻すのは、かなり難しい。
かなりなんてもんじゃない。絶望的だ。
レコンフィールド公爵令嬢との婚約は議会の承認を得ているし、エルスペス嬢は婚約者のいる男との関係は続けられないと、バッサリ斬り捨てた。
いや、そもそも、没落したとはいえ元伯爵令嬢に、祖母の医療費をたてに関係を迫ったのは殿下だ。
どうして我慢できなかったのかな。
どうしてヤっちゃったんだろうなと、側近の誰もが頭を抱えているし、どうして止めなかったと実際、詰られた。
でも、オレには止められなかったんだよな。
殿下は戦場で、夜になると塹壕から夜空を眺めていた。真っ暗な空を横たわる、満天の星を。
兵士たちと同じ、支給品の粗悪で不味い紙巻煙草をくゆらせながら、星空の向こうの、遠い何かを見ているようだった。
その金色の瞳は、あの絵を眺める時の殿下の瞳と同じだった。
そう気づいた時に、オレは理解した。殿下はずっと、エルスペス嬢の「大事なもの」――遠い日の思い出――を眺めていたのだと。
たぶん、殿下にとってはエルスペス嬢は人生を懸けても取り戻したい「大事なもの」だった。
機関銃や、地雷原、毒ガス……オレも戦地で過ごしたからわかる。
いつ果てるともしれない敵の爆撃を、塹壕の中で耐えたことも、地雷に吹っ飛ばされた味方の手足が目の前に降ってきたこともある。
第三王子の殿下が文句ひとつ言わずにそれに耐えるばかりか、自ら味方の兵士を鼓舞し、反撃の最前線に立った。
そうして、オレも、殿下も生き残ったのだ。
過酷な戦場を乗り越え、長い旅路の末に目指す泉にたどり着いた人間に、その水を飲むななんて、オレにはとてもじゃないが言えなかった。
オレはまだしくしく泣いている情けない殿下を一瞥してから、もう一度、暖炉の上の絵を見上げる。
エルスペス嬢に薔薇園の絵だと言われて、ようやく抽象絵画じゃなかったことに気づいたくらいの、へたくそな絵。
それは殿下と初恋の人を結びつけていた細い糸だ。その思い出の絵を見つめ、オレは覚悟を決めた。
――オレは殿下の戦友であり、共犯者だ。腹を括る。
エルスペス嬢は秘書官はやめると言ったらしいが、辞表も出ていない。
とりあえず休暇扱いにして、退職手続きは後回しだ。殿下が駆け落ちのために作らせた旅券も、折よく出来上がってきた。
これから、彼女の周辺はきな臭くなる。いざとなったら、国外に逃がせるように、手筈を整えた方がいい。
あとは――
姉貴が用意してくれるはずの喪服一式を持ってマクガーニ閣下の屋敷に向かい、エルスペス嬢に押し付けて恩を売る。
絶望的な状況でも、万に一つの奇跡を諦めなかった、殿下のために、彼女とのわずかな糸を切らさないように――




