prologue2
第二章が始まります
「バーティ、お前は所詮、傀儡なの」
王妃宮を支配する雪の女王は、僕にそう、繰り返した。
「お前はゴーレムなのよ。粘土でできた醜い人形なの。バーティ、お前が死ねば、ジョージの病は治るに違いないのに――」
閉ざされた王妃宮で、些細な落ち度を咎められて鞭打たれ、そのたび彼女は僕にこんな呪詛を吐いた。
「ジョージの代わりに、お前が死ねばいいのに」
血塗れになった背中に、彼女は尖った爪で何やら唱えながら文字を書く。引き攣れる痛みに悲鳴がこぼれそうになるのを、僕は歯を食いしばって耐えた。悲鳴をあげたら、もっとひどい目に遭わされるから――。
Shem |HaMephorash。
ゴーレムを操る呪いの言葉。雪の女王は僕の背中に、その言葉を刻み込んだ。
「ゴーレムを動かすためには、額に『emeth』と書くの。ゴーレムは奴隷だから命令に逆らえない。破壊するときは、一文字を消せばいい。『meth』の意味になって、ゴーレムは粘土に戻る」
痛みを堪えていても、堪えきれない涙が目尻から流れ落ちるのを見て、雪の女王は軽蔑したように喉の奥で嗤った。
「土人形のくせに泣くなんて、生意気だこと。……まあいいわ、せいぜい、人間の王子のフリをしていなさい。お前が用済みになる、その時まで。可哀そうな、醜いバーティ」
僕は呪われた、醜い王子。ただのスペアで、本来なら生まれてはいけなかった。
いつかは、ジョージの代わりに死ぬ。僕が死ねば、ジョージの病が治る。
バーティの名は、僕にとって、呪いの名前だった。
ほとんど殺されそうになったところを、従僕のヴァルターに救われた。だが、王妃の怒りを買ったヴァルターは、王宮をクビにされてしまった。
「明けない夜はなく、止まない雨はない。どれほど凍てついた氷も、いつか溶ける。雪の女王は、永遠ではない。いつか、どこかに必ず救いがあるはずです」
呪われたゴーレムに救いなんてあるはずないと思ったが、ヴァルターは僕に小さな缶を渡してきた。
「何これ、塩……?」
「極地への探検隊が物資の一つに加えたそうです。人は要するに、これと水さえあれば生き延びられる」
缶の中の白い塊は、キンダーという街で作っているミント・ケーキ。ケーキと言うけれど、つまり砂糖の塊。
食事を抜かれるたびに、ヴァルターのくれたミント・ケーキを齧り、僕は雪の女王の支配する凍てついた王宮を生き延びた。――そのおかげで、甘い物が嫌いになったけれど。
十四歳の冬の終わり、ミント・ケーキも食べ尽くし、空腹で半ば朦朧とした僕は、普段は近づかない蓮池の側を歩いていた。
最近読んだ東洋の物語。ブッダという東洋の神が蓮池から下界を覗いて、蜘蛛の糸を垂らす話があった。たまたま一度だけ蜘蛛を助けた罪人はその細い糸を辿り、地獄を抜けようとする。
――蓮池が天界につながるのなら、逆に、この蓮池から覗けば――。
薄暗い濁った蓮池の水に映った、痩せて冴えない少年の顔。
粘土できたゴーレムならば、水に落ちれば元の粘土に戻るのではないか。
僕は黒く澱んだ池に身を乗り出し――。
そこで、僕の記憶は途絶えた。
池に落ちた僕は近くにいた衛兵に救助された。意識のない僕を診察した王宮の若い医師が、栄養状態の悪さと体罰の痕に驚き、父上はようやく、虐待に気づいた。
父上は事を表沙汰にしないよう、特務将校であるマクシミリアン・アシュバートン少佐を呼び出し、僕を預けた。……というよりは、押し付けたが正しい。それで、マックスは僕を表向き寄宿学校に入れたことにして、自分の領地である、ストラスシャーのリンドホルムに連れていった。
王都から汽車で一日、ストラスシャーの広大な荒地のほとりにある、古く堅牢で、巨大な城に。
馬車は荒地を横切り、車窓から見えるのはひたすら続く荒涼とした風景。三月の頭、どんよりと灰色の分厚い雲が垂れこめ、西の山際に薄っすら茜色が覗く夕暮れ。東からは黒々とした夜が忍び寄り、奇妙に曲がった灌木のシルエットが、荒野を吹き抜ける風に揺れる。
「吸血鬼でも住んでそうだね」
ポツリと呟けば、対面に座るマックス・アシュバートンが笑った。インバネス・コートを着込み、トップハットをかぶったガッチリした体格は、一見、厳しそうに見えるが、ブルーグレーの瞳は慈愛に満ちていた。
「残念ながら見たことはないな。ほら、あれがリンドホルム城。代々の、リンドホルム伯爵の居城だ」
僕は夕闇に包まれた城と周囲の荒地を眺めて、呟いた。
「僕がアルバート王子ってことは内緒なんでしょ?」
僕が言えば、マックスも頷く。
「そう、君はオーランド伯爵の息子で――バーティ、だとバレるな。アルバート・アーネスト・ヴィクターだから……」
「リジーって呼んでよ」
「リジー?」
彼を遮るように言えば、マックスが首を傾げる。
「洗礼名がレジナルドだから、リジー。ローズはいつも、そう呼んでた」
「そう、じゃあ、君の名はリジー・オーランドだ。リジーはローズが産んだ息子で、少し訳ありで、オーランド邸で体を壊したから、転地療養だと言ってある」
「じゃあ、ずっと寝てた方がいいの?」
僕の問いに、マックスは首を振った。
「君の健康を取り戻すために、わざわざ王都を離れたんだよ。ずっと寝ていたら意味がない。あの城の庭は広い。年の近い友人はいないが、幼い子供が二人いる」
「子供? あなたの子供?」
「そう。七歳の娘と五歳の息子。娘がエルスペス、息子がウィリアム」
「エルスペスと、ウィリアムだね。わかった。……小さい子のわがままはステファニーで慣れているから、大丈夫」
マックスは複雑そうな表情をした。
「エルスペスは庭いじりが好きで、いつも〈ローズの庭〉にいるそうだ」
〈ローズの庭〉という言葉に僕はハッとしたけれど、それが何かを問いかける前に、馬車は城門をくぐった。
春はまだ浅く、寒々とした庭園の長い散歩道を歩く。十字路の中心に小さな噴水があり、両側を蔦で覆われた壁がそびえる。……こんな庭は見たことがなかった。いくつか扉を開けて覗いてみれば、中は菜園だったり、果樹園だったり――だがある扉を開けた時、僕は思わず立ち尽くした。
そこは光に溢れた小さな庭だった。生垣と花壇で囲まれた、石畳の小道が続く。蔓薔薇のアーチの向こうで、白い大理石の噴水が涼し気な音を立てる。蔓薔薇の這ったレンガの壁の、壁泉から流れる小川が庭を横切り、小道は小さな石の橋で小川を跨いで、奥の丸い屋根の、白い四阿まで続いている。横に張り出した巨木の枝には、さっきまで誰かが乗っていたのか、ブランコが揺れていた。
今は花の季節ではないから、茶色と常緑樹の濃い緑に覆われているけれど、春になったらきっと薔薇の泉になるに違いない。
「誰かきたよ?」
「誰?」
子供の声がした。目を転ずれば、花壇の向こうに赤いコートと黒いコートを着た、幼い子供が二人。赤いコートの子は少しだけ背が高く、赤いベレー帽をかぶって、亜麻色の髪を肩に垂らしている。黒いコートの小さい方は無帽で、同じ亜麻色の髪は短い。どちらもコートの下から毛織のスカートが見えているが、小さい方は男の子だとわかった。――男児も、幼いうちはスカートを穿いて過ごすのが普通だから。
彼らの背後で、庭師の服装をした老人が腰をさすりながら立ちあがる。厳しい目で僕を見つめ、手には雑草を刈る鎌を構えている。僕は慌てて両手をあげ、危害を与えるつもりはないと示した。
赤いコートの子が走り寄ってきて、僕を見上げた。ブルーグレーの瞳が、冬の日差しに煌く。赤い帽子の下に零れる、亜麻色の髪はゆるく波打って、彼女の細い肩を覆っている。陶器の人形のように愛らしく整った顔立ちに、ミルク色の肌は、少し上気して頬が桃色に染まっていた。
「あなた、誰?」
「僕は――その……ええと、リジー。リジー・オーランド」
「お父様が言ってらした、おばあ様の親戚の人?」
頷けば、彼女は言った。
「ヒマなの? ヒマなら、雑草を抜くの手伝ってちょうだい!」
見れば彼女の小さな手は泥で汚れ、片手には抜いたばかりの雑草があった。
いきなり雑草を抜けと言われて、呆然としている僕の手を引っぱり、庭の奥へと小道を導く。四阿の周囲に、緑の草が生い茂っている。
「僕は、ローズの息子なんだ。……ここは、〈ローズの庭〉?」
「……ローズ? ええ、そうよ、ここは薔薇園よ? 今はまだ季節じゃないけど、今からちゃんと手入れをしないと、薔薇は咲かないの。だから雑草を抜くのよ? ほら、あなたも早く!」
女の子は、薔薇の根本の草を引き抜いた。
「この庭は特別な庭なの。知らない人は入っちゃダメなのよ。でも、雑草を抜いてくれたら、あなたは特別に許してあげる!」
そう言って、僕を見上げたブルーグレーの瞳。
あなたは特別に許してあげる――。
永遠に続くと思った闇を、一筋の光が切り裂いていく。
僕を取り巻く世界の色が変わり、彼女の周囲で光の粒が弾け、僕は彼女の背中に光の羽を幻視した。
僕は泥でできたゴーレムかもしれないが、この庭での存在を彼女に許された。
名前も正体も偽っている僕の嘘が知られたら、額の『emeth』の文字は『meth』に変わって、元の土くれに戻ってしまうとしても。
僕は、その瞬間まで、この光溢れる庭のことを忘れない――。




