42、悪い報せ
アルバート殿下は、ステファニー嬢との婚約はすぐに白紙に戻せるかのような、楽天的なことを言っていた。
そう、基本的に殿下は自信過剰で、何でも思う通りになると思っているところがある。貴族社会が陰険で冷酷であることに、気づいていないのかもしれない。
――彼らは、敵対する者のもっとも弱い部分を狙う。そのことを殿下は忘れていたのだ。
ドライブから戻って、オーランド邸の壮麗な玄関前の車寄せに停まり、殿下がサイドブレーキを引く。殿下が車を降りるよりも早く、玄関前に待機していたヴァルターさんが駆け寄ってきた。
殿下がご自身でドアを開けて降りる間に、ヴァルターさんは助手席のドアを開けてくれ、わたしはオーランド邸に降りたつ。
「荷物は下ろしておいてくれ。……中に入ろう」
殿下はわたしの腰を抱いて、テラスに続くサロンに入った。サロンにはすでにアフタヌーンティの仕度ができていて、殿下と二人、大きなソファに並んで腰を下ろす。すぐに、メイドがお茶のポットを運んできた。
昼食が簡単だったので、わたしは少しばかりお腹が空いていた。三段重ねのトレイには、サンドイッチやスコーンとともに、チョコレート・ケーキが並んでいて、わたしはすぐにそれを皿に取る。甘い物の苦手な殿下はチーズとハーブのスコーンと、スモークサーモンのサンドイッチを頬張る。
吹きっさらしの車で走ってきて、すっかり身体が冷えていたわたしは、熱いお茶にホッと生き返る気分だった。
「外でいただくお茶も美味しいけど、やっぱり室内の温かい部屋でいただく方が美味しいわ」
「……戦場にいるときは、水が飲めるだけでもありがたいと思うがな」
そんな話をしていると、ガチャリとやや乱暴に扉が開き、ヴァルターさんが速足で駆けこんできた。
――訓練された執事にあるまじき仕草に、わたしも殿下も悪い予感がして、思わず顔を見合わせる。
「ヴァルター? 何かあったのか?」
「はい、殿下。たった今、王立療養院より連絡が入りまして」
療養院と聞いて、わたしの血の気がさっと引いた。――祖母に、何か?
「……レディ・アシュバートンか?」
「はい……午後に大きな発作を起こされて――重態であると」
ガシャン、とわたしは手にしたカップを取り落とし、そのまま殿下の腕の中に倒れた。
「エルシー! しっかりしろ!――ヴァルター、すぐに馬車の仕度を」
「はい、もう命じてございます。そろそろ準備が――」
殿下に抱きかかえられるようにして、わたしは馬車に乗り、王都の反対側の郊外にある、王立療養院に急いだ。
夕方の渋滞に巻き込まれ、療養院に着いた時にはもう、日が落ちていた。
気もそぞろな状態で祖母のヴィラに駆けつけると、別行動をとっていたロベルトさんが出迎える。
「おばあ様は――」
「今、コーネル医師が来てるけれど、あまりよくない。……ひどい、ショックを受けたらしくて」
ロベルトさんの説明に、殿下が眉を顰める。
「何が、あった」
「午後に、来客があったそうで――身なりのしっかりした男性で、こちらに名刺が」
ロベルトさんから渡された名刺には、「トマス・グリフィス・アンド・ジェームズ・ウィンボーン法律会計事務所 弁護士ジェームズ・ウィンボーン」と印字されていた。
「弁護士……弁護士が、何の用だ?」
ロベルトさんが一瞬、奥の部屋に続く扉に目をやって、それから声を落として言った。
「この事務所は、レコンフィールド公爵の顧問弁護士だ」
「!!」
わたしが息を飲む。
「オレがここに着いた時には、もう、レディ・アシュバートンに意識がなかったが、同席していた執事の言によれば、この男はレコンフィールド公爵の使いだと言って、レディ・アシュバートンに一万ポンドの小切手を差し出して言ったそうだ。――この金で、孫娘とアルバート殿下を別れさせろと」
「つまり――」
殿下の声が掠れていた。
「……心臓の悪いレディに向かい、孫娘がアルバート殿下の愛人になっているのは、祖母の入院費用のためだと暴露した。そして一万ポンドで手を切らせろと迫った。それからこれ――弁護士が置いていった封筒」
殿下はロベルトさんから渡された茶色い封筒を覗き込む。殿下の眉が大きく歪み、眉間に深い縦皺が刻まれる。
「……クソッ、下衆野郎め! いつの間に!」
殿下が隠そうとしたそれを、わたしは無理矢理奪い取って見た。
――親密そうに寄り添うわたしと殿下の写真。殿下の唇がわたしの耳スレスレに触れそうなものや、殿下の手がわたしの腰に回されたもの。わたしは流行のドレスに華やかな装身具を身にまとい、どこからどう見ても男の愛人だった。……物堅い、昔気質の祖母の目には、売春婦のように見えたかもしれない。
心臓が早鐘のように打ち、頭が真っ白になる。
わたしが立っていられなくなって、その場にフラフラとと倒れそうになるのを、殿下が抱き留める。手から封筒が滑り落ち、写真が足もとに散らばった。
「エルシ―……」
殿下がわたしを抱きしめ、ロベルトさんが慌てて足元の写真を拾っているところに、ガチャリと扉が開いてジョンソンが出てきて、わたしと殿下の姿を見てギョッと身体を硬直させる。
「……お嬢様!」
「ジョンソン……!」
わたしは殿下の腕から逃れようとしたけれど、まだ足もとがふらついていて、殿下が支える。
「おばあ様は……」
「はい……さっきまで大変なお苦しみようで、今は先生のお薬が効いて、眠っていらっしゃいますが……」
ジョンソンの青ざめた表情が、状態のよくないことを如実に物語っていた。
ジョンソンはわたしと殿下を居間のソファに座らせると、午後の客人について説明を始めた。
「だいたいのところはロベルトから聞いた。レコンフィールド公爵家の顧問弁護士だと」
アルバート殿下が言えば、ジョンソンが頷く。
「はい。名刺を出されて……何分、憶えのない名前でございましたが、公爵家の使いとのことで無下にもできず、奥様が今日はお加減もよろしかったので、お会いになりました」
「どんな男だった」
「はい、小太りの……額が禿げあがって……何と申しますか、高圧的な男で。『孫娘を売り渡して、いい生活をしている』と」
ジョンソンが唇を噛む。
「奥様は何のことかおわかりにならず……そこへ、男はやにわ一万ポンドの小切手を出して。お嬢様をアルバート殿下から引き離せば、さらに倍額支払ってもいいと。なおも理解できないご様子の奥様に、その、お写真を――」
こんな形で、わたしの不行跡を知らされた祖母の、衝撃はどれほどだっただろうか。
「ですが奥様は、最後まで矜持を保っておられて、『孫を売り払うつもりはない』と断固として小切手はお受け取りにならず、弁護士を追い返したのでございます」
「おばあ様――」
顔を覆ってしまったわたしの耳に、ジョンソンの声が落ちる。
「……その後で、奥様はわたくしにお尋ねになられて……お嬢様は今、どちらに住んでいるのだと――それで……何とか誤魔化そうとしたのではございますが、奥様の追及も厳しく……」
ジョンソンが頭を下げる。
「申し訳ございません。お嬢様が、殿下のアパートメントにご厄介になっていると申し上げましたところ、奥様が……胸を、押えて――」
「もういい、わかった。それ以上は言うな!」
ガタガタ震えだしたわたしを抱きしめて、殿下がジョンソンを止める。
おばあ様が、知ってしまった。
わたしと、殿下の関係を。
わたしが、殿下の愛人として囲われている、事実を――。
その時、扉が開いて中年の看護婦が顔を出して言った。
「お目を覚まされました。ですが――」
わたしが立ち上がると、殿下も一緒に行くと言い張った。
「でも――」
「俺も、話すことがある。どうしても」
こんな状態で、おばあ様に殿下を会わせるなんてと、わたしはためらったが、ジョンソンが口を挟んだ。
「畏れながら……ご一緒にお話しなさる方がよろしいかと。アルバート殿下……いえ、リジー様」




