40、議会の承認
その夜、わたしは夕食と入浴を済ませ、暖炉の上に飾った、薔薇園の絵を見ていた。
昼間、レコンフィールド公爵令嬢に「愛人」と罵られたことで、わたしも自分の行く末を考えなければならないと、思い始めていた。祖母が退院したら、アルバート殿下との関係も変わるだろう。
殿下とレコンフィールド公爵令嬢は近々正式に婚約する。そう、ステファニー嬢が言った。国王陛下の裁可が降りたのだと。
殿下はわたし以外と結婚することなどない、一生、わたしだけだと誓ったけれど、そんな実効性の薄い誓いを信じるほど、わたしはもう、純真無垢ではない。
殿下の婚約が決まったのなら、別れてもらおう。そういう約束だった。
――殿下は、無意味な約束だと仰ったけれど。
殿下と別れて、そしてそれからどうするのか。
このアパートメントを出て、仕事も辞めて。祖母のために空気のいい家と、新しい仕事を見つけて……。
そこまで考えて、わたしは無意識に首を振る。
祖母はわたしが働くことに反対だ。でも働かずにどうやって生きていくのだ。
当座のお金だけでも、殿下に出してもらう? 手切れ金としていくばくか。
しかし、莫大な入院費用まで出してもらって、この上、お金を要求するなんて、あまりに恥知らずだ。
ならば、買ってもらった宝石を売るとか――。
わたしは薔薇園の絵を見て、溜息をつく。
三年前、リンドホルム城を追われて王都に出てきたばかりの時も、こうやってこの絵を見上げて溜息ばかりついていた。母の思い出の染みついた宝飾品を、二束三文で売り払いながら。……またあんな日々を送るのは、正直うんざりだ。
ああでも、他にはもう方法が――。
廊下からの物音が、殿下の訪れを知らせる。
ステファニー嬢との一件は、きっとジョナサン・カーティス大尉から報告は上がっているだろう。
出迎えの準備をする間もなく、コネクティング・ドアが開いて、殿下が寝室に入ってきた。金色の瞳が危険な輝きを湛え、烈火のごとく怒り狂っていた。
「殿下?」
わたしが声をかけると、殿下は長い脚でわたしに歩みよりながら、もどかし気に上着を脱ぎ、帽子を投げ捨て、立ち尽くすわたしに襲いかかるように抱きしめて、噛みつくようなキスをした。
「!……ま、待って……」
「待てない」
殿下はわたしをベッドに押し倒して、性急に身体を求めてきた。殿下の身体からは強い煙草の香りがして、大きな体に押し潰されるように、怒りに任せて力ずくで身体を暴かれる。もとより逆らえる相手ではなく、わたしは殿下に貪られるままに、体を差し出すしかなかった。
情事の後で、殿下が紙巻煙草を吸いながら忌々し気に言った。
「議会が俺の婚約を勝手に承認しやがった」
それが、殿下の怒りの原因。
レコンフィールド公爵とその一派は、殿下とステファニー嬢との婚約を強引に国王に認めさせ、そのまま議会にかけて承認を取り付けてしまったのだ。
殿下は王太子でもないし、結婚相手には大きな制約はない。
でも、王子の結婚である以上、議会の承認は必要だ。結婚の費用その他の特別予算は、議会の承認なしには下りないし、その後の、王子妃としての予算にも議会の承認が必要となる。
ステファニー嬢は大戦前から、正式ではないが殿下の婚約者扱いを受けていた。折しも、四人目を妊娠していた王太子妃が流産してしまったらしい。その情報が議会の王統に対する危機意識を強め、第三王子の婚約に対し、深い議論もなくあっさりと通してしまったという。
ステファニー嬢の言っていたのは、このことだったのだ。国王の裁可を得て、議会の承認を得る。その過程に、殿下の意志が全く反映されていないことを、ステファニー嬢は知っていたのだろうか? 殿下は昼間、自分の婚約が議題に掛けられることを知り、慌てて王宮に出かけた。でも、議席を持っていない殿下には、議会の動向を左右することはできなかった。
殿下がいくら怒り狂っても、議会が承認したものを覆すのは不可能だ。
要するに殿下とレコンフィールド公爵令嬢との婚約は、正式に決まった。――ならば、わたしとのこの関係も、今日で終わりにするべきだと思う。
秘書官の業務の一環として、殿下との関係を続けてきたけれど、婚約者がいるならそれは不貞行為だもの。
しかし殿下はわたしを手放すつもりはないと、言い切った。
議会が何を言おうと婚約を認めるつもりはないと――
――神罰は本当に下るのよ。
不意に、祖母の言葉が脳裏をよぎる。
そうだ、これは神の許さない関係だ。
今まではまだ、正式な婚約者はいないと言い訳もできた。でも、それももう、今夜まで。
いずれ、この関係が明らかになれば、醜聞にまみれて潰されるのはわたし。
婚約者のいる男と寝るなんて、自身だけでなく、家族の誇りまで傷つけることだ。なのに――。
翌朝の朝刊の一面は、第三王子アルバート殿下と、レコンフィールド公爵令嬢、レディ・ステファニー・グローブナーの婚約が議会の承認を得た、との記事がでかでかと出た。
ベッドの上でその記事を一瞥すると、殿下は怒りに任せてぐしゃぐしゃに握り潰し、放り投げて言った。
絶句するわたしを正面から見つめて、殿下は決意を込めて言う。
「今度という今度は俺も怒っている。……俺は、ステファニーとは結婚するつもりはない、他に好きな女がいると、何度も父上にも公爵にも言ってきたんだ。でも、公の場で婚約を拒否すれば、恥をかくのはステファニーだ。俺はステファニーや公爵家の名誉を傷つけないように、できる限り穏便にやってきたというのに!」
確かに、殿下は表立っては婚約を否定してこなかった。ステファニー嬢の体面を慮ったのだ。
だが、その心遣いを逆手に取られた。
「俺が黙っている隙をついて、勝手に父上の裁可を得て、俺に事前の一言もなく、勝手に議会にかけやがった! 俺を馬鹿にするにもほどがある!……俺は死んでもステファニーとは結婚しないと、啖呵を切ってきた!」
はっきりと意志表示をしなかった殿下がそこまで言いきった。
「エルシー、今日はドライブに出かけるぞ。公務も全部サボってやる! けったくそ悪い!――ジュリアン! ヴァルターに電話して弁当を用意させろ! 車で走り回ってやる!」
ジュリアンに指示を出してから浴室に行った殿下を見送り、わたしは重い身体を引きずって、ぐしゃぐしゃになった朝刊を拾い上げる。
そこには殿下の写真も載っていたが、かなり前のものなのか、ボケていて顔ははっきりしない。反対に、ステファニー嬢の写真は最近のものらしく、鮮明だった。
記事によれば、ステファニー嬢の父・レコンフィールド公爵は国王の寵臣で次期首相の最有力候補者、そして王妃陛下の弟にあたる。……つまりステファニー嬢は殿下の母方の従妹だ。「幼少時から婚約の話は幾度も出ていたが、先の大戦で殿下が従軍するにあたり、命の危険を思い、自分の帰還を待たずに結婚するようにと言いおいて出征された」とある。
……記事を読む限りは、殿下とステファニー嬢は幼馴染の相思相愛の仲で、戦争による長い別離を経た後、ようやく婚約に至ったように見える。
わたしははあ、っと大きく息を吐いて新聞を置き、これからのことを想い、頭を振った。
ようやくプロローグのところまで来ました!
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