38、闖入者
愛人生活も二か月を超え、昼間は何食わぬ顔でタイプに向かい、夜は訪れる殿下と過ごす……という二重生活を、自分でも意外なほど、わたしはあっさりとこなしていた。
わたしと殿下の関係を知るのは、ロベルト主席秘書官以下の、殿下の配下の方たち。たぶん、クルツ主任は気づいているが、触らぬ神に祟りなしで、何も言わない。……司令部の高官が配下の事務職員に手を付けることなんて、よくあることなのかもしれない。
食堂でランチを摂れば、同輩の女性たちはヒソヒソと何か囁いているが、もともと、わたしは彼女たちの話を鉄面皮で跳ね飛ばしてきたし、今更だと思うことにした。それにどうやら、ハートネル中尉の件もあって、司令部全体に緘口令が布かれている雰囲気もある。
ただ、マリアン・ブレイズだけが相も変わらず、面と向かって噂の真偽を問いかけてくる。これはこれで、変わらない強さがちょっと羨ましい気もした。
そんな秋の午後、わたしは殿下とミス・リーンのメゾンで冬のコートを選らんでいた。
「これが今の流行の、キモノ・コートですわ」
「キモノ……」
二階のサロンで、差し出されたデザイン画を見ながら、わたしが首を傾げる。コートというより、いつも部屋で着ているキモノ・ガウンを少し短くしたみたいなデザインだ。
「素材は東洋からの最高級の絹。薄く綿入れているので、軽くってあったかいわよぉ~」
そのコートはイブニング用のドレッシーなもの。歌劇場やレストランに行く時に着用するための、おしゃれ仕様だ。
「うん、じゃあそれを一つ。あと、昼用のウールのコートが必要だな」
「昼のコートなら軍からの支給品があるので――」
わたしが言えば、殿下は露骨に眉を顰めた。
「……あの、色気もへったくれもない奴か? しかも見るからに仕立ての悪い。あんなコートを着たダサい女と、俺が一緒に歩けるわけないだろう」
殿下はわたしの意見も聞かずに、さっさとカタログを捲り、決めていく。
「これにしよう。このダブルのやつと……あ、こっちのケープもいいな」
「ケープはドレスの上にも羽織れますし、おすすめですわ」
「よし、こっちのダブルのはツイードで、ケープはドレッシーな雰囲気で……そうだなあ」
奥からお針子さんたちが何人も、ツイードやウールや、時にはシルクの布地を運んでくる。
「シルクもいいですけれど、これは最新の化学繊維ですわ。絹と違って強いんですの」
最新の、と言う言葉に弱い殿下の瞳が光る。
「……むむ、それもカッコイイな……」
「殿下、そんなに何枚もいりません。身体は一つしかないんですから」
わたしが殿下の買いすぎを戒めようと横から袖を引っ張れば、殿下がわたしを見て笑った。
「そりゃあ、俺としては着こむよりも裸の方が嬉しいがな」
「殿下!」
なんてことを、とわたしが殿下を睨みつけ、肘のあたりを抓る。
「イテテ、エルシー、痛い!」
「はいはい、いちゃつくのは家でお願いしますわ」
「別にいちゃついているわけじゃっ……」
その時、ロベルトさんが階段を上ってきて、殿下の耳元に何か囁いた。殿下がハッといてロベルトさんの顔を見つめ、眉を顰める。
「何だそれは、いったいどういう――」
「ここでは詳しくは言えませんが、このままだと――」
ロベルトさんがわたしの顔をチラリと見る。
「とにかく、一度王宮の方に」
「……わかった。すぐに行くから用意を」
殿下はわたしの額にキスすると、中座することを詫びた。
「すまない、何か厄介なことが起きているらしい。これから王宮に行かなくては。――夕食は、日を改めて。コートはさっきの二つと、あともう一つはエルシーの希望と、ミス・リーンのお薦めで頼む。エルシーはゆっくり選んでくれて構わない。護衛にはジョナサンを置いていく」
「了解しました。……エルシーちゃん、この後時間があるなら、せっかくだから、もう一度採寸してもいいかしら。……ほら、数か月で体形って変わったりするから!」
わたしは立ちあがって殿下の頬にキスを返し、王宮に向かう殿下を見送る。その後、ミス・リーンの要望に従い、お針子さんに導かれて奥のフィッティング・ルームに入った。
――だからわたしには、メゾンの玄関のベルが鳴ったのは聞こえなかった。
「……少し、お胸が大きくなられましたね」
「え?……そ、そうですか。太ったのかしら」
最近、食生活がかなり変わったし、歩いて通勤しなくなったから、太り気味なのかもしれない。やばいな、とわたしが内心考えていると、お針子さんたちが微妙な表情をしているのに気づく。一番若いお針子さんは、耳から首筋まで真っ赤になっている。
ふと、背後に置かれた姿見を振り向いて、わたしはギョッとした。
白い背中に、赤い鬱血痕が点々と散っている。――殿下が、昨夜つけた痕だ。
「……ちょっと、その……これは……」
あたふたするわたしに、一番の責任者らしい、ルーシーと呼ばれたお針子さんが微笑む。
「いえ、何でもございません。……ただ、背中の開いたドレスの時は、注意していただかないと……」
「……そ、そ、そうですね……」
普段、襟をぴっちり詰めたブラウスにジャケットなので気にしなかったが、その日は胸元にもいくつも赤い痕が残されていた。……恥ずかしすぎる。
透けるほど薄い絹のスリップ一枚の姿で、それでもお針子さんたちの言うままに羞恥に堪えて立っていたわたしの耳に、奇妙な物音が聞こえてきた。
「いけません」とか「お待ちください」とか、あとは男性たちが揉めるような声がして、ジョナサン・カーティス大尉が怒鳴っている。珍しい。
「何かしら?」
お針子さんたちもお互いに顔を見合わせ、「何でしょう?」と言い合っていると、バン! と乱暴に扉が開いて、金色の髪を乱した女性が、転がり込むようにフィッティング・ルームに入ってきた。
――それはなんと、レコンフィールド公爵令嬢!
仕立てのいいウールの上下に、ウールのトーク帽を被り、抱え方のバッグを胸に抱き込むようにして、彼女は立ち尽くし、わたしを凝視している。
わたしはしばらく茫然としていたけれど、次の瞬間、自分が裸に近い格好だと気づいて、思わず悲鳴を上げた。
「きゃあ!」
反射的に両腕で胸を隠し、ルーシーさんたちもわたしを囲んでくれたけれど、レコンフィールド公爵令嬢はギラギラした青い瞳でわたしを睨みつけ、叫んだ。
「……このっ売女!」
「お待ちくださいませ、フィッテング・ルームに勝手に入らないでくださいませ!」
ミス・リーンが豊満な胸を揺らしてステファニー嬢の前に立ちはだかる。
「扉を閉めて! 絶対に男性をここに入れないでちょうだい! ヘンリー!」
普段は奥に詰めている男性従業員に命じ、ミス・リーンはフィッティング・ルームを閉鎖する。
「出て行ってくださいな、レディ? あたくしのメゾンの信用にも関わる問題ですわ。男性の護衛を引き連れて、別のお客が使用中のフィッティング・ルームに踏み込ませようとするなんて! それ以上の無体を働かれるのであれば、警察を呼びましてよ!」
相手が大貴族の令嬢であろうが、ミス・リーンは全く怯むところがなく、貫禄たっぷりに睨みつける。
「……そこの女性に用がありましたのよ。まさか、そんな裸に近い姿で採寸しているだなんて、思いもよらなくて」
ステファニー嬢が少しばかり、気まずそうに言う。
お針子の一人がショールを肩に着せ掛けてくれて、わたしはそれで身体を隠し、ようやくホッとする。
「採寸中だと申し上げました。そうでなくとも、ウチのサロンは予約制でございます。突然、店に上がり込んで、うちの大事なお客様を出せとか、大貴族のお嬢様とは思えないやり口でございますよ!」
ミス・リーンに詰られて、ステファニー嬢もようやく頭が冷えたらしい。
「……殿下が、こちらに女連れで来ていると聞いたから――」
「殿下は急な御用で王宮に向かわれました。レディもいい加減に、ここから出て行っていただきたいのですけど」
ステファニー嬢はわたしをじっと見つめて、言った。
「……こんなところまで踏み込んだことについてはお詫びするわ。でも、この方にどうしてもお話があるの。場所を貸していただきたいの。……マダム・リーン」
「生憎と、うちは貸サロンでもカフェーでもないんでございますよ」
「お願いよ、長くはかからないわ」
テコでも動かない様子に、わたしは折れるしかなかった。
「……採寸が終わってからでも?」
「ええ、それでよろしくてよ」
ステファニー嬢は何とか貴族令嬢の矜持を取り戻したらしく、胸を張って出ていった。




