37、愛人の噂
わたしがアルバート殿下のアパートメントに転がり込んでから、二か月以上が過ぎた。
当初は毎晩のように入り浸っていた殿下だが、アパートメントの下までグレンジャー卿に突撃された一件以来、意識的に間を置くようになった。
「本当は毎晩でも一緒に居たいのを、我慢しているんだ」
殿下は独身王族で、戦争の英雄だ。その動向が世間の注目を集めないわけない。醜聞のネタを探しに、新聞記者もうろつき始めていた。
殿下の訪れのない日、わたしは仕事から帰ると本を読んだり、ピアノを弾いたりして過ごした。殿下はさまざまな楽譜を持ってくるようになった。有名な巨匠の作品から、見たこともないような前衛作曲家のものまで。あまりに前衛過ぎて、弾いてみても曲が理解できないと文句を言ったら、その作曲家の演奏会にこっそり連れて行ってくれた。
「大丈夫なんですか? 人に見られたら……」
「無名過ぎるし、小さなホールだから、見咎められないよ。……北の国の亡命貴族で、資金繰りに苦労しているらしい」
作曲家本人の演奏を聴くと、予想外にまともな曲だった。
「やはり、エルシーの楽曲解釈は独創的過ぎることが明らかになったな」
「まさかあんな速く弾くと思わないじゃないですか! そもそも素人には難し過ぎるんですよ! あんな風に弾けるわけありません!」
殿下は、その作曲家にわたしが弾ける程度のピアノ曲の作曲を依頼し、資金提供を申し出た。
週末には祖母の見舞いに行く。見舞ったからと言って歓迎されているようにも見えず、さりとて、見舞いに行かなければ機嫌が悪くなるのはわかり切っているので、祖母の好きな花や、王都の有名菓子、最新の雑誌などを持っては、せっせと見舞いに通った。
十月に入り、王都はすっかり秋らしくなり、朝晩は冷え込むようになった。わたしは王都の高級百貨店で購入したカシミアのショールを手に、その日も祖母のもとを訪れた。
祖母はかなり元気になり、毎日、ヴィラの周囲の森を散策するのを日課にしていた。普段はジョンソンかメアリーが付き添うが、わたしが訪れる日は、わたしが横について森の小道を歩くことにしていた。
わたしの贈ったカシミアのショールを纏い、午後の日差しの中をゆっくりと歩きながら、祖母は思いの外機嫌がよかった。
「このショールはいい手触りだこと。お前も最近、やっとものの価値がわかるようになって」
「そう、喜んでいただけたらよかったわ。ここは森の中だから、朝晩は冷えるでしょう」
「そうね、やっぱり田舎はいいわ。空気もよくて」
当初最低でも二か月、という入院期間だったが、やはりこの環境が合うというので、もう一か月延びた。退院後は空気のいい郊外に邸を用意し、看護婦も雇って療養すればいい、などと殿下は仰るけれど。
「……家は探しておくわ。あまり郊外だと、わたしの通勤に不便だけど」
「通勤なんていつまでするつもりかえ? わたくしの入院などがあって、そうそう辞めるわけにもいかないと言うけれど、いつまでも働くなんて、みっともない。仮にもアシュバートン家の娘が」
退院すれば、祖母は当然、わたしが仕事を辞め、一緒に住むべきだと思うだろう。だが王都の家は人に貸しているし、心臓の弱い祖母が過ごすのには環境がよくない。だがこれ以上殿下に頼るのなら、祖母にも真実を知らせるしかない。今、祖母の入院費用を出しているのはアルバート殿下で、それはわたしが殿下の愛人をしているからだ。でも、その事実を知れば、祖母は怒り狂うに違いない。
祖母が健康を取り戻して、また一緒に暮らせるのは嬉しいけれど、だがその日は確実に祖母の激怒を買うだろう。あるいは再び、祖母の心臓にダメージを与えるかもしれない。
溜息をつきたいのをぐっとこらえ、いつも休憩する四阿への階段を上る。普段は誰もいないそこに、今日は先客がいた。
「おや、レディ・アシュバートン、今日は若いお嬢さんと?」
声をかけてきたのは、祖母とも顔見知りらしい老婦人二人組。顔や雰囲気がよく似ていて、姉妹だろうかと思う。
「ご機嫌よう、ミス・アランとミセス・リーガル。こちらはね、孫のエルスペスですよ」
「はじめまして。エルスペス・アシュバートンです。祖母がお世話になります」
「はじめまして。綺麗なお嬢さんですこと! あたくしはアナベラ・リーガル。こちらは姉のエミリー・アランですの」
「ぜひお座りになって。魔法瓶のですがお茶もどうぞ」
よく似ているが片方は痩せぎすで、片方はふっくらしていた。痩せている方が妹で未亡人、姉はオールドミスらしい。
二人に薦められるままに四阿のベンチに腰を下ろせば、姉のミス・アランがバスケットからカップを出して、手早くお茶を淹れてくれる。
そこから祖母と老姉妹の、病状や神経痛についてのよくある、老人特有の会話が続いて、わたしは大人しく控えて紅茶を飲んだ。色づいた楓の葉を見上げていると、ミス・アランが突然言った。
「お孫さんはご結婚はまだなの? それとも、なにかお仕事を?」
「いえその……軍の事務職を……」
わたしが言えば、祖母はいかにも恥ずかしいと言う風に肩を竦めて見せる。
「戦争中は女も働け、というのが政府の方針でしたが、戦争が終わったというのにねぇ」
「でも、軍で働いていらっしゃるならご立派よ」
妹のミセス・リーガルが言い、ミス・アランも相槌を打つ。
「そうそう、軍と言えば、第三王子のアルバート殿下が……」
「ああ、戦地から戻られて、レコンフィールド公爵令嬢とご婚約するのかと思いきや――」
ここでも殿下の婚約の噂なのかと、正直言って辟易しながら、それでも笑顔を張り付けて話を聞く。ミセス・リーガルが声を潜めるようにして、言った。
「ここだけの話ですけどね、何でも他に愛人を囲っているらしいですわよ?」
「んまあ、それは本当なの、アナベル?」
わたしが危うく紅茶を噴き出しそうになるのをギリギリで堪えていると、姉のミス・アランが妹に尋ねる。
「ええ、王都にアパートメントを買い与えているそうよ。目撃した者が何人も」
「んまぁ、なんてこと! レコンフィールド公爵令嬢もお気の毒に!」
姉妹の会話を聞いていた祖母が、口を挟む。
「……では、婚約はどうなさるの?」
ミセス・リーガルが首を傾げる。
「さあ、どうでしょう? 幼馴染ではあるけれど、正式に婚約していたわけでもなく、殿下も長く戦地にいらっしゃって、公爵令嬢への気持ちもなくなってしまったのかもしれませんわね。……人の心は移ろいやすいですから」
「でも、そこは……公爵令嬢は四年間も、身を慎んで待っていらっしゃったわけだし」
ミス・アランの言葉に、姉のミセス・リーガルが首を振る。
「殿下は、戦争に行く前に関係は終わったと思っておられたみたい。勝手に待っていられても迷惑だと仰ったとか。それより今は新しい恋人に夢中ですって」
姉妹のやり取りを聞いていた祖母が、何か思いついたように言った。
「その……王都のアパートメントというのは……わたくし、田舎者で王都の住居のことは疎いのですけれど、まさか、殿下もそこにお泊りに?」
祖母の探るような問いに、ミセス・リーガルが何でもないことのように言った。
「ええ、けっこうな頻度で入り浸っておられるそうよ。ですから、愛人なのよ」
「……なんてこと……」
絶句する祖母に、しかしミセス・リーガルが笑った。
「最近の若い人はそんなものですわよ。……ほら、何て言いましたかしら。ええっと……」
「自由恋愛?」
ミス・アランが言い、ミセス・リーガルが大きく頷く。
「そう、それよ。結婚やら身分やらに縛られないのがいいって。殿下もそういう、先進的なお考えなのね」
「つまり共産主義者なのね」
「エミリー、それは関係ないわ。共産主義者に多いのは、無政府主義者よ」
老姉妹の話はずんずんずれて言って、いつの間にかはるか北国で起きた革命の話になっていた。
姉妹と別れ、ヴィラに戻る途中で、祖母が不意に言った。
「……エルスペス。お前、マクガーニ中将閣下のお宅にご厄介になっていると言っていたけれど」
わたしはギクリとして足を止めかけたけれど、何事もない風を装って、祖母に笑いかけた。ジョンソンやロベルトさんと相談の上、祖母にはそういう風に話してあった。
「ええ、そうよ。奥様にはとてもお世話になっていて」
「わたくしが退院したら、お礼に伺わなくてはいけないわね」
「そうね、おばあ様」
祖母は言った。
「……アルバート殿下のお仕事は、いつ辞めるの」
「おばあ様が退院なさったら、辞めるわ。今辞めても、家に一人は寂しいし、退屈じゃない」
「わたくしが退院したら、わたくしの側にいるのね、ずっと」
「ええ、もちろんそのつもりよ?」
祖母は深い深い溜息をつく。
「……さっきの話の、ふしだらで恥知らずな女がお前ではないかと疑ってしまったわ」
わたしは思わず息を止めた。
「まさかそんな……!」
「そうよね、まさかとは思ったけれど、つい、ね。わたくしはお前のことが心配でたまらないのよ」
祖母はわたしの腕に縋るようにして、言った。
「エルスペス……神罰は本当に下るのよ。だからお前も、神様の許さない関係を持ってはダメよ。これだけは約束してちょうだい」
「おばあ様……」
「……ローズも、そうだった。神様の許さない関係を持って……あんなに辛い目に遭って死んでしまった。結局、咎を受けるのは女だけなのよ。だから、お前も……絶対にダメよ?」
気づけば、祖母の身体は本当に痩せて小さくなっていて、わたしは思わず祖母を抱きしめていた。
「ええ、おばあ様、わかっているわ」
「約束してちょうだい」
「ええ、約束するわ」
――神罰は本当に下るのよ。
祖母の言葉は、その後長くわたしの中に響いた。




