36、夜想曲
殿下のアパートメントの居間には立派なピアノがあって、わたしは自由に弾いてもいいと言われていた。わたしは城にいた時はピアノが唯一の友達みたいなもので、毎日のように弾いていた。でも、王都のあの小さな家にピアノなんてあるわけなく、弾くのは三年ぶりだった。
最初は指が思うように動かなかったけれど、数日で、勘を取り戻した。
例の、アイザック・グレンジャー卿に突撃されてから、殿下の意向でわたしについている護衛の数が増やされ、かなり窮屈な毎日を送っていた。
たくさんの護衛を引き連れての外出なんて、気が滅入る。だから、わたしは外出せずにアパートメントに籠り、ピアノを弾く時間が増えた。
わたしはピアノを弾くといつも、周囲を忘れて没頭してしまう。これは昔からの悪い癖で、何度、祖母からの呼びかけを無視して叱られたか知れない。その夜も、わたしは殿下のお戻りにも気づかずにピアノを弾き続けていた。だから曲が終わって初めて、殿下の存在に気づいて、びっくりして飛び上がった。
「殿下? いつの間に?」
「さっきからいるぞ?」
殿下はシャツとトラウザーズだけの軽装で、吸っていた煙草をもみ消して立ちあがると、わたしを背後から包み込むようにして抱きしめ、楽譜を覗き込んで言った。
「夜想曲だったのか?! ずいぶん、独創的な演奏だな。全然、違う曲に聞こえたぞ?」
「そうですか? 楽譜通りに弾くとこんな感じだと思うけど……」
「普通は、もっと抑揚をつけて弾くもんだろ。……もしかして、別の演奏者のを聞いたことがないのか?」
「別の演奏者? あるわけないじゃないですか。 田舎で、ピアノを弾く人なんて、わたしの他は亡くなった母ぐらいだったもの。おばあ様も昔は弾かれたそうですけど、最近は全然ですし」
子供のころは母に習ったけど、その後は独学だ。父が王都から送ってくれる楽譜だけを頼りに弾いていた。
「抑揚……ですか? あとこの記号の意味がわからなくて……」
「それはペダルを踏むところだ。そんなことも知らずによく弾いてるな」
「え……? もしかしてわたし、下手くそですか?」
……いい気分で弾いていたけれど、もしかして失笑ものだったのだろうか。殿下が慌てて首を振る。
「いや、下手というのとは、少し違う。……何というか、楽曲解釈が独創的過ぎてほとんど別の曲というか……」
「殿下もピアノは弾かれるの?」
「子供のころに少しだけ習ったけれど、十年以上弾いてない」
わたしは抱きしめられたまま、指で鍵盤をなぞりながら尋ねた。ポロン、ポロンと、フレーズを辿っていく。
「グレンジャーには厳重に抗議をしておいた。……あいつ、お前を売春婦か何かだと思い込んでいたらしい。失礼な話だ。お前の姿を直に見たら、貴族出だとすぐにわかりそうなものなのに」
殿下が背後から肩口に顔を寄せて言う。
「……思い込みの激しそうな方でしたもの。わたしが伯爵の娘だと聞いたら、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔をしてらしたわ。結局何のお話だったのかしら」
「お前を少し脅して、小金でもチラつかせて、俺から手を引かせるつもりだったらしい。不愉快だから絶交を言い渡してきた」
殿下の声が無意識に尖って、不快感をにじませる。
「俺が、お前にドレスや宝石を貢ぐのが気に入らないらしい。余計なお世話だ。……あいつだって自分の婚約者にそこそこ貢いでいるのにな」
「自分の婚約者とわたしのような女を一緒にするなと言われたわ。……たまたま、彼女の父親が戦死してないだけなのに」
「……そんなことまで言ったのか。クソ、本当に失礼だな。あいつのブサイクな婚約者と、俺の可愛いエルシーを一緒にするなと言いたかったのを、紳士にあるまじき発言だと思って我慢したんだぞ。チクショウ、言ってやればよかった! ……リンドホルム伯爵家は建国以来の名家で、あいつの実家ギルフォード侯爵家より、よっぽど由緒がしっかりしてる、とだけは言っておいたが」
……まあでも、伯爵の娘に生まれたのは偶然であって、わたしの努力とは関係ない。失った爵位の話をするのもバカバカしいとわたしは思って、話を変えることにした。
「……このアパートメントには、ピアノも付いていたんですね」
「いや。お前が弾くかと思って、新たに購入したんだが……」
……なぜ、わたしがピアノを弾くと知っていたのかしら?
不思議に思い、尋ねようとしたが、殿下に首筋を唇で優しく食まれて、わたしは思わず息を詰める。前に回された手が、ブラウスの上からわたしの身体をまさぐっていく。
「ねえ、やめて……上手く弾けないわ……」
耳朶を唇で優しく食まれて、息の熱さに頭がぼうっとなって、わたしの指が不協和音を響かせた。
「そろそろ、部屋に行こう。ピアノを弾いているお前を見ていたら、抱きたくなった」
そう言って殿下はわたしに口づけてから、わたしをピアノの前から抱き上げた。
殿下に抱かれるのも、すっかり慣れてしまった。
唇を塞がれ、彼の汗ばんだ肩に腕を回し、これ以上ないほど密着して、一つになる。耳元で幾度も愛を囁かれて、悦楽の園に連れ去られる。
爵位持ちの貴族の令嬢だったら、到底、許されないことだ。
――売春婦のような女だと言われても、反論などできない。この関係の始まりがお金のためなのは間違いがないから。
殿下はこれを愛だと言うし、一生、わたしだけだと繰り返し誓ってくれる。
その言葉を嘘だとは言うつもりはないし、愛されているとは思う。でも――。
世間はみな、わたしのことをふしだらな女だと責めるだろう。アイザック・グレンジャーのように。
「エルシー……俺の、名前を呼べ……」
「なまえ……? あ、あるばーと……」
「それじゃなくて、もう一つの……リジーだ」
「り、じー?」
リジー、と呼んだ瞬間に、真上から見下ろしていた殿下の表情が、恍惚に歪んだ。彼の情熱に灼きつくされて、わたしは何も考えられなくなる。脳裏に弾ける閃光の向こうにほんの一瞬、ある光景を見た。
一面の薔薇の園と、黒髪の――リジー。
でも、次の瞬間、その光景は全て、光の渦とともに飛び散った。
わたしは数瞬、気を失っていたらしい。
「エルシー……」
殿下はわたしに微笑みかけて、わたしに覆いかぶさると唇を塞ぐ。わたしは反射的に殿下の、癖のある汗ばんだ黒髪を両手でギュッと抱きしめた。
「可愛いな、俺の、お姫様……」
そう呟かれて、わたしは自分が何かを思い出しかけ、そして一瞬で再び忘れたらしいことに気づいた。でも、それはもう雲のようにどこかに飛び去り、掴むことはできなかった。




