31、意中の人
その夜も殿下は帰りが遅く、わたしは一人で夕食を済ませた。
入浴後は寝室の暖炉の上に飾ってもらった、薔薇園の絵を眺める。
この国では王位は嫡出の男児しか継げない。かつての国王たちの中には公妾を置くこともあったらしいが、庶子に継承権はなく、現国王は王妃との一夫一婦を守っている。王太子殿下とブリジット妃殿下の夫婦仲はよいと聞くけれど、王女ばかり三人で、まだ、後を継ぐべき王子は生まれていない。王太子殿下に次ぐ第二王位継承者、次男のジョージ殿下はご病気で、離宮で療養中だ。こちらも子供は期待できないという。つまり、このままだと第三位の継承順位を持つアルバート殿下が即位する可能性も高い。
――つまり、殿下の妻は王妃の重責に耐える人材でなければならない。
わたしは昼間に会った、レコンフィールド公爵令嬢の姿を想い浮かべる。
金髪に明るい青い瞳の、小柄で可愛らしい雰囲気の人だった。
あの後、殿下は今日は司令部には戻られないとクルツ主任から説得して、何とかお帰りいただいた。
約束もなく司令部に押しかけるなんて、ちょっと常識的にはどうなのと思わなくもないけれど、殿下は数日、このアパートメントに入り浸ってまともに話し合いもできない状況なのだから、婚約者候補としては居ても立ってもいられないだろう。自分が彼女の立場だったらと思うと、少しばかり同情する。
――でも、何の話だったのかしら。
わたしがそんなことを考えていると、部屋の外が騒がしくなる。
殿下がお帰りになったのだ。
コネクティング・ドアが開いて、殿下がタイを緩めながら入ってくる。ジャケットは脱いで、ウエストコートとトラウザーズだけの姿で、長い脚でわたしの方に歩み寄ると、ソファに屈みこむようにして、わたしに覆いかぶさり、キスをした。
いつもよりもキツい煙草の匂いに咽そうになる。
「おかえりなさい」
「ああ……ステファニーが来たそうだな」
「はい。それと――」
「ジョナサンから聞いた。ニコラス・ハートネルも」
殿下が疲れたように、ドサリとわたしの隣に座った。
「ったく、どいつもこいつも……」
殿下が髪をかき上げ、胸ポケットから煙草を出そうとするので、わたしが止めた。
「部屋が臭くなるからここではやめてください。……それに、今日はずいぶん煙草臭いわ。さっきまでやたら喫っておられたのでは」
殿下はイライラすると煙草の量が増える。少しは控えさせないと。
わたしに咎められて、殿下は眉を顰めるが、大人しく煙草をポケットに戻す。
「レコンフィールド公爵に苦情を言いに行ってきた。差し当たって、この後、ステファニーが司令部に近づくことはない」
「彼女、何の御用でしたの」
わざわざ司令部まで押しかけるくらいなんだから、相当な重要案件では。
「俺が昨日、昼メシの約束をすっぽかして帰ったからだ」
「お昼ご飯?」
「父上が、俺とステファニーの話し合いのために昼餐会を仕組んだが、話し合うことなどないから、俺は帰った。それで怒っているんだ」
昨日の昼、予定をキャンセルしたと言っていたのは、それか。
自分との約束をキャンセルして愛人の元にしけこまれたら、それはステファニー嬢じゃなくても怒るでしょ。
わたしがそう言えば、殿下は不愉快そうに肩を竦める。
「愛人じゃない、恋人だ。間違えるな」
「傍から見たら愛人でしょう」
それから殿下が尋ねた。
「ステファニーに何を言われた?」
わたしは首を傾げ、記憶を呼び戻す。
「えーっと、アルバート殿下の恋人を見たことがあるかって。もちろん知らないと言っておきました」
「それで?」
「ステファニー嬢によれば、殿下は戦争前から好きだった方と結婚したいと言い出された。自分には思い当たる相手がいないけれど、周囲に仕えて心当たりはないかって」
殿下の金色の瞳が大きく見開かれ、座りなおして身を乗り出した。
「……ステファニーが、お前にそう、言ったのか」
「ええ。わたしは王都に出てきたのは戦時中なので、戦争の前のことは存じませんって言いました。それでも、どうやらわたしのことを疑っておられたみたいで、名前や出身地を聞かれたので……」
殿下の眉が不愉快そうに寄せられる。
「話したのか?」
「ええ。殿下については守秘義務があるけど、わたしの名前や出身地に守秘義務なんてありませんもの。偽名を使うわけにもいきませんし、正直に言いましたよ?」
「何か言っていたか?」
「……別に。ストラスシャーは遠いのか、と聞かれたので、鉄道で一日かかると答えました。戦前に殿下にお会いしたことはないって、神に誓えるか、って仰るから、もちろんです! て自信を持って誓っておきました」
殿下は複雑そうな表情でわたしを見て、溜息をつく。
「確かに、戦地から戻ってすぐにステファニーに引き合わされた時、俺は結婚したい女がいるって言ったんだ。そうでもしないとステファニーは納得しなさそうだったから。それで、心変わりしたのか、って言われて、昔から好きな女だって答えたんだ」
「なるほど。その、意中の方はどうなさったんです。……もしかして失恋なさったの? その方に失恋したから、わたしを身代わりにしたんですか?」
「何でそうなる!」
殿下はかつて、戦争に行く前に好きな女性がいた。両想いだったのか、片想いだったのか、とにかく、その女性を理由に、ステファニー嬢との婚約を拒否した。……でも、戦争から戻ってきた現在、殿下の周囲にその女性らしき人はいない。しょうがないので、身代わりでわたしを愛人にした。
わたしの推理は完璧だと思うのだが、殿下は何とも複雑そうな表情で、わたしを見てくる。
「お前、本当に何も憶えていないんだな」
「ええ? 何のことです?」
「……あのヘタクソな絵の作者のことも、全部忘れてるし」
そうして殿下が振り返った先の、薔薇園の絵を見る。
「あの絵が何か? 全部忘れたわけじゃありませんよ。黒髪の人でした。十二年前くらいにリンドホルムにいたんだと思います。背はそんなに高くなくて小柄で――」
「そこまで思い出して、なぜ答えに辿りつかないんだ」
「そんなこと言われても……とにかく、殿下とは正反対の、謙虚で優しい人だったように思います」
殿下が小さく溜息をつくと、わたしを抱き寄せて軽くキスをする。
「言っておくが、お前はけして身代わりじゃない。それは確かだ」
そして首筋を辿って鎖骨の赤い鬱血痕にもう一度口づける。
わたしはふいに、昼間の、ハートネル中尉の言葉を想い出した。
『殿下にとって、君は遊びだ。本気じゃない。この関係が明らかになっても、潰されるのは君の方で、殿下は傷一つつかないだろう。それがわかっているのに、殿下は遊びの相手に君を選んだ――』
無意識に身を捩れば、殿下も思うところがあったらしい。
「……ステファニーの方はいい。もう一件だ。……あの野郎に何を言われた」
わたしは言い淀む。
「その……祖母の入院費のために、お金と引き換えに身体を差し出したのかって……」
殿下が、舌打ちする。たぶん、それが殿下の負い目なのだ。
「エルシー、俺は……確かに弱みに付け込んだことは、認める。でもそれは、あいつがお前の周囲をウロついて焦ったせいでもあって……」
もごもごと言い訳する殿下に、わたしも肩を竦めて見せる。
「中尉は否定するでしょうけれど、あの人も、わたしが司令部をクビになって、経済的に困窮するのを待っていたのだと思います。『クビになったら俺がもらってやる』なんて言っていましたから。殿下が秘書官に登用したせいで、当てが外れたのね。五十歩百歩だわ」
「エルシー……」
「多少の治療費は出してくれるでしょうが、療養院の特別ヴィラは無理だったでしょう。おばあ様が満足いく治療を受けられるのは、殿下のおかげですもの。そこは、感謝していますし、気に病まれることはありません」
「本当に? 俺を許してくれるのか?」
不安そうな殿下が、なんだか捨てられた犬のように見えて、わたしは殿下の頬を両手で包んで言った。
「ええ。……いろいろ思うところはあるけど、おばあ様に免じて……」
わたしは殿下の額に軽くキスをして言った。
「今回は、特別に許してあげます」
その言葉に、殿下は雷に打たれたように金色の目を見開いて固まっていたが、次の瞬間、わたしを抱きしめて噛みつくようなキスを落としてくる。
まるですべてを食べつくそうとするかのような貪欲なキスに酔わされて、わたしは何も考えられなくなってしまった。




