32、遭遇
それから数日は、表向き平穏な日々が続いた。
あの後、本部に行ってもハートネル中尉がいないことに気づく。確認するのも恐ろしいと思っていたわたしに、たまたま行きあったマリアン・ブレイズが走り寄ってきて、耳元で告げた。
「ハートネル中尉、異動になったそうよ?」
「嘘……」
思わず目を瞠ったわたしに、マリアンが心配そうに囁く。
「急に、南部の第二師団に出向を命じられたんですって。……あなた、関係しているの?」
「まさか! 知らないわ」
慌てて首を振ると、マリアンがじっとわたしを見た。
「おばあ様、まだ悪いの?」
「……ええ。二か月は入院しないと……」
「最近、歩いて出勤していないわよね」
「……祖母が入院しているから、知り合いの家にいるの。お金がないから、家は貸して……」
マリアンの榛色の瞳が、何か言いたげだ。
「……殿下にお金借りてるって言ってたわよね? 返せるの、それ」
「……そんなのわからないわよ。……死ぬ気で、働くしか……」
わたしが俯くと、マリアンも溜息をついて、わたしの肩をちょんとつついた。
「お金はどうにもならないけど、一人で悩まないでね。何かあったら相談に乗るわ」
「……ありがとう」
わたしの抱えている問題は、もはや彼女に相談してどうにかなるレベルではない。それでも、意外と面倒見のいい子らしいマリアンに礼を言って別れた。
殿下のアパートに転がり込んで十日ほどが過ぎ、殿下の希望でオペラに来ていた。
国立歌劇場は二度目。今日の演目は、神話を元にした壮大な叙事詩だ。
「前衛的な演出で、評価が分かれているんだ。……特に、衣装が」
「衣装?」
前の時と同じボックス席で、殿下がわたしの指に指を絡め、耳元で囁く。
「ホラ、普通は神話の世界だから、それっぽい衣装なんだが、この演出は現代風の衣装でな」
「はあ。……つまり、神様が普通のフロックコートとか着ていらっしゃるわけですか?」
「そうそう。背景の美術も普通の現代の建築風で……当然ながら賛否両論なわけだ」
「なるほど」
殿下は現代風のファッションや、建築、新しい技術に興味をお持ちだ。今のアパートメントも、最新の設備が気に入って購入を決めたらしいし、とにかく新しいものが好きだ。
「ただし、前衛過ぎる芸術は、意味がわからんからな」
「確かに、この前の絵画は理解不能でした」
「どこが顔だかなんだかわからねぇんだもんな。……あの画家は、昔は普通の絵を描いていたはずなんだが……」
先日、二人ででかけた前衛絵画の個展は、抽象的すぎて何が描かれているのかさっぱりわからなくて反応に困った。
「俺が前衛芸術が好きだという噂が流れて、やたら招待状が来るんだが、少し勘弁してもらいたいな。新しいものは好きだが、別にとんがったものが好きなわけじゃないんだが」
殿下が悪戯っぽい表情をして、わたしも笑った。殿下がわたしの腰を抱き寄せ、唇が塞がれる。
ベルが鳴り、会場の灯りが落ちて幕が上がったけれど、わたしたちは舞台そっちのけでキスを続けた。
殿下と出掛けることにも慣れて、わたしは油断していたのかもしれない。
幕間に化粧室に行き、鏡を見ながら軽く化粧を直していると、入ってきた中年女性が背後で息を飲んだ気配がする。鏡に映るその女性の顔は、見たことがある気もするが、誰だかは思い出せない。
女性は紺色の上下に、白い絹のレースのついたブラウス。小さな帽子を被って、既婚女性らしい地味だが品のいい装いだ。彼女はわたしの姿を鏡越しにジロジロと見て、呟く。
「あなた、司令部の――」
女性の一言に、わたしの心臓がドキンと波打つ。その時のわたしは、到底、一介の事務職員が着られるようなドレスではなかった。
とろんとした真珠色の絹でできた、ホルターネックのドレスは、胸の下で切り替えがあって、まっすぐすとんとしたシルエット。真珠のロングネックレスを三重に巻いて、頭には共布のターバンでオリエンタルな雰囲気を醸し出している。抱える小さなレティキュールは手の込んだビーズ織で、どう見ても、高級メゾンで特別に誂えた品ばかり。
誰にしろ、事務職員の制服を着ているわたしを見ているとしたら、けっこうまずいことになる。
だがわたしは、彼女の声が聞こえなかったことにして、首を傾げてみせた。
「どこかでお会いしましたかしら?」
「い、いえ、前に一度お会いした方によく似て――」
「ごめんなさい、わたしはちょっと憶えが……お人違いではなくて?」
わたしは敢えてニッコリと微笑むと、「お先に」と会釈して化粧室を出た。
背中に視線が突き刺さるのを感じながら、わたしはボックスに逃げ込んだ。
ボックスで待っていたのはロベルトさんで、殿下はホワイエに降りていると言う。
「ちょっとまずいことになってね。……偶然だけど、レコンフィールド公爵令嬢に鉢合わせてしまったんだよ」
ステファニー嬢だけでなく、幾人か、高位貴族の令嬢や子息も一緒で、抜けるに抜けられなくなったらしい。ロベルトさんの言葉に、わたしはアッと気づいた。
さっき化粧室で会った女性は、ステファニー嬢の付き添い婦人だ。
わたしがそのことを告げると、ロベルトさんも眉を顰める。
「……気づかれた?」
「はい。……人違いです、って誤魔化したけど、そもそも、言われるまで誰だかわからなかったので……」
ロベルトさんがしばらく考えて、言った。
「わかった。今夜は幕が引けたら別行動になるかもしれない。……まだ、君のことは公表できる段階じゃないし」
わたしは頷く。まだも何も、生涯公表できない関係だ。
そこへ、殿下と護衛がホワイエから戻ってきた。ものすごく渋い顔をしている。
「……この後、しつこく食事に誘われた。先約があると断ったが――」
「わたしのことは気にしなくても……」
「俺が気にする! 奴ら、ステファニーの取り巻きみたいな連中で、食事なんて一緒にとってみろ、あれこれ言われるに決まっている」
わたしが、化粧室でステファニー嬢の付き添い婦人と会ったことを伝えれば、殿下が唇を引き結び、考え込んだ。
「……ステファニーと鉢合わせしなかっただけ、マシだったな」
殿下はロベルトさんに指示を与え、わたしを先に劇場から出して、レストランで待ち合わせすることにした。
「済まないな、エルシー。こんな、こそこそと――俺の本意じゃない」
「仕方ありません。わたしも醜聞は困ります」
護衛の方たちがボックスから出ていくと、殿下はわたしを抱きしめてキスをした。
――結局、公にできない日陰の女なのだ。そのことを改めて思い知らされた。
その夜、わたしが先に入って待つレストランに、殿下はかなり遅れて到着した。
「すまない……遅くなった」
疲れたようにどっかりと椅子に座る殿下に詫びられて、わたしはただ首を振る。
「……無理に食事をしなくても、わたしはよかったのに――」
「俺がしたいんだ。……最近、忙しくてエルシーとも時間が取れなくて」
ウェイターを呼びつけ、殿下はワインを注文し、食事がようやく始まった。
「ステファニーとステファニーの姉夫婦、それからステファニーの友人とその婚約者……そんな連中が話題のオペラに来ていて、俺と鉢合わせだ。まったくついてなかった」
「まあ、そういうこともありますよ。……ホワイエで会ってしまったんですか?」
「ステファニーが侍従官の……ジョナサンの顔を憶えていて、それでバレてしまった。ステファニーは当事者だけに俺に遠慮があったけれど、友人のシュタイナー伯爵令嬢と、その婚約者のアイザック・グレンジャーという男が、余計な正義感とやらを振り回して、俺を糾弾してきたんだ」
殿下はぐびりとワインを呷る。
「しょうがないから、食前酒だけ付き合ってきた。劇場にいつまでも居座ったら迷惑だからな。……どうも、俺に新しい恋人ができて、ステファニーから心変わりしたって噂が流れているらしい」
「……客観的に見ればそうでしょうね。今夜だって、一人で来たわけじゃないってバレるでしょうし」
ボックス席に連れがいたことはすぐにわかるだろうし、付き添い婦人が化粧室でわたしを見ている。
わたしがマッシュしたポテトをフォークの背に乗せながら言えば、殿下は溜息をつく。
「どうしてステファニーから心変わりしたのだ、なぞと詰め寄られても、俺は昔からステファニーが好きじゃなかったとしか、言いようがなくて困った」
「でも、戦争前は仲睦まじくされていたんでしょう? しょっちゅう、お二人でパーティーやら、歌劇場やら、競馬場に腕を組んで出かけているのを目撃されていたって」
殿下は凛々しい眉を寄せ、ワイングラスを取り上げて一口呷る。
「以前も話したかもしれんが、母上に告げ口されると厄介だから、俺は我儘を聞いていただけなんだがな。……あいつらとも、戦前はよくパーティーやらで一緒になった。俺は仕方なく話に合わせていただけだが、向こうは友人だと思っていたんだろう」
「それは、あちらばかりを責められませんね。戦争で殿下の人が変わったと思っていらっしゃるのじゃなくて?」
わたしが言えば、殿下は肉を豪快に口に放り込みながら頷く。
「それはそうかもな。戦前の俺は、周囲と波風を立てないように息を殺して生きていたから。でも戦争で……俺は周囲の言いなりになるのをやめたんだ」
殿下はまっすぐにわたしを見つめて言った。
「俺は地獄から生還したんだから、結婚相手は自分で選ぶ。……ステファニーとは結婚しない」
そのギラギラ光る金色の瞳に見つめられて、わたしはドキドキしたけれど、それを悟られないように言った。
「戦争前から本当に好だった方はどうされたのです? もしかしてお嫁に行ってしまわれたの?」
「何でそうなる。……まだ、嫁には行ってないぞ?」
「じゃあ、わたしなんかとオペラを見てないで、その方を口説けばよろしいのに」
「だからお前なあ……いい加減に気づけよ」
殿下は何か言いたげな表情で、もう一つ溜息をついた。




