30、レコンフィールド公爵令嬢
カーティス大尉は執務室の手前までわたしを送り届けると、アルバート殿下の元に戻って行った。
今日、殿下は午後は司令部に来るはずが予定が変わったので、その伝言と急ぎで決済の必要な書類を取りに来たのだとか。
執務室周辺は妙にざわついていたが、わたしはハートネル中尉に絡まれた恐怖が抜けないせいだろうと思い、落ち着くまで給湯室に逃げ込むことにした。
すると、珍しくクルツ主任が給湯室までやってきた。
「ミス・アシュバートン、ここにいたか!」
「……すみません、すぐに戻ります」
本部にお使いに出たまま、ずいぶん帰らなかったから、仕事が溜まっているのかもしれない。
「実は、ちょっと厄介な客が来ている」
「厄介な客?」
クルツ主任が白髪の混じった眉を顰め、露骨に迷惑そうな顔をした。
「本日、殿下は陸軍の兵学校の行事にご出席で、司令部にはいつ戻られるかわからない。そう言っているのに、ここで殿下を待つと言い張っていてね」
「追い返せない身分の方なのですか?」
クルツ主任が、声を潜めた。
「……レコンフィールド公爵令嬢だ」
「……は?」
どうやら、わたしが本部に出かけるのと入れ替わりで、レコンフィールド公爵令嬢がやってきて、殿下に面会を求めたのだそうだ。
「……本日、客人の予定はなかったはずです」
「事前の約束はないそうだ」
クルツ主任の眉も迷惑げに歪められているが、わたしの眉も同じような形になっているだろう。約束もなく、王子殿下の職場に突撃するなんて、不躾けにもほどがある。
「いったい、何しにいらっしゃたのです?」
「何度、ご自宅のオーランド邸に電話をかけても不在で、どうしてもお話ししなければならない用があると、その一点張りで」
ご自宅に不在……殿下はこの三日間、連続で王都のアパートメントに泊まっている。だから郊外のお屋敷には帰っていらっしゃらない。
「実は、司令部にも何度も電話をかけてきているのだが、殿下が繋ぐ必要はないと仰っていて、取り次いでいないのだ。それで、業を煮やして直接押しかけてきたようだ」
「はあ……」
応接室に居座られているのだが、先程、護衛のカーティス大尉が殿下の伝言を伝えに来て、急ぎの書類を持ち帰っているから、今日も司令部には来ない可能性が高い。だが、クルツ主任では身分に腰が引けてしまい、追い出すこともできないらしい。
カーティス大尉ともすれ違いになるなんて、なんて運の悪い。
「……それで、せめてお茶くらいは出して、なんとかお帰りいただこうかと思うのだが、君が見つからなくて」
「……お茶をお出しすればよろしいのですか?」
「頼む」
お茶なんて出さなくてもいいのではと思うのだが、何もせずに追い返すのは印象が悪いということなのか。
わたしはやかんでお湯を沸かし始め、手早くお茶の仕度を整える。銀色の盆を取り出して白い布巾で綺麗に拭き、その上にティーポットを出し、一番いい茶葉の缶を手に取る。付き添いの方を含めた人数分の茶葉をポットに入れ、お湯が沸くまでの間にカップとソーサーを準備する。砂糖壺とミルク、それからお茶請けのビスケットを缶から取り出し、菓子器に並べ、沸いたお湯をポットに注ぎ入れ、蓋をしてティーコゼーを被せ、砂時計をひっくり返す。
「入りましたよ、砂時計が落ちれば、淹れ時です」
クルツ主任に言うが、主任は情けなさそうな顔で首を振る。
「頼むよ、エルスペス嬢。わしじゃあ、あんなご令嬢にお茶を淹れるなんて、無理だ……」
わたしは諦めて溜息をつくと、銀の盆を両手で捧げ、応接室に向かった。
レコンフィールド公爵令嬢はウェーブのかかった金髪を後頭部で綺麗にまとめ、レースの襟やフリルも豪華な白い絹のブラウスに、白いスカートを穿き、白い上着を着てソファに端然と腰を下ろしていた。背筋をピンと伸ばし、少し斜めに流した脚といい、一分の隙もない態度で、わたしの方をちらりと見たが、何も言わなかった。隣には、付き添いらしい中年の婦人が、襟の詰まったグレーのドレスを着て座っている。
わたしも無言で、テーブルに茶器を並べ、砂時計が完全に落ちているのを確認して、ティーコゼーを外し、カップに紅茶を注ぎ分ける。ソーサーに銀のスプーンを置き、令嬢と付き添いの婦人の前にカップを差し出す。わたしの手つきを食い入るように見ていた令嬢が、鈴を鳴らすような声で尋ねた。
「あなたはこちらの事務官ですの?」
「……はい。書類の処理を担当しております」
ご令嬢は紅茶の皿を受け取り、砂糖を入れて優雅に混ぜながら、言った。
「アルバート殿下に恋人がいるらしいの。どんな方かあなた、見かけたことはなくって?」
「殿下の恋人、ですか?」
わたしはドキリとしたけれど、何事もないように言った。
「殿下の私生活については何も存じ上げません」
「あなた以外に、身近にお仕えする女性はいらっしゃらないの?」
「司令部にも女性事務職はたくさんおりますけれど……」
司令部内でも、殿下とわたしが親密だという噂はある。引継ぎの間だけの雇用だったはずが、いつの間にか直属の秘書官になっているし、勤務形態も不規則になり、時々、殿下の馬車に同乗して出かけていく。怪しまれて当然だし、実際、抜き差しならない関係に陥ってしまった。でもそれを暴露するわけにはいかない。
「……殿下はご帰国になった時にね、わたくしではなくて、戦争前から好きだった方と結婚したいと言い出されたの。わたくしはそんな方に心当たりがなくて。あなた、殿下の周囲にお仕えして、その女性に心当たりはないかしら」
ご令嬢はカップとソーサーを持ったまま、わたしに向かい、妖艶に首を傾げてみせた。青い瞳が探るようにわたしを見つめる。口紅を塗った唇が色っぽい。
その言葉は、実のところかなりの衝撃だったが、わたしは昔から、動揺すればするほど表情を変えてはならないと祖母に言われていたので、かろうじて平静を装う。
「そうですか。わたしは田舎育ちで、王都に出てきたのも戦争中のことです。戦争前の殿下のことは何も。わたしはただの事務官で、殿下の私生活については何も存じませんし、知りえた情報も人に漏らすことは禁じられています。守秘義務がありますので」
わたしがクルツ主任を振り向き、無言で同意を求めれば、クルツ主任が慌てて姿勢を正し、言った。
「ええ、殿下の普段の生活に関して、守秘義務もございます。なにぶん、この司令部でのご公務の間だけのことですので、我々事務官からは特に申し上げることもございません」
公爵令嬢は一瞬、眉を顰め、紅茶を口に含んだ。それからソーサーの上ににカップを戻し、言った。
「殿下に関しては守秘義務がある。……でも、あなたに関しては? わたくしはあなたのことが知りたいわ」
「わたしの?……ただの、田舎娘ですけど」
「ええ、とても知りたいわ。……まずはお名前からお願い」
「……エルスペス・アシュバートンと申します」
「お歳は? 女性に年齢を聞くのは失礼と言うけれど、女同士なら構わないわよね? ちなみにわたくしは二十一よ」
「……十九歳です」
「王都に出てきたのは最近とおっしゃったけれど、お故郷はどちら?」
「……ストラスシャーです」
「行ったことはないわ。そこは遠いの?」
「鉄道で一日ってところでしょうか。王都を夜行で出れば、翌日の昼過ぎに着きます」
ご令嬢はわたしの顔をじっと見つめ、尋ねる。
「本当に、戦争前に殿下とお逢いしたことはないの? 神様にかけて誓える?」
「ええ、もちろん」
わたしもご令嬢の目をまっすぐに見て、大きく頷いた。
「田舎育ちですもの。王子様となんて、縁もゆかりもありません。二か月前に殿下が司令に就任なさって、初めてお会いしました。いくらでも誓いますよ?」




