29、ニコラス・ハートネル
その夜、アルバート殿下は当然のようにわたしを求め、わたしももう、無駄な抵抗はしなかった。
「エルシー、本当に愛してる。やっと……手に入れた。どれだけ俺が……」
出会ってからたった二か月なのに、十年も恋焦がれたような切羽詰まった声で囁かれて、ずいぶん大げさな人だと思う。
昨夜は、あれでも殿下なりに抑制していたんだなと思い知らされる。
バスルームの大きな鏡に映る彼は、金色の瞳を欲望に滾らせた、凶暴な美しい獣のようだった。長いキスの後で濡れた、形のよい唇を舌で舐める。
わたしは今、この人に食われている。
骨の髄から貪られて、頭から溶けて無くなっていきそう――
背中に歯を立てられて、痛みに悲鳴をあげた。
「お前の……翅を毟っているんだ。二度と、逃げられないように――」
お前は妖精みたいに飛んでってしまいそうだから――
意味のわからないことを言われても、まともな思考が働かなくて、反論もできない。
そんなことをしなくても、もう、逃げられないのに――
文字通り抱き潰されて、わたしは翌朝、起き上ることもできなかった。
殿下が元気に出勤していかれるのをベッドの上で恨めしく見送り、ようやく昼近くになって起きることができた。
ノーラの用意したブランチをベッドの上でいただき、何とか昼過ぎに司令部に出勤した。――二日連続でおやすみするのはわたしのプライドが許さなかった。わたしはあくまで、殿下の秘書官であって、秘書官に偽装した愛人ではないのだから。
殿下のサイン済みの書類をいくつかまとめて、本部の事務室に持っていく。事務官に渡して事務室を出たところで、背後から呼び止められた。
「ミス・アシュバートン!」
聞き覚えのある、鼻にかかったような声。
「……ハートネル中尉……」
「話が、あるんだ」
「今は職務中で――」
「長くはならない」
思い詰めたような表情にわたしは逆らえず、彼について本部の建物の中庭に出た。四角い中庭の周囲はテラス状の回廊が囲んでいて、中央に四角い池があり、ベンチもある。ただ日差しの強い時間帯なので、回廊の隅は無人だった。
ハートネル中尉が立ち止まるので、尋ねた。
「お話って?」
「……おばあ様が、入院したそうだね」
「ええ……誰からお聞きになりましたの?」
「マリアン・ブレイズ嬢が喋りまくっているよ」
わたしは溜息をついた。
「そうですか……」
「それと、君とアルバート殿下の関係が噂になっている」
ハートネル中尉は赤い髪をかき上げながら低い声で言った。
「おばあ様の入院費用を殿下に肩代わりしてもらい、引き換えに身体を差し出したのか?」
ハートネル中尉の榛色の瞳が、わたしを見下ろしてギラギラ光っている。本能的な恐怖を感じて、わたしはゴクリと唾を飲み込む。
「……一部、立て替えていただきましたが――」
突如、ハートネル中尉の腕がわたしの襟元に伸び、わたしのタイを締めたシャツの襟を緩める。
「! 何を……!」
わたしが飛び退ろうとするよりも早く、ハートネル中尉はわたしの鎖骨のところに指で触れて、悪鬼のように表情を歪めた。
「……これ……殿下が付けた験、だね?」
「やめて、離してください!」
「君は、殿下に身体を売り渡した!……金か?」
「違います!……離して、人を呼びますよ!」
わたしは慌てて中尉の手を振り払い、襟首を隠すように両手で覆う。回廊の柱の影に隠れるようにしたわたしの、顔のすぐ横にハートネル中尉の大きな手が乱暴に突かれて、彼が大きな体を折り曲げるように覆いかぶさってきた。思わず、恐怖で目をつぶり、身を縮めて小さな悲鳴を上げる。
「いや……やめて……」
「エルスペス嬢……殿下は君のことをエルシーって呼んでる。君たちは特別な仲なんだ」
「……やめて……」
「俺は本気だった。本気で君に恋をして、結婚したいと思っていた。なのに……君は、殿下に弄ばれて捨てられる道を選んだ」
頭上から降りてくる声が恐ろしくて、わたしはガタガタ震えるしかない。
「殿下にとって、君は遊びだ。本気じゃない。この関係が明らかになった時、潰されるのは君の方で、殿下には傷一つつかない。それがわかっていて、殿下は遊びの相手に君を選んだ。君が父親の死によって爵位を失い、病弱な祖母を抱えて経済的に困窮しているのに付け込んで!」
それは概ね正しい解釈なので、わたしは反論もできない。
いや、間違っていたとしても怖くて反論できなかっただろうけど。
怯えるわたしを見下ろして、ハートネル中尉が続ける。
「殿下はレコンフィールド公爵令嬢との婚約が秒読みで、その婚約は殿下では断れない。レコンフィールド公爵は国王側近の有力者だからね。俺は、君を守ろうとしたが、間に合わなかったのか――」
ハートネル中尉の手がわたしの顎を掴み、無理矢理に顔を上向けさせたので、わたしは柱に背中を押し付けられるような状態で、仕方なくハートネル中尉を見上げる。中尉の顔は陰になってよくは見えなかったが、声の様子からも彼が激怒しているのがわかって、わたしは恐怖で竦んでしまう。
「やめ……離して……」
「……君は、殿下に怯えてた。もし、力づくなら――」
「そこで何をしている?」
不意に、誰かの声が飛んで、ハートネル中尉の手が離れる。わたしはその隙に中尉を突き飛ばして、彼の拘束から抜け出した。
「ミス・アシュバートン? いったい何があったのです!」
声をかけてきたのは、殿下の護衛でもあるカーティス大尉だった。
彼は長い脚で進み出て、わたしを庇うようにハートネル中尉に対峙する。
「君は――本部付きの……ハートネルだったか」
「彼女と、話をしていただけです」
「険悪な雰囲気に見えたが。ずいぶん、怯えている」
カーティス大尉の大きな背中に隠れて、わたしはドクンドクンと収まらない動悸に、必死に深呼吸していた。
「……このことは、上に報告する」
カーティス大尉が言えば、ハートネル中尉がグッと詰まったらしい。
「ふん、さすが殿下の犬だな。殿下が女性の尊厳を奪っても止めもしないで」
ハートネル中尉が捨て台詞を吐き捨て、カツカツと足音を立てて去っていく。
わたしはホッと息をついた。
「大丈夫でしたか」
「は、はい。助かりました、ありがとうございます……」
まだ静まらない心臓を押さえていると、ハートネルの背中を見送っていたカーティス大尉が、視線をこちらに向けた。
「彼に、何を言われたのです?」
「それは――」
おばあ様の入院費用と引き換えに殿下と寝たんだろって詰め寄られました、とは言えず、わたしは口ごもる。
「……殿下とのことですね?」
「はい……」
わたしが襟のボタンとタイを直しながら頷けば、カーティス大尉は生真面目そうな眉を寄せた。
「あなたには謝罪しなければならない。本来なら、侍従官である僕たちが止めるべきだった」
護衛を務めている侍従官のカーティス大尉は、当然ながら殿下が昨夜、どこで夜を過ごしたか知っている。
カーティス大尉は貴族出身で常識人だ。わたしの純潔が失われた意味を理解して、最悪の事態を防げなかったことを悔いているようだった。
「いえ……その……」
殿下との関係を持ち出されれば非常に気まずいし、恥ずかしくて穴があったら入りたい。
「あなたはアシュバートン中佐のご令嬢です。僕は、殿下の自制心を過信して、暴走を止められなかった。僕の失態です」
謝罪されたところでわたしの純潔が戻るわけではないので、わたしは返答に窮する。
「その……むしろあなた方はわたしの存在を不快に思われるかと……」
わたしが恐る恐る言えば、カーティス大尉は苦い表情で言った。
「正直に申し上げれば不適切な関係だとは思いますが、あなたに拒否できることでないのはわかります。我々は、あなた不当な扱い受けないように、守る義務がある。何かあったら、僕に報告してください。必ず、善処します」
カーティス大尉はそう言うと、殿下の執務室まで送ってくれた。




