28、無意味な約束
昼食は、わたしのリクエスト通り、焼き立てのチョコレートマフィンが出た。
その他はベーコンとほうれん草のキッシュ、サラダに、魚のフライ。これは甘いものが得意でない殿下のためだ。
わたしは紅茶を、殿下はエールを飲みながら言葉少なに食事をとる。
「チョコレートマフィン、俺の分も食べていいぞ? 好きだろう?」
「はあ。じゃあ、遠慮なく……」
わたしは頷いて、お皿からマフィンを取りわける。
「殿下は甘いものが苦手なのですね」
「うん……キンダーって街で作ってる、ミント・ケーキって知ってるか?」
「ミント・ケーキ? いいえ?」
わたしが首を傾げると、殿下が魚のフライにビネガーを振りかけながら言う。
「極地探検隊が非常食にするやつなんだ。人間、水とそれがあれば生き延びられるっていう触れ込みの」
サンダルのようにひらぺったく大きな魚のフライをナイフで切り分け、殿下は一かけらをフォークで刺して口に放り込むと、飲み込んでから言った。
「何日も食うものがない時、そいつをちょびちょび齧って命を繋いだことがあって……それ以来、甘い物が苦手なんだ」
「へぇ……」
戦時中の話だろうか。王子様もひもじい思いをしたことがあるのね……。
「甘い物を非常食にしたら、わたしなら、いつの間にか食べてしまって肝心な時に残ってないかもしれないわ」
わたしが言えば、殿下が苦笑した。
「ケーキって言っても、砂糖の塊みたいなやつだぞ? 歯が溶けそうなほど甘くて、大量には食えない」
「そう言えば……デザートはお預け、みたいなこと仰ってましたね? 初めて夕食をご馳走になった時」
すると、殿下はバツの悪そうな顔で肩を竦めた。
「デザートはお前のことだ。……結構、俺も我慢したと思うんだけどな」
その答えに、わたしは危うく紅茶を噴きそうになった。
食事の後、殿下はわたしを眺望のいいバルコニーに連れていった。
高層階だけに、王都の市街が一望できる。灰色がかった曇天を生ぬるい風が吹き抜け、地上からは微かに、街の喧騒が聞こえてくる。
「今日はお仕事はないんですね?」
わたしが尋ねれば、殿下は少しだけ微妙な表情をした。
「ああ。お前と過ごしたかったから、午後の予定はキャンセルした。ドライブに行ってもいいと思ったが、体調が悪そうだったから……」
「ドライブって……」
前に、殿下は自動車を運転するのが好きだと言っていたのを思い出す。
「ここは眺めはいいが、空気がよくないから。今度、連れていってやる。お気に入りの場所があるんだ」
確かに、王都上空はスモッグでどんよりとしていた。わたしが風にそよぐ髪を抑えながら、手すりに寄りかかって周囲を眺めていると、殿下が背後から抱き寄せて言った。
「寒くないか? 風が少しあるな」
「大丈夫です……」
殿下の身体からは煙草の匂いと、ほんのわずかにつけているらしい、コロンの香りがした。
身体の向きを変えられて、自然な動作で唇を奪われる。
――わたしももう、それを当たり前に受け入れる。でもあまりに長いキスで息が苦しくなり、抵抗するように殿下の胸を押すと、彼はわたしの唇を解放したが、不満そうに大きな手を背中に這わせた。
「俺が、どれだけ我慢したか、お前は知らないだろう」
殿下はわたしを抱き寄せ、肩口に顔を寄せて耳元で囁く。熱い息が耳朶にかかり、わたしはゾクリとして身体を震わせた。
「どうして、わたしなんです……」
「好きだからだ。いい加減、わかれよ」
「好きになる理由がわかりません」
まだ、出会って二か月にもならない。でも、出会ってすぐに殿下はわたしを秘書官に登用し、デートに連れまわすようになった。かなり早い時期には、わたしに狙いを定めていたわけだ。
「わたしが、マックス・アシュバートンの娘だから?」
「それも、もちろんあるが……」
殿下は言葉を探しているようだった。
「俺は――とにかくお前がよかった。お前は、俺のことが好きじゃないみたいだけど」
「……好きじゃないというか……その、好きになる相手でもないでしょう? 身分が違い過ぎて」
「身分、か……」
殿下が呟くと、殿下が腕に力を込めて抱きしめる。
「……あいつに、奪われたくなかった」
「あいつ?」
「ニコラス・ハートネル。……あいつに結婚を申し込まれて、お前、まんざらじゃない風だったじゃないか。だから、心配でたまらなくなって――」
殿下の大きな手が、狂おし気にわたしの背中を這いまわり、わたしはくすぐったさで身を捩る。
「あの人とは別に何も――」
――むしろ、嫌いだったし。
身分とかそういうのを抜きにして、殿下かハートネル中尉のどちらかと言われたら、わたしは殿下を選ぶと思う。
そう、王子でさえなければ――
「お前が一番気にしているのは、身分差だ。あいつは子爵家の三男だから、身分だけは釣り合う。俺だって好きで王子に生まれたわけじゃないのに、身分を理由に奪われるのは許せない」
殿下がわたしの髪を撫でるのに身を委ねながら、わたしは応える。
「平民のわたしが王子様を好きになっても、不幸な結末しか見えないわ」
その言葉に、髪を撫でていた殿下の手が止まる。わたしは殿下を見上げて、まっすぐにその顔を見つめた。
「殿下はいずれ、わたしを捨てて別の方とご結婚なさる。……いえ、そうすべきです」
その言葉に、殿下が凛々しい眉を顰め、首を振った。
「今、父上が薦めている相手と結婚する気はないし、もう断った。俺にはお前だけだ。お前は平民と言っても、元は伯爵令嬢だし、結婚はなんとかする。絶対に」
「たとえ父が生きていたとしても、我が家から王家にお嫁に行った人はいません。まして、爵位も失って領地から追い出されたわたしが、殿下と結婚できるはずはないんです」
たとえ殿下に手放すつもりがなくとも、殿下はいずれ、他の相応しい相手と婚約し、結婚させられる。それが王族の義務だから。
「もし、殿下のことを好きになって、それで捨てられたら辛くて生きていけない。……だから、好きになりたくないの」
「エル……」
「ただの秘書官の業務なら、お役御免になって捨てられても、諦めもつくわ。おばあ様の入院費用のこともあるし、今は殿下の言うことを聞きます。でも、殿下の婚約が正式に決まるまで。……おばあ様に言われているの。婚約者のいる相手と親密になるなんて、とんでもないって。だから――」
わたしは、殿下の肩口に縋りついて言った。
こんな、惨めなことを言わなければならない関係に陥ったことが、辛くて悲しくてたまらなかったけれど、でもこれだけは言っておかなければいけないと思ったから。
「だから、婚約が正式に決まったら、解放してください。その時は、おばあ様のお金だけはお願いします。他には、頼る人もいなくて――」
ほとんど涙声になるわたしを殿下が抱きしめ、顎に手をかけて顔を上向け、正面から向き合う。
「エルシー、約束する。俺はお前以外と結婚するつもりはないし、お前を一生手放さない。だからおばあ様のことは心配するな。お金のことはもう、忘れろ」
「できもしない約束はいりません。……殿下の婚約が正式に整ったら、この業務はおしまい。それだけ、約束してください」
なおもわたしが言えば、殿下は凛々しい眉を顰め、わたしの顔をじっと見つめる。金色の瞳には真剣な光があった。
「俺は、他の女と婚約なんてしない。だからそんな約束こそ、無意味だ。――愛してる、エルシー」
殿下はそう言うと、わたしの唇を塞いできた。
殿下がどれだけ否定しても、王族の義務に抗うことなんて、できっこないのに。敢えて約束をしないことがわたしへの誠実さだと思っているなら、それは大きな間違いだ。
でも――わたしは殿下の背中に両腕を回して、その口づけを受け入れる。
殿下の婚約が調うまで。これは期間限定の関係。
わたしは自分の中で一つの区切りを決めると、殿下の愛人になる覚悟を定めた。




