19、急変
馬車の中に並んで座って、非常に気まずかった。
アルバート殿下はまっすぐ正面を見て、しばらく無言の時が流れる。
ガラガラ……車輪の音だけが空しく響く中で、殿下が言った。
「その……悪かった。司令部の中で、不適切だった」
「いえ……」
何と答えていいかわらず、わたしが鞄を抱いて俯いていると、殿下が続けた。
「……朝、体調が悪かったのは本当なんだな。俺は――お前が俺から逃げたいのかと思って、カッとなったんだ。あの男は前からお前に付きまとっていたし……」
わたしが殿下の顔を見れば、殿下も困ったような表情で、じっと、わたしを見ていた。
「……あいつと、結婚するつもりか?」
「まさか。そんなつもりはありません」
「条件は、悪くないだろ」
わたしは殿下から目を逸らし、自分の膝に目を落として言った。くたびれた布の鞄を乗せた、陸軍司令部の女性文官の制服のスカート。穿き古されて、膝が出て、裾から覗く革の編み上げブーツは爪先も古びている。
どっから見てもお金のない、くたびれた貧乏くさい女だ。
「条件、だけで結婚するわけじゃありません。……あの人は、わたしの足元を見ているんです。爵位を継げなくて没落して、祖母も病気で……都合よく買い叩けると思ったんじゃないかしら。でも、本気で結婚しようと言ってくれるのは、まだマシかもしれませんね。おばあ様が、どう、おっしゃるか……」
わたしは、睫毛を伏せた。
なんだかひどく疲れていた。昨夜はおばあ様にお説教されてよく眠れなくて、今日はお昼も食べていない。
「エルシー……俺は……」
殿下は何か言いかけたが、車輪の音にかき消されるように無言になる。
わたしは、勇気を出して言った。
「その……おばあ様は、本当に気難しい人で、もしかしたら殿下にも不敬な態度を取るかもしれないのですが……その、悪い人はでないので……」
おばあ様は昔気質で、貴族の格式にこだわるし、もともとは王家への忠誠心も篤い人だったが、何分、父の戦死と代襲相続の却下で、王家に対して少なからず失望したのだろう。その反動で、少しばかり発言が過激で――。
「ああ、それは、仕方がない。王家の方に、落ち度がある」
「そう、言っていただければ……」
わたしが恐縮すれば、殿下が微笑んだ。
「治療費を出すのは本当に、俺の、恩人への気持ちだから。代襲相続が却下されたことも信じられなくて、俺の方でも調べさせている。全部を元通りとはいかなくても、できる限り埋め合わせたい。ただ、一朝一夕にはいかなさそうだ。それまで、おば……じゃなくて、ウルスラ夫人には、生きていてもらわないと」
「はぁ……」
殿下の申し出自体はとてもありがたいことだとは思う。
問題はそれを祖母が受け入れるかどうか。そして、金銭的な援助を受けることで、わたしの逃げ道がますます塞がれてしまうこと――。
そしてもう一つ、わたしは気になっていたことを口にした。
「その……うちは、殿下のようなご身分の方をお迎えするにはちょっと……散らかってはいないと思うのですが、その……」
わたしは馬車の後ろの窓から、後方を振り返る。
王家の紋章つきの馬車のすぐ後ろに、もう一台、目立たない馬車が着いてきている。殿下の護衛の方たちだ。
「あの人たちを全員入れるのは、うちはちょっと――いえ、入るだけならば入ると思うのですけれど」
わたしは狭い我が家を思い浮かべる。
応接室は、普段使わないから、白い布を被せてあるはずだ。あれを素早く外して、お茶を淹れて――
家に着いてからの手順を考えていた時。
「そんなことよりも俺は――」
殿下が、何か言いかけたが、馬車は早くもわたしの小さな家の近くに着いてしまった。そして馭者の隣に座っていたロベルトさんが、扉を叩いて殿下に異変を告げた。
「殿下、着きましたけど、家の様子がどこか変です。辻馬車が止まっていて……あれ、医者じゃねぇっすか」
それを聞いたわたしは、礼儀も無視して殿下の前を横切り、窓の外を見る。
小さな家の玄関の前に馬車が止まり、それが動き出すのと、大きな往診鞄を下げた白髪の後ろ姿が玄関扉に吸い込まれるのが、ほぼ同時だった。
「――ウィルキンス先生?」
「医者か?」
殿下に聞かれ、わたしは頷く。
「……祖母の、具合が悪いのかも――」
ウィルキンス先生は近所に住んでいて、普段の往診は徒歩だ。それが馬車を使ったというのは、よほどの急ぎだったのではないか。
何か急にとてつもない不安がせりあがり、わたしは居ても立っても居られなくなって、まだ停まり切っていない馬車から転がるように飛び降り、後ろも見ないで家に駆けだした。
「エルシー、待て!」
背後から殿下の声がしたが、悪い予感に囚われていたわたしは、それを無視した。
家の中は騒めいていた。ちょうどウィルキンス先生をジョンソンが祖母の寝室に案内して、駆け足で戻ってきたところに鉢合わせした。
「お嬢様!……今、使いを出すべきかと思っていたところで……」
「おばあ様、そんなにお悪いの?!」
ジョンソンが悲痛な表情で頷く。
「心臓の発作で……たまたま、メアリーが近くにおりましたのですぐに異変に気付きましたが、発見が遅ければもっと危険だったでしょう。すぐに手持ちの薬をお飲ませしましたが改善しないので、今、医師をお呼びしたのです。最近では一番のおお苦しみようで――」
わたしが茫然と立ち尽くしていると、カランと鈴が鳴って玄関の扉が開く。振り向けば、わたしの鞄を持ったロベルトさんだった。
「ミス・アシュバートン、鞄を忘れてるよ。……それと、状況は?」
殿下を置き去りにしてきたことを思い出し、わたしがハッと玄関の向こうを見る。王家の紋章付の馬車が戸口に停まったままで、それに気づいたジョンソンが蒼くなる。
「……王家の馬車? ど、どういたしましょう?」
「ひとまず、アルバート殿下には中で待機していただいています。急病人のようですが――」
ロベルトさんが言い、ジョンソンに向かって微笑んだ。
「亡くなったマックス・アシュバートン氏はアルバート殿下の護衛も務めていました。そのご母堂の容態は大変気になさっておられまして、ちょうど、直接様子を見に来られたのです」
「そ、そうでしたか……」
ジョンソンが頷くと、祖母の寝室の扉が開いて、ウィルキンス先生が速足で出てきた。
「非常に良くない! わしの手には余る……大きな病院に運んだ方がいい」
「そんな……!」
わたしは両手を口にあてて息を呑む。……どうしよう、そんなこと言われても。
「王立診療所ならば、アルバート殿下のコネですぐに診てもらえます」
うろたえるわたしの背後からロベルトさんが口を出し、初めてその存在に気づいたらしいウィルキンス先生が、怪訝な顔でロベルトさんを見つめる。
「アルバート殿下?」
「実は外の馬車に殿下がおられます。本当は、今日は様子を見て王立診療所での診察を勧めるためだったのですが、状況が逼迫しているなら、これから馬車ですぐに運びましょう」
ウィルキンス先生は窓の外を覗き、王家の紋章入りの馬車を見てギョッとした。
「ともかくまず、病人を病院まで運びます。支度を――医師、我々はレディ・アシュバートンの病状には詳しくない。病人に付き添っていただけますか?」
ロベルトさんに言われて、ウィルキンス先生は慌てて頷く。
「それは構わないが――」
「入院に必要な身の回りの物は後ほど届ければいいから、まずは本人とメイド、それから医師と俺とで病院に向かいましょう。アルバート殿下には、この家でアシュバートン嬢と待機してもらいますので」
「お、王子殿下が、こ、こ、この家で、待機?!」
滅多なことでは慌てないジョンソンが、珍しく動揺を露わにする。
「殿下と馭者に伝えてくるので、その間に病人をこちらに連れてきてください」
ロベルトさんは指示を出すと、玄関の外へと小走りに出ていった。




