18、混乱
「オレの部下に何やってんすか、殿下……」
耳に飛び込んできたのは、まさに地を這うようなロベルトさんの声だった。
いつものふざけたような飄々とした雰囲気は影を潜め、刃物のように冷たい声に、我に返ったらしい殿下が慌てふためいている。
「いや、これは、その――」
殿下の身体がわたしの上からどいて、視界には殺風景な天井が広がる。
すぐに起き上がらなければと思いながらも、だが、わたしはしばらく呆然とした状態から立ち直ることができなかった。
危機は去ったのかもしれないが、心臓がドクドクと脈打って、今さらながら背中に冷たい冷や汗が流れる。
「エルシーたん、このケダモノに何されたの!? 大丈夫!?」
「俺はケダモノじゃないし、エルシーたんってなんだよ!」
言い返す殿下を無視して、駆け寄ってきたロベルトさんがソファの脇に膝をつき、わたしの顔を心配そうに覗き込んだ。
「だい、じょう、ぶ……」
だが、わたしは上手く息が吸えなかった。
「過呼吸起こしかけてるじゃねえの! ったく! 最低! オレの部下になんてことを!」
「別にエルシーはお前の部下じゃ――」
言いかけた殿下に、ロベルトさんが反論する。
「エルシーたんを直属の秘書官に登用する時、殿下言いましたよね! 今まで、首席秘書官と言いながら、秘書官は一人だけで名ばかりだったけど、部下ができれば名実ともに首席秘書官にしてやれるって! エルシーたんはオレの部下です!! だから――」
ロベルトさんがわたしと殿下の間に身体を割り込ませ、庇うように立ち塞がる。
「部下を上司のセクハラから守るのは、当然のことっすよね? プライベートには関与しないつもりだけど、司令部内でのセクハラは断固許すまじ!」
「いや、だからこれは……」
しどろもどろになる殿下を睨みつけて、ロベルトさんがわたしに言った。
「エルシーたん、起き上がれる? ゆっくり息を吸って。ほら、すー、はー。……今日はもう、帰った方がいい。直属上司のオレが、許可を出す」
「エルシーたんはやめろって! 馴れ馴れしい!」
二人のやり取りを聞いているうちに、わたしも少しだけ落ち着きを取り戻し、ゆっくりと身を起こす。
「もう、大丈夫です……」
乱れた髪を直し、わたしはおそるおそる殿下を見た。
殿下は気まずそうに髪をかき上げ、額に手を当てて俯いている。そして、深い深い溜息をついた。
「その……ちょっとした行き違いだ。悪かった」
殿下は気の毒なほどにしょげ返っていた。悪ふざけが過ぎたと思っているのだろうか。
「それで、殿下、例の話はできたんですか?」
「例の話?」
ブラウスのボタンをはめてタイを結び直していたわたしが、思わず聞き返せば、殿下があっと、思い出したように言った。
「……まだだ」
「その話をしに呼び出したじゃなかったんすか……」
呆れたようなロベルトさんの言葉に、殿下が面目なさそうに項垂れる。
「ハートネルの一件で全部吹き飛んでて……」
ぶつぶつと言い訳する殿下の様子に、わたしが尋ねた。
「何なのです?」
「エルシーたんのおばあ様の件だよ」
ロベルトさんに言われて、わたしが瞬きする。
「……おばあ様?」
ロベルトさんが、殿下を促すように見れば、観念したように殿下が話し始める。
「その……お前の祖母の心臓のことで……一度、ちゃんとした大きな病院で検査をした方がいいんじゃないかって。それで、俺は王立診療所にコネがあるから……」
「はぁ……」
降って湧いたような話に、わたしは困惑する。
たしかに、おばあ様の心臓はよくない。正直に言ってウィルキンス医師は限りなくヤブ医者に近い。たぶん、今度大きな発作が起きたら対応できないだろう。大きな病院で診察してもらわねばとは思っていた。
でも、決定的な問題があった。
金がないのだ。
「その、それはそうですが……ただ――」
「金は、俺が出す」
「やめてください!」
殿下の申し出を、わたしは反射的に拒絶していた。
「エルシー……」
あまりにはっきり拒否されて、殿下が戸惑ったような表情でわたしを見る。
「……そんなにしていただく理由がありません。祖母はその……施しを受けるのは嫌がると思います」
「施しのつもりはない。マックス・アシュバートンは、俺の命の恩人だ。その母親なんだから、俺が金を出して当然だ」
「でも……」
わたしは無意識に、自分の胸を押さえていた。
「祖母は、喜ばないと思います」
「エルシー! 俺は別に――」
朝からの出来事が、胸に去来する。
『――殿下は品行方正ってわけでもないし、下心もあるだろう――』
ハートネル中尉の言葉を、わたしはさっき思い知らされたばかりだ。
もしあのまま、ロベルトさんが来てくれなかったら、どうなっていたか。
「エルシー、その……おば……じゃなくて、ウルスラ夫人と話をさせてくれないか。マックスの件でも、俺は一度、彼女にちゃんと謝りたい」
「謝る?」
わたしが殿下を見れば、殿下は真剣な目で言った。
「マックスは、俺の盾になって死んだ。その後、まさか代襲相続が却下されているなんて思いもせず、マックスの家族に不自由な暮らしを強いてしまった。きちんと謝罪をしたいし、ちゃんとした医療を受けて、安寧に暮らしてほしいんだ」
殿下の言葉に、わたしは無言になる。
さっきの出来事がなければ、頷いたかもしれないけれど。
ここで祖母の病気の件で殿下にお金を出してもらったら、わたしは殿下の要求を拒めなくなってしまう。
「んー悩むのもわからなくはないけど、ここで殿下の申し出を断って、おばあ様に何かあった時、エルシーたんは自分のことを責めちゃうんじゃない?」
ロベルトさんに言われて、わたしはハッとする。
それは、そうかもしれない。確かにおばあ様はいつ、大きな発作が起きても不思議ではないし。でも――
「でも……」
ためらうわたしに、ロベルトさんが言った。
「なんなら、今日これから、おばあ様に挨拶に行かない? このケダモノが暴れないように、オレもついているからさ!」
「ロベルト! さっきからケダモノケダモノって、俺を何だと思ってる!」
途中で割り込もうとする殿下を制し、ロベルトさんがさらに続ける。
「早い方がいいだろ? ね?」
わたしは結局、ロベルトさんに押し切られる形で、殿下を家に連れて行くことを承知した。
殿下の部屋を出て、わたしはクルツ主任に早退すると告げ、荷物をまとめていると、ロベルトさんが言った。
「車寄せで待っててくれる? すぐに馬車を回すから」
「はい」
帰り支度をして、司令部入口の、車寄せに出た。
一人になると、さっきの恐怖が甦ってくる。
殿下のことは嫌いではないし、多少強引だと思ってはいたけれど、身の危険を感じたことはなかったのに。
そのあたり、殿下のことを信頼していたのだと思う。
キスをされた時よりも、衝撃が大きかった。
もし、今後も殿下に迫られたら、わたしは――。
思考の海に沈んでいたわたしは、背後から声をかけられても耳を素通りして、腕を掴まれて初めて気づいた。
「ミス・エルスペス・アシュバートン!」
驚いて振り返れば、それはハートネル中尉だった。
「……あの後、殿下と何かあったのか?」
返事もできずに茫然と見上げるだけのわたしの表情は、きっとそうだとしか読み取れなかっただろう。
「何があったんだ? ……それに、朝の返事もまだ聞いていない。俺は本気だ。君を、救いたいんだ」
二の腕を掴まれたままそんなことを言われ、どうしていいかわからない。
「今から帰るなら、馬車を呼ぼう。……君の家まで行って、君のおばあ様と話してもいい。だから――」
「いえ、その――」
だがその時。背後から、有無を言わさぬ口調で、彼がわたしを呼んだ。
「エルシー!」
飛び上がるようにして振り返れば、司令部の奥から、かっちりと軍服を着こんだ殿下が歩み寄ってくる。
黒い髪に金色の瞳、他を圧するような威厳を漂わせ、殿下が黒い手袋を嵌めた手をわたしに向けて伸ばす。
「何をしている。こっちに来い」
ハートネル中尉が、わたしを庇うように前に出た。
「アルバート殿下、彼女は――」
「お前は誰の許しを得て俺に話しかけている。口を出すな」
殿下がハートネル中尉の口を封じ、わたしに向かい、もう一度呼びかける。
「エルシー、来い。わかっているだろう?」
その声は言外に言っていた。――命令に背くことは許さない、と。
わたしは諦めて殿下に数歩踏み出すと、即座に殿下に二の腕を掴まれ、ぐいと引き寄せられる。
ちょうど、車寄せに王家の紋章入りの馬車が入ってきた。御者台にいたロベルトさんが、ハートネル中尉の姿を見て眉を顰める。
馬車が停まり、ロベルトさんが馬車の扉を開けば、殿下はハートネル中尉を肩で乱暴に押しのけると、わたしを引きずるようにして馬車に乗せた。
「出せ。フォード街七番地だ」
ピシリと馬の鞭の音がして、馬車がガラガラと走り出す。チラリと窓の外に目を向ければ、ハートネル中尉が悔しそうに立ち尽くし、やがて遠ざかった。




