17、「業務」とは
朝っぱらからニコラス・ハートネル中尉の求婚されていたわたしは、たまたま通りかかったアルバート殿下の馬車に拾われ、攫うように司令部に連れてこられた。体調が悪かったので休んでいた、というわたしとハートネル中尉の言い訳を殿下は信じていないのか、馬車の中はとても気まずかった。
「午前中は会議が入っているから話ができない。午後に、俺の部屋に来い」
いかにも機嫌の悪そうな様子に、わたしは溜息をつきたいのを堪える。――こんなに、ピリピリした殿下は初めてだ。
「立ち眩みを起こしたのは本当です。ハートネル中尉は付き添ってくださっただけで――」
「言い訳は後で聞く」
ピシャリと切り捨てられて、わたしは口を噤むしかなかった。
午前中の会議の間、わたしはロベルトさんやクルツ主任から命じられた書類をタイプしたり、必要経費の書類の検算をしたりして過ごす。昼休憩の間も、そのまま自分の席で書類仕事をつづけた。――食堂に行く気も、食欲もなかった。
わたしと殿下が特別な関係だという噂は、同輩の事務職員の間でかなり囁かれていて、食堂に行けば嫌でも耳に入ってくる。今朝のハートネル中尉とのやり取りも、きっと目撃者がいるに違いないから、かなりの騒ぎになっているはずだ。
わたしが顔を出せばおそらく注目を浴び、マリアン・ブレイズからいろいろ詮索されるだろう。普段なら適当にやり過ごせるかもしれないが、今日の精神状態では無理だ。
それくらい、昨日の今日でわたしは参っていた。
――やがて、会議を終えて戻ってきた殿下が、自分の席にいるわたしを見て、指で来い、と合図をする。ロベルトさんや護衛の方たちも、殿下の機嫌が悪いのを知っているのだろう、気の毒そうな視線を浴びながら、わたしは殿下の執務室へと入った。
「お呼びですか」
「こっちへ来い」
殿下は軍服の上着をもどかしそうに脱ぎ、執務机の椅子の背に投げ捨てると、シャツとトラウザーズの軽装で、さらに奥の扉を開けた。――奥の部屋は、司令個人の休息室だ。
不測の事態に司令部に数日泊まり込めるように、寝台とバスルームがある。当然ながらわたしも入ったことはない。部屋で殿下とはいえ、若い男性と二人っきりになるのは恐ろしくて、わたしが入口で躊躇していると、殿下が振り返って行った。
「早く入れ」
「――失礼します」
わたしが薄暗い部屋に入ると、殿下はバタンと乱暴にドアを閉めた。
密室に二人きり。恐怖心で足が動かず、それ以上奥に進むことができないでいると、殿下がパチンと電灯のスイッチを入れた。
部屋はそれほど広くはないが、陸軍のトップが寛げる程度の家具が置いてある。革張りのソファーセットとテーブル、窓際には小さな書きもの机、それから部屋の奥には簡素な寝台があった。
殿下はドア付近で立ち止まっているわたしにソファーセットを指さし、座るように言う。大人しく腰を下ろすと、殿下が隣に座った。
ギシッとソファの軋む音にも、わたしの心臓がギクリと跳ねる。わたしは殿下の方を見る勇気もなく、膝の上に重ねた自分の手をじっと見つめていた。
「――何の、話をしていた?」
聞いたこともないような冷たい声で尋ねられ、わたしはゴクリと唾を飲み込む。
「えっと――」
「ハートネルと何を話していた?」
もう一度聞かれて、わたしは観念する。
「結婚を、申し込まれました」
「――で?」
「で、と言われましても」
「受けたのか?」
「いえ、返事をする前に、殿下がいらっしゃったので――」
「受けるつもりだったのか?」
殿下の声は氷のように冷たくて、わたしの鳩尾が冷える。
「考えてもみなかったので、動顛して――」
「あいつは前から、お前にコナをかけていたんだろう?」
「そうですけど、まさか本気とは思わなくて……」
「本気だとすると、いい結婚相手かもしれんと、思い始めたわけか」
殿下の方を見ようともしないわたしに苛立ったのか、大きな手が伸びて、わたしの顎を捉え、顔を上に向けさせる。真正面に殿下の金色の瞳があり、ギラギラした異様な煌きを湛えて、まっすぐにわたしを見つめていた。殿下の顔は美しいだけに、怒りを露わにしているときの恐ろしさは予想以上で、わたしは恐怖でカタカタと震え始めてしまう。
「あいつが言っていたな、『俺と結婚すれば仕事も辞められる』と。――そんなに仕事を辞めたいのか?」
「いえ、そうでは、なくて――ただ――」
仕事は、いつかは辞めなければならない。結婚も、しなければならない。
でも、わたしはハートネル中尉は好きじゃないし――
そう、言おうとしたけれど唇が震えて声が出ない。
すると殿下の整った顔が下りてきて、強引に唇を塞がれる。キスは、初めてではない。でも――
そのキスはただわたしを征服し、服従させるための、長い長いキスだった。
散々貪られて抵抗する気力すら奪われてから、ようやく唇を解放される。わたしが肩で息をしていると、殿下が冷たい目でわたしを見て、言った。
「『殿下のことは好きじゃないし、ただの仕事だ』――そう、聞こえた。本心か」
「……ハ、ハートネル中尉が、まるでわたしと殿下が、特別な関係であるかのように言うので、否定しただけです」
辛うじて告げるわたしを殿下が金色の目で射抜いた。
「こうして、キスするのは特別な関係じゃないのか」
「秘書官の業務だと、おっしゃったのは殿下です!」
「業務だから仕方なくキスしているわけか」
何を今さら――わたしは、どう言葉を継いでいいかわからなくなる。
いつも、殿下から強引にキスしてくるから、だから――
拒否は許さないと仰ったのは、殿下じゃない。
なのに、殿下は不機嫌そうに、凛々しい眉を顰める。
「つまり業務なら、何でもするのか?」
「――秘書官ですから、業務だと言われたら、断れません……」
「なら――」
殿下はわたしの両肩を大きな手で掴むと、わたしを仰向けにソファに押し倒し、真上からのしかかった。
大きな身体がわたしの上に覆いかぶさり、影が差す。
大きな手が顔の横に突かれて、檻のように閉じ込められてしまう。
突然視界が反転し、わたしは混乱する。この体勢は、いったい――。
「でん……」
茫然と見上げるわたしの顔のすぐ上まで殿下の顔が降りてきて、額と額がくっつけられる。殿下の唇が弧を描き、赤い舌がぬるりと唇を舐めた。
「業務だと言われたら、逆らえないわけだ」
その言葉に、わたしの身体が恐怖で強張る。
「待っ……」
これまでも、殿下に抱きしめられたことがないわけではない。
でも、真上にのしかかる彼の身体はあまりに大きくて、本能的な恐怖心と絶望感に身体の奥底から震えが広がっていく。
反射的に殿下の肩を掴み、全力で押しやろうとあがいた。だが、彼はわたしの両手首をやすやすと捕まえると、大きな片手でひとまとめに握って、頭上で押さえつけてしまう。
圧倒的な力の前に、わたしは本当に無力で――
怖い――怖くて、悲鳴すら上げられない。
彼の唇がもう一度、わたしの唇を塞いだ。
この人はなぜ、こんなに怒っているの。
わたしが、ハートネルに求婚されたから? でも、それはわたしのせいじゃないし――。
かなり長いこと唇を貪さぼられてから、ようやく唇が離れ、そのまま耳元で囁いた。
「エルシー……」
耳朶に触れる殿下の息が熱く、脳が焼かれる。思わずぎゅっと目をつぶった。
両手首の自由を奪われた状態で、彼の手がわたしの首元にかかる。タイが緩められ、一番上のボタンを外されて、寛げられた首筋に熱いキスが落とされる。
やめて、怖い。誰か――
恐怖で頭が真っ白になって、助けを呼ぶなんてことも考えられなくなったその時。
ドンドンドン!
激しいノックの音がして、外からロベルトさんの声がかかる。
「殿下! ちょっと! 殿下!? 開けますよ!」
わたしの上にのしかかっていた殿下がハッと顔を上げるのと、乱暴に扉が開くのが、ほぼ同時だった。




