16、ハートネルの求婚
祖母に叱責された翌日。
わたしがいつものように徒歩で司令部に向かっていると、隣を走っていた馬車が止まり、中から人が降りてきた。
「おはよう、アシュバートン嬢」
ガッチリした体つきと、少し鼻にかかった声は、ニコラス・ハートネル中尉だった。
「……おはようございます、ハートネル中尉」
「最近、勤務形態が不規則になったんだね。帰り道であまり会わない」
「……ええ、殿下の勤務が不規則なので、それに合わせなくてはなりませんので」
「秘書官にまでしてもらえるなんて、どんな鼻薬を嗅がせたの?……殿下も若い男だから、君の魅力には抗えなかったのかな」
ハートネル中尉は馬車を返してしまい、そこから先はわたしと同道するつもりらしい。
「別に、そういうわけでは――」
「この前、車止めで見かけたよ。……君が、アルバート殿下の馬車に同乗するところ。ずいぶんと、仲良さげに寄り添ってさ」
「……業務の一環です。別に何も……」
わたしは反論したが、ハートネル中尉は鼻で笑った。
「でも、噂になってるよ? ……君が色仕掛けで殿下を落としたってさ」
「まさか!……そんなわけありません!」
アルバート殿下とわたしが特別な仲だという噂が、臨時採用の事務職員の間で囁かれているのは知っていた。これまで五時きっかりに帰宅していたわたしが、時々殿下とどこかへ出かけたり、あまつさえ秘書官に登用されたりしたのだ。疑われないわけはなかった。
たしかに、業務内容はかなり怪しい。
高級サロンのドレスに着替えて、オペラや食事に付き合い、時々、馬車の中でキスされるくらい。すべて、わたしがしたくてしているわけじゃなく、殿下が「業務の一環」だと言って命じてくるから――。
……とここまで考えて、わたしは愕然とした。
わたしは殿下とキスしたいと思ったことはないが、結果的に無理矢理キスされている。あくまで「業務の一環」だと殿下が言い張っている以上、わたしに拒否権はない。
ならば――もし殿下に「業務の一環」だとしてキス以上を求められた場合、わたしは拒否することはできないのでは――。
あの時、オペラの帰りの馬車の中で、殿下は仰った。『キス以上のことは今日はしないが、いずれ俺が教えてやる』と。殿下はキス以上のこともする気満々だ――。
わたしは真っ青になってその場に立ち止まる。血の気が引いて立っていられなくて、その場に座り込もうとしたわたしを、ハートネル中尉のガッシリした腕が支える。
「アシュバートン嬢! しっかり! 酷い顔色だよ!」
「い、いえ、……すみません、少し、立ち眩みが――」
こんな往来で若い男に抱き留められるなんて、とんでもないと思いながらも足が動かない。ハートネル中尉はわたしを抱きかかえるようにして、歩道の端の、まだ開いていない店先の階段に連れていき、座らせてくれた。
「大丈夫?」
ハートネル中尉がわたしの正面に膝をつき、榛色の瞳で心配そうに見上げてくる。
「……大丈夫、です。ちょっとした貧血で……少し休めば――」
「歩いて行くのは無理だよ、馬車を呼ぼう」
「いえ――その、馬車はあまり得意でなくて。酔いやすいんです。こんな状態で乗ったらきっと――」
その言葉に、ハートネル中尉は目を見開く。
「そうだったの。俺はてっきり、君は俺を振り払いたくて、意地でも馬車に乗らないのかと思っていた」
「……それもありますけど、一番の理由は貧乏だから。二番目が酔いやすいからです」
ゆっくりと、血の気が戻っていて、わたしはパチパチと瞬きする。
「すみません、だいぶ、マシになりました。後少し休めば大丈夫ですから。……中尉が遅刻してしまいます。先に行ってください」
「こんなところに体調の悪い女性を置き去りにできるわけないでしょ。俺だって紳士の端くれなんだからさ」
「でも――」
「遅刻の理由としては正当なものだと思うがなあ。……それに、君と一度、ちゃんと話をしたいと思っていたんだ」
そんなことを言われても、わたしには彼と話す用事などなかったが……。
「いつも、冗談めかしているけど、俺は本気だよ、アシュバートン嬢」
「本気?……何が?」
意味がわからなくてわたしが彼を見ると、彼は赤い髪をかき上げるようにして言った。
「結婚。――本気で、俺は君と結婚したいと思ってる」
「はあ?」
「君の置かれた状況は理解しているよ。……本当のことを言うと、調べた。君が、爵位を失って、祖母の面倒を見なければならなくて、経済的に非常に厳しい状況にあることも。祖母の薬代が家計を圧迫して、働かなければ生きていけないけれど、おばあ様は昔気質で理解がない。……俺は確かに三男坊で爵位はないが、軍の給料は家族を養うのに十分だし、死んだ叔母の遺産で家もある。君のおばあ様の薬代くらいは何とかなるよ」
真剣な表情でまっすぐにわたしを見つめて言うハートネル中尉の言葉が、わたしには信じられない。
「どうして?……だって、わたしは爵位も領地も持参金も財産も、ついでに可愛げもなくて――」
ハートネル中尉がはあ、と溜息をつき、赤い髪を気まずそうにかき上げる。
「それは、俺が悪かった。……どうしてもその、素直になれなくて、つい悪態をついちまうんだ。本気じゃないのに――」
「でも、事実です」
「前の四つについてはそうかもしれないが、最後のは、違う。君は、可愛いよ」
朝っぱらからそんなことを言われて、わたしは目を瞠る。
「なんで――」
「一目惚れなんだ。……その、君に――だから、結婚して欲しい」
わたしは声も出せずに茫然とハートネル中尉を見つめる。
「俺は、君にとってはいい結婚相手だと思う。家柄もいいし、君の気難しいおばあ様とも上手くやる。それに、このまま司令部に勤め続けると君は、大変なことになるぞ」
その言葉に、わたしはハッとして息を呑んだ。
――それは、わたし自身が内心懸念していたことだからだ。
「君がいくら世間知らずでも、わかるだろう? 殿下は顔もいいし金もある。でも、君にどんな甘い言葉を吐いたかしれないが、殿下と君とじゃ身分が違い過ぎる。殿下にとって、君は単なる遊び相手で本気じゃない。公爵令嬢との婚約が正式に決まれば、君みたいな女は、あっさり切り捨てられて終わりだ。君の尊厳が奪われても、君は泣き寝入りするしかない」
ハートネル中尉の言葉に、わたしは慌てて首を振る。
「殿下とわたしはそんな関係じゃ――」
「今はまだね。でも、殿下は品行方正ってわけでもないし、下心もあるだろう。君は本物の王子様に言い寄られて、少しのぼせているかもしれないが――」
この時、石畳の車道を立派な馬車が近づいてきて、路肩に停まった。扉の紋章が王家のもので、扉が開いて背の高い男性が降りてきた。陸軍の制服を着て黒い長靴を履いた長い脚が、わたしたちの方に近づいてきたが、背を向けているハートネル中尉は気づかない。ハートネル中尉の言葉は、下手をすれば王子殿下への誹謗中傷か、不敬罪に問われる可能性がある。止めなくては――。
わたしはとっさに大きく息を吸って、中尉の言葉に被せるように言った。
「のぼせてなんていません! わたしは別に殿下のことが好きなわけじゃありませんし、ただの仕事です!」
だが、中尉はわたしの意図に気づいてくれず、なおも話をやめようとしない。
「じゃあ、俺と結婚してくれよ、エルシー。……別に、殿下を愛しているわけじゃないなら、構わないだろう。俺と結婚すれば、仕事も辞められる――」
「ミス・アシュバートン、ここで何をしている?」
ハートネル中尉の愛の告白を遮ったのは、今まで聞いたことのないほど冷たい声の、アルバート殿下――。




