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15、遠い日の記憶

「最近、ずいぶんと帰りが遅いようね、エルスペス」


 久しぶりに我が家で夕食を摂っていると、案の定、祖母の小言が始まる。


「……はい、申し訳ありません、おばあ様」

「お前、仕事などやめるのではなかったの?」

「ええ、やめる予定ですが、引継ぎが上手くいかないのと、特別業務が夜にかかってしまうので――」


 キャベツの酢漬け(ザワークラウト)をフォークで集めながら、わたしが言葉を探していると、正面に座る祖母は疑わしそうに言った。


「あの、首席秘書官だと言う人も、大事な特別業務だと言うけれど、未婚の若い娘を夜遅くまで働かせるなんて、非常識ですよ。いったい何の業務なのです? 説明してごらんなさい!」

「それは……王子殿下に関わることは守秘義務があるので、お話しできないんです、おばあ様」


 着飾ってパーティーに行ったり、オペラに行ったり、高級レストランで食事に付き合ったり、なんて、守秘義務がなくてもお話しできないですけどね……。わたしは溜息をつきたいのをギリギリで堪える。


 さすがにもう、間諜(スパイ)ごっこだなんて言い訳は信じていなかったが、パーティーにパートナーが必要なのは理解できなくはない。でも、オペラも食事も、単に殿下が一人で行くのは嫌だというだけの、我儘(ワガママ)だ。国王陛下からも、公爵令嬢と正式に婚約するようにうるさく言われていて、殿下はそれに不満らしい。しかし、王都の上流階級ではアルバート殿下と公爵令嬢は相思相愛の仲だと信じられているから、他のご令嬢を誘うわけにもいかない。殿下の浮気相手だなんて噂になったが最後、国王の寵臣であるレコンフィールド公爵に恨まれて、ご令嬢もその父親も、貴族社会にいられなくなってしまう。

 もともと貴族じゃないわたしなら、仮初めの遊び相手にはちょうどいい。


 ――若手女優のパトロンになるとか、いくらでも他に手段はあるし、何も秘書官に()()として命じる必要はないとは思うけれど。正直に言って、なぜ、殿下がわたしを連れ歩きたがるのか、さっぱりわからなかった。


「本当に仕事なのですよね? エルスペス」


 祖母に厳しい声で言われて、わたしは反射的に背筋を伸ばす。


「ええ、そうです。仕事なのは間違いありません」


 わたしは祖母の灰色の目をまっすぐに見て、大きく頷く。……傍目には殿下が連れ歩く愛人モドキの女だろうが、わたしにとって、秘書官としての()()だ。それ以上でも、それ以下でもない。


「アルバート殿下はレコンフィールド公爵令嬢と婚約間近なのでしょう? 未婚の娘がそんな男性の周囲をうろつくものではないわ。そもそも、仕事も早く辞めなさいと、前から言っているでしょう。若い娘が、いつまでも働くのはみっともない。……全く情けないこと、由緒あるアシュバートン家の娘が……」


 結局はいつも通りのお小言が始まり、わたしは祖母の背後の壁にかかる、薔薇園(ローズ・ガーデン)の絵を見る。

 先日は殿下と、仮面をつけての秘密のオークションに行って、素晴らしい宝石や有名な絵画――もちろん故買品で、ワケアリの品々ばかり――を目にすることができた。特に殿下は絵画がお好きらしく、とある巨匠の作品を競り落とすのが目的だった。王家のゆかりの邸から盗まれた名品で、国外に流出させるわけにいかなかったらしい。


『絵がお好きなのですね』


 わたしが言えば、殿下は仮面をつけた顔でわたしをじっと見て、それから何となく困ったように首を傾げた。


『……まあな。昔は、画家になりたかったんだ』

『そうなのですか。……意外です』

『意外か?』

『ええ、だってずっと戦場に出ていらっしゃったのでしょう?』

『戦争だったからな。一番上の兄上は危険な場所には行けないし、二番目の兄上は病弱で、とてもじゃないが、戦地で生活なんてできない。……俺が、行くしかなかった』


 そう言ってから、殿下は手元の出品カタログに視線を落とし、言った。


『それに、プロの画家になれるほど上手くなかった』

『今はもう、趣味でもお描きにはならないのですか?』

『最近は描いてないな……スケッチくらいだ。戦地では油絵を描く暇はなかった』

『スケッチされるなら、今度見せてくださいよ。……お金がかからなくていい趣味だわ。高いお金を払って、あの変なお邸で間諜(スパイ)ごっこするよりも、うんと有意義じゃないですか』


 わたしがそう言うと、殿下はカタログから顔を上げてわたしの顔をじっと見て、少しだけ唇を綻ばせた。


『……ああ、そのうち、な』


 顔の半分は仮面で隠れていたけれど、あの時の殿下はとても穏やかな表情をしていたように思う。……絵の趣味を褒められたのが、そんなに嬉しかったのだろうか? だとしたら意外と単純な人だな、などと考え、わたしは祖母のお小言に神妙に頷きながら、視線は薔薇園(ローズ・ガーデン)の絵から離さなかった。


 たぶん、この絵もプロの画家じゃなくて、趣味か、画学生が描いたものだろう。

 オークションで見た絵画はみな、独特のオーラがあったけれど、この絵にはそれがない。色使いは繊細だけれど、やはり本物の芸術を見た後では、稚拙で素人臭い。

 いったい誰が描いたものか知らないけれど、わたしは昔からこの絵が好きだった。いつ、どういう理由でわたしの部屋にあったのか、まるで覚えていないのだが、幼いころから大事に飾ってきた絵なのだ。美術品として価値がないから、持ち出しても構わないと言われた時は、本当にホッとしたものだ。


 誰かが、わたしの住んでいた(カッスル)で、薔薇園(ローズ・ガーデン)の絵を描き、城に残した。ずいぶん昔のご先祖様の一人だったのか、あるいは旅人だったのか。そんなことを考えていると、ふと、脳裏に一つの風景が浮かぶ。


 ちょうど、薔薇の盛りのころ。

 薔薇の香りがただよい、小鳥の声がして、蝶やミツバチが飛んでいた。

 弟がはしゃいで駆け回り、園丁のサム爺さんが薔薇の手入れに余念がなくて、わたしは――わたしは、何をしていたっけ?


 そうだ、わたしもたぶん、サム爺さんの手伝いをして、雑草を抜いたり、盛りに過ぎた薔薇を摘んだりしていた。そして、もう一人――誰かが、絵を描いていた。


 イーゼルを立てて、その前に立って……油絵具を並べ……背は……背はそんなに高くなかった。でも男の人で、髪は黒い――あの人は――。


「――聞いているのですか、エルスペス!」


 祖母に叱責されて、わたしはハッと我に返り、同時に脳裏に浮かんだ風景が霧散する。


「あ、は、はい――おばあ様」

  

 慌てて居住まいを正せば、祖母は眉間に皺をよせてわたしを睨んでいた。――聞いてなかったのが、バレてしまった。


「お前も結局は、わたくしのことを口うるさい老女だと思っているのでしょう。……わたくしはあの、忌々しいサイモンと、その息子からお前を守るために……!」

「いえ、おばあ様、そのお話はもう――」  

「エルスペス、働きに出るのはお辞めなさい。せめて、お前だけは真っ当な幸せを掴んで欲しいと思って、あの城を出てきたのに、このままではお前までが王家の食い物にされますよ!」


 祖母はテーブルに置かれたハーブティーに蜂蜜を入れ、銀のスプーンで混ぜる。


「食い物だなんて……アルバート殿下は親切にしてくださいます!」

「当たり前です!  マックスがどれだけの骨を折ったか!  挙句の果てに戦死して。ローズの事だって……。ああ、やっぱり王都になど出てくるべきではなかった。王家が信用できないのは、わかっていたことだったのに。もう、ローズの二の舞はごめんですよ!……エルスペス。職を辞しなさい。いいですね?」

「……はい、おばあ様……」


 わたしは目を伏せて、祖母の叱責に応える。こうなってしまうと、わたしには祖母を宥めることなどできない。……ローズ、というのは確か、祖母の遠縁の女性で、幼い頃に孤児になり、リンドホルム城に引き取られた人だ。祖母は父と結婚させるつもりで養育したのに、王都に行って亡くなったと聞いている。王家と何か問題を起こしたのだろうか?……でも、すごい剣幕で怒っている祖母に尋ねる勇気はない。

 

 殿下の秘書官の職を辞すべきだとは、わたしも内心考えていた。……このまま、愛人モドキをさせられていたら、きっと抜き差しならないことになるし、周囲にも知られてしまうだろう。そんな醜聞(スキャンダル)に、祖母の心臓はきっと耐えられまい。


 でも、仕事を辞めたら収入はなくなる。

 気前のいい結婚相手が、すぐに見つかるわけもない。


 ――いったい、どうしたらいいのか。

 わたしは出口の見えない迷宮に迷い込んだような気分で、目の前のハーブティのカップに手をかけた。

   

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