49、夜会の後
王宮から、王都のアパートメントに戻った時には、すでに夜半を過ぎていた。――ものすごく、眠い。
アルバート殿下は王宮に自室もあるけれど、わたしを王宮内の王族専用エリアに泊めようと思うと、すごく大変な手続きが必要らしい。かといって、一般貴族用の宿泊スペースは、予約でいっぱいだ。それくらいなら、慣れた部屋でぐっすり眠りたい。
だからもともと、その夜はアパートメントに戻るつもりで、ジュリアンとハンナがユールを連れて、先に待機してくれていた。
「お帰りなさいまし」
専用のエレベータを降りれば、すぐにジュリアンが迎えに出る。……ユールはもう、眠ったらしい。
「さすがに疲れた。風呂にはすぐに入れるか?」
「ええ、もちろん。ハンナがスタンバっていますよ」
殿下のトップハットとステッキを受け取り、ジュリアンが言う。わたしがまっすぐ自分の部屋に向かえば、待っていたかのようにハンナが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ」
以前、このアパートメントのメイドは通いのノーラだけだったので、夜遅く帰るとメイドはいなかった。毛皮のついたケープを脱いで、ホッと息をつく。
「……疲れたわ」
と、ガチャリとコネクティング・ドアが開き、上着を脱いだ殿下が部屋に入ってきた。
「リジー」
「せっかくのデビュタントのドレスを、脱いでしまうともったいないと思って」
「もう、散々、見たでしょう?」
殿下はわたしの姿を上から下まで舐めるように見、後ろを向かせたりして、言う。
「いいや、見足りない。ステファニーのデビューの時は、特に興味もないのにずっと、横に張り付いていなくちゃならなくって、ウザくてたまらなかった。十分にいっぺんは、『もっとああした方がよかった』とか言い出して、『いやそれで十分だ』って言わなきゃなんなくて、閉口したのを憶えている」
「……たぶん、『すごく綺麗だ、女神みたいだ』って言って欲しかったのよ」
「意地でも言わなかったからな」
そう言って、殿下はわたしの額に口づける。
「すごく綺麗だった、エルシー。お前が一番美人だった。謁見の間で見かけて、あんまり美人で、閣僚のジジイどももニヤニヤしているし、父上はあからさまに態度違うし、気が気じゃなかった。誰にも見せずに閉じ込めたかった」
「それであんなことなさったの。びっくりしましたわ」
やり取りを聞いていたハンナが、躊躇いがちに声をかける。
「どうされます? もう遅いですし、そろそろヘッドドレスを外したいのですが……」
「ああ、わかってる。……じゃあ、そろそろ」
殿下は名残惜しそうに、わたしの姿をもう一度上から下まで見て、言った。
「俺は先に風呂に入ってるから、後から来い」
そう言って去っていく殿下を見送り、ハンナがやれやれと言う風に頭のヴェールと鳥の羽、ヘッドドレスを外しにかかる。
「ホント、殿下ってお嬢様に夢中ですよね。大きな犬みたい」
「……まあ、ランデルの狂犬って渾名だしね」
ひっつめていた髪を解き、わたしは解放感でホッとする。
「ドレスも脱がせますね」
「ええ、お願い。……これ、今日の一回しか着ないなんて、勿体ないわよね」
「でも真っ白のはなかなか……最近は婚礼衣装を白にするのが流行のようですが、使いまわしってバレるのもまずいですよね」
ハンナの発言で、わたしは思い出す。
「そうそう! 殿下ったら、ビルツホルンで、勝手に婚姻届けを出していたそうなの!」
背後に回り、背中のボタンを外していたハンナが息を呑んだ。
「ええ? 本当ですか?!」
「ええ、一応、国王陛下は仕方ない、って感じで許可を出したけど、首相がカンカン! 議会に召喚されちゃったわ」
なんだかもう、何がなんだかわからないし。王宮舞踏会で婚約破棄はするし、勝手に結婚はしているし、もう無茶苦茶だ。
「……やっぱり、慰謝料とか、取られるのかしら……」
「わたしは法律的なことはちょっと……」
わたしが鏡台の上にサファイアの指輪を外し、白い長手袋を脱ぎながら言えば、ハンナが不安そうに鏡越しに言った。スリップの上から薄紫色のキモノ・ガウンを羽織ると、浴室の扉が開いて、殿下が声をかける。
「エルシー、早く来い」
わたしは肩を竦め、ハンナに言う。
「ごめんなさい、呼んでるわ」
「ええ、ドレスは片付けておきますから」
ハンナが微笑んだ。
浴室で待っていた殿下に捕まえられ、泡だらけのバスタブに入れられて、髪と身体を洗われる。
「……今日は疲れているから……」
「明日は一日休みだ。それに……初夜だろう?」
わたしは思わず殿下の顔をしげしげと見た。
「そう、そのお話。聞かなきゃって。やっぱりもう、婚姻届けは出ているってことですの? わたし、知らない間にもう、人妻でしたの?」
「それについても、洗いながら説明するから」
殿下はそう言うと、わたしの髪を泡立てたシャンプーで洗い始める。
「……俺が一番恐れたのは、勝手にステファニーとの婚姻が成立させられることだ。さすがにそこまではしないと思っていたけれど、婚約の承認決議もされちまったしな。俺のサインが必要なはずだが、どんな手を使ってくるか、わからない」
丁寧な手つきで洗われながら、わたしが先を促した。
「それで?」
「……婚約披露の晩餐会なんかに行ったら、無理矢理サインを強制されるかもと思い、それはぶっちしたし、ビルツホルンに行って留守にすれば、物理的にサインはできないから大丈夫なはずだが、気が気じゃなかった」
わたしはなんとなく、掌についた泡をふっと吹くと、小さなシャボンの泡がふわりと飛んだ。
「列車の中でいろいろ考えて……大聖堂で懺悔するって話になった時に、思いついたんだ。どうせなら結婚を誓うサインをもらっておけばって。それで、大使館でいろいろ聞いたら、どうやら、大使館でも婚姻届けが出せるとわかった。大使館で仮受理し、本国に転送して正式に受理されると。それだ、と思って……」
「だからって、相談もなく……」
「あと、子供ができたらって、お前が気にしていたから……」
殿下はわたしを背後から抱きしめて言った。
「お前をローズの二の舞にはしたくなかった。秘密結婚でもなんでもいいから、とにかく届を出してしまおうと思って。ちょうど、世間知らずっぽい、押しに弱そうな若い司祭がいたし、フェルディナンドもいたから、これ幸いとサインをもらっておいたんだ。……言ったら、お前は反対するだろう?」
わたしは少し考え込んだ。
「そうね……そんなやり方、卑怯だって反対したわ」
「でも、もともと卑怯なのは奴らだ。卑怯な手を使って書類を出されてしまったらもう、覆せない。……こんな形になって、すまなかった」
素直に詫びられてしまうと、わたしはそれ以上は責めることはできなかった。
「しょうがないわね……」
わたしが言えば、殿下が首筋にそっと口づける。
「……というわけで今夜は初夜だから……」
「はあ? こんなに疲れているのに? 正気?」
「エルシー、何事も初めが肝心だぞ?」
「今さら何が初めなのよ! いい加減にして!」
だが結局、わたしの抵抗もむなしくその夜も散々、いいようにされてしまうのだった……。




