50、号外
カチャカチャと陶器のぶつかる音に、わたしは薄っすら目を見開く。大きな窓から冬の日差しが燦燦と降り注いていて、窓際の丸テーブルに白いクロスをかけ、ハンナとノーラが食器とカトラリーを並べていた。殿下は裸のまま、大きな枕に凭れて、美味そうに紙巻煙草をふかしている。……当たり前だが、わたしも一糸まとわぬ裸のままだ。
ギョッとして身を起こしたわたしは、ベッドの向こうにいたハンナと目が合い、慌てて上掛けを掻き寄せる。
「お目覚めですか? すぐに朝のお茶を――」
ハンナはこういう場面で、全くというほど表情が変わらない。平然とカップに紅茶を注いで、ソーサーに乗せてベッドサイドのテーブルに置く。
「ああ、エルシー起きたのか」
「な……今、何時? えっと――」
動揺するわたしを余所に、ノーラがあっけらかんと答える。
「もう十時を回っていますので、ブランチをご用意します。コンソメスープとサラダとオムレツ、蒸し鶏の胡麻風味ソース、厚切りハムのステーキに、焼きトマト。トーストになさいますか? それともクロワッサン?」
「俺はトーストにしてくれ、あとはニシンの燻製を。……エルシーにはクロワッサンとカフェオーレを」
「はい、すぐにご用意いたします」
ノーラが一礼して下がると、ハンナが差し出す絹の寝間着を着て、薄紫のキモノ・ガウンを肩に羽織る。わたしが気まずく熱いお茶を啜っていると、殿下は吸い終えた煙草を灰皿にこすりつけて火を消し、カップに残ったお茶を飲み干してから、ベージュのトラウザーズを穿いて立ち上がる。素肌の上に黒いキモノ・ガウンを羽織って、もう一本、煙草を咥えて火を点け、テーブルの上に置いてあった、絵入り新聞を手に取り、椅子に腰を下ろす。
咥え煙草で新聞を捲る殿下の前に、戻ってきたノーラがメインの皿と、コンソメスープの入った両手カップを置く。わたしは紅茶のカップをソーサーに戻し、寝間着の前を掻き合わせながら、ベッドを降りる。
わたしが日差しの降りそそぐ窓べの椅子に座ると、殿下が新聞から顔を上げ、微笑む。
「まだ、たいした記事はないな。……ミス・エルスペス・アシュバートンが代襲相続のために国王に謁見した、とあるくらいだ」
さすがにまだ、昨夜の王宮舞踏会での婚約破棄は、記事になっていないらしい。
「今日の夕刊紙か、明日の朝刊は大変なんじゃありません? あんな大げさな……」
わたしが少しばかり批判めかして言えば、殿下は新聞を畳んでそこらに置いて、スプーンを手にコンソメスープのクルトンを掬い、笑った。
「しょうがないだろう。絶対に婚約解消に同意しないって、言い張るんだから。ビルツホルンから婚姻証書が届くのを待ってたんだ。……ま、たとえ受理されなくても、大使館の控えがあるから大丈夫だとは思ったけど、本物の方が効果的だしな」
ノーラがわたしの前にメインの皿とコンソメ・スープ、クロワッサンと、カフェオレボールを置く。わたしはコンソメスープを二口ほど飲み、それからナイフとフォークを手に、メインの皿に取り掛かる。サラダと焼きトマト、オムレツと蒸し鶏、厚切りハムの盛り合わせ。殿下の皿には、さらに大きなニシンが追加されている。
殿下がバター・トーストとニシンの燻製を一緒に食べていると、ジュリアンがコーヒーのお替りを持って入ってきた。足もとにはユールが纏わりついている。
「きゃん、きゃん!」
「おはよう、ユール! 朝ごはんはもらった?」
「きゃん、きゃん!」
ジュリアンが盆の上に乗った新聞を殿下に手渡して言う。ユールが嬉しそうに、尻尾を振り、舌を出している。
「号外が出ていますよ」
「号外?」
「『世紀の婚約破棄』ってね」
殿下がトーストを飲み込んでから、号外に手を伸ばす。
「ずいぶん、早耳だな」
「王宮には報道も詰めかけていましたからね」
殿下は一通り新聞に目を通し、感心したように言う。
「やっぱり、これからは大衆媒体だな。新聞・ラジオへの投資を増やすかな」
「ラジオ?」
「ああ、電波で音を飛ばすんだ。大戦中にだいたい、技術は完成していたんだが、軍事転用を恐れて開発が止められていた。ニュースや音楽なんかを、広く広報できる」
「……へえ」
「……俺たちへは割に好意的だな。大衆紙だからだろう。これから出る高級紙の論調は割れるだろうな」
大衆紙は、父親を戦争で失い、弟の死によって領地も爵位をも失い、王都で事務員をしていたわたしの味方であるらしい。
「大衆紙の読者は戦争帰りの復員兵や、その家族が多い。俺の人気もそいつらに支えられているんだ」
殿下はわたしに号外を手渡す。
『世紀の婚約破棄』
――二月十日の王宮舞踏会で、第三王子アルバート殿下は、ついにレコンフィールド公爵令嬢に婚約破棄を付きつけ、リンドホルム伯爵令嬢エルスペス・アシュバートンとの結婚を宣言した。レコンフィールド公爵及び、首相のバーソロミュー・ウォルシンガム卿は、議会の承認のない婚約破棄及び結婚は認められないとして、アルバート殿下の、議会への召喚を決めた。
わたしは号外を殿下に返してから、尋ねる。
「――ステファニー嬢は、あれで納得なさったのかしら」
「納得はしていないかもしれないが、さすがに、あそこまでされたら、もう結婚は無理だと気づくだろう。レコンフィールド公爵は、半ば意地にはなっていたようだがな」
「どうして、殿下とステファニー嬢の結婚に拘るのかわかりません。首相がどうとか言っていましたけれど」
殿下はコーヒーを啜りながら言う。わたしたちの足元をユールがハッハッと走り回っている。
「……まずは、父上との間の約束があって……それを反故にされるのが我慢ならないというのが一つ。あとは、兄上のところに息子が生まれていないから、近隣諸国のように、女児への継承を認めようという動きがあって、レコンフィールド公爵と首相は、それに反対している」
「……王太子殿下のところの、三人の王女様に?」
わたしの問いに、殿下が頷く。
「レイチェルと、フローラ、それからアイリーン。アイリーンが生まれたあたりから、継承法の改正の動きはあった。でも、戦争でそれどころではない、というか、そういう話を出せない情勢だった」
「……なぜ?」
「ただでさえ、女王を認めるか否かというのは大問題だけれど、第三王子の俺が戦地にいる状況で、俺が継承する可能性を実質的に奪うような、そんな継承法の改正案を出すのは憚られたんだと思う」
継承順位の高い第三王子自ら、危険な戦地に立つことが、兵士の士気を高めていた。王女たちもまだ幼く、王太子妃が男児を生む可能性も残っている。
「王子さえ生まれれば、そんな改正は必要ないから、法案は提出されなかった。だが、ジョージの死で風向きが変わった。継承の安定のためには、女王もやむなし、という流れが生まれつつある」
アルバート王子の継承順位が上がり、さらに病身の国王は譲位をほのめかしている。
「だが、レイチェルらが初めての女王候補となれば、王太子妃の父親である、エルドリッジ公爵の影響力は間違いなく強まるだろう。議会と女王の関係もどうなるか未知数だ。変化を望まない者たちは、女王への継承なんて面倒な議論はせずに、そのまま俺を即位させる方が楽だと考えている。レコンフィールド公爵と首相はその最右翼だ。戦前からの婚約者のステファニーと俺を結婚させ、男児が生まれてしまえば、女王継承を認める法案など一気に潰せる」
殿下がコーヒーを啜り、ソーサーに戻す。
「……だがその計画を、俺自身がぶち壊した。ステファニーとは結婚しないと俺が言い出して、公爵はもちろん、首相も困惑したはずだ。ここ数代、王妃は公爵家以上の、父兄に閣僚経験者を持つ者に限られている。だが、そういう令嬢はみんな売れてしまっていて、ステファニーしか残っていないから。戦争前は大人しく言うことを聞いてきた俺が、こればっかりは折れないから業を煮やして、騙し討ちのような形で議会から承認を取り付け、押し切ろうとしたんだけど……。俺は兄上をも抱き込んで、何度も婚約の解消を打診したが、議会の承認を盾に承諾しない。だから俺は、ビルツホルンから婚姻証書が来るのを待って、公爵とステファニーに最後通牒を突きつけた」
「……それが、昨日?」
「一昨日までに婚約解消に応じてくれたら、王宮舞踏会では穏当に婚約者を演じ、その後、円満に解消すると。そうでなければ、強硬な処置を取ると言ったが、まさか舞踏会でやらかすとは思っていなかったらしい」
……それはわたしにも、予想外だった。あんな場で婚約破棄されて、ステファニー嬢もお気の毒としか言いようがない。
「いくら何でも酷いのではなくて? 彼女の名誉だって……。それに、わたしが裏で焚きつけたせいだとか、言われたは嫌だわ」
「俺は半年以上、そもそも婚約はしていないと言い続けて、全部無視されてきたんだぜ? この際、あれこれ言われるのは覚悟の上だ」
国王陛下の許可は得たものの、議会を相手にしなければならないなんて……。
わたしはコーヒーを啜って、溜息を零す。
「せめて、ステファニー嬢には、納得してもらいたかったわ」
「ステファニーが納得なんて、しないだろう。……あれは、自分の思い通りにならないことなんて、この世にないと思っていたんだから。自分が俺を望んだ以上、俺はステファニーを愛するはずだと、強く信じている。……その自信はたいしたものだと、いつも感心した」
わたしは、足元を走り回るユールを捕まえ、膝の上に抱き上げ、勇気を出して尋ねてみることにした。
「……本当に、ステファニー嬢のことは、愛していなかったの? ずっと婚約者として過ごしてきたのでしょう? わたしとは、十二年前のたった半年、一緒に過ごしただけなのに。ほんとうにこれっぽっちも、彼女は好きではなかったの?」




