12、国立歌劇場
「明日の土曜はオペラに行くぞ」
仮面舞踏会の一週間後、殿下のもとにサインをもらいに行くと、唐突に言われた。
「明日、ですか?」
「なんかまずいのか?」
「この前、夜が遅くなったので、祖母の機嫌が悪いのです。いくら何でも立て続けでは……」
「もう、チケットも押えてしまった。何なら俺から一言言っても……」
「そこまでしていただくと、かえって厄介な気がします」
祖母は代襲相続の勅許が降りなかったことで、王家に不信感を抱いている。王子殿下に夜遅くまで連れまわされているなんて、どういう反応が返ってくるか、想像もつかない。
わたしの言葉に、殿下が金色の瞳でじっと見つめてきた。
「……ずいぶん、祖母に気を使っているんだな」
「それは、まあ……」
わたしは目を伏せる。貴族の家に生まれ、貴族に嫁ぎ、貴族として生きてきたのに、残ったのが孫娘一人だけだったために、住み慣れた家も領地も、貴族の誇りすら失ったのだから……。
「まあいいさ、明日は昼興行だから。そんなに遅くはならないはずだ。でも夕食も予約してある。歌劇場近くのレストランで、最近評判の――」
「……はあ。でも、大丈夫ですか、オペラは仮面を被って行くわけにいきませんし、誰かに見咎められたら……」
おそらく王都中の人間が、アルバート殿下はレコンフィールド公爵令嬢と相思相愛で、婚約間近だと思い込んでいる。別の女と一緒にオペラだなんて、もし見咎められたら大変なことになるのでは。――主に、わたしが。
「俺がオペラ見て飯食って何が悪い」
「何もみすぼらしい平民女をひきつれて行かれなくとも」
わたしの自嘲気味の言葉に、殿下が眉を寄せた。
「別にお前はみすぼらしくないだろう?……そうだ、この前注文したドレスができてきたと、リーンの店から連絡があった。オペラの昼興行なら、ペイズリー柄の方がいいかな」
「そりゃ、ドレスは立派ですけど……その、よろしいのですか? オペラが見たいなら、ちゃんとしたご令嬢をお誘いになるべきでは――」
「別にお前はちゃんとしてるだろ。卑下するなよ」
殿下はそう言って、わたしの肩に手を触れて、ポンポンと叩く。
「そんな風に俯くな。お前は美人だ。少なくとも、俺が連れ歩いても見劣りしない」
「……連れ歩くアクセサリーがご入用なら、わたしなんかじゃなくて、いっそ若手の女優あたりをお誘いになればよろしいのです」
レコンフィールド公爵令嬢とは別に相愛でも何でもない、その事実を周知させるためなら、醜聞を利用してでも名前を売りたい、野心満々の女優やら歌手やら、何なら高級娼婦だっているだろう。地味に生きている貧乏娘を巻き込まないで欲しい。祖母だって殿下とレコンフィールド公爵令嬢は婚約間近だって思っているんだから、祖母が知ったら怒り狂うに違いない。
「俺は別に、アクセサリーが欲しいわけじゃない」
「そうですか?……秘書官の業務を逸脱しているように、思われるのですが」
わたしはふうっと溜息をつき、その場を下がった。何となく、殿下が複雑な表情をしているようだったが、正直、彼の考えていることを知りたいとは思わなかった。
翌日の土曜は本来は半休だが、午前の仕事を簡単に済ませると、例によって殿下の馬車で十番街のミス・リーンの店に向かう。
着せられたのはグレーのペイズリー模様のすとんとしたドレスに、黒いレースのボレロ。ふんわりした袖は五分丈で、やはり黒のレース編みの手袋を合わせる。ビーズ織のキラキラした手提げ袋に、小さな黒い帽子をなぜか斜めに被らされ、耳の上で豪華なピンで留める。
背中を覆うほどだった髪は、「いくらなんでもダサ過ぎる、今日という今日は我慢がならない!」と突如キレたミス・リーンによって肩を覆う程度に切られてしまい、電気ゴテでクルクルに巻かれた。
……普段はシニョンにすれば問題ないと言いくるめられたけれど、おばあ様にバレたらなんて言い訳すればいいの!
耳にはダイヤモンドを連ねた長く垂れるイヤリングを飾り、黒いレースのチョーカーからは大粒の涙型のダイヤのトップが垂れ下がって揺れている。
どれもきっと、目の玉が飛び出るような金額なのだろうが、三回目とあって、わたしも慣れてきた。いや、慣れちゃだめなんだけど。これが当たり前だと思ったらだめだ。貧乏に耐える力がなくなってしまう。
上機嫌な殿下は、今日は昼の盛装であるフロックコート。ウエストコートが、わたしの共布と同じペイズリー柄で、冷静に考えたらペアルックとかめちゃくちゃ恥ずかしいのだけど、この人は気にならないのだろうか。……いやそもそも、歌劇場で間諜ごっこって、何を探る予定なの?
「オペラを見るのは――」
「初めてです。……国立歌劇場は、昔一度だけ」
歌劇場のボックス席で殿下と並んで座り、観客で埋まっていく劇場のあちこちを、キョロキョロと見下ろしていると、隣から殿下が尋ねてきたので、わたしは記憶をたどる。
まだ両親が生きているとき、聖誕節の子供向けバレエ公演は見に行ったことがあった。母が病いに倒れる直前だったから、わたしが十二歳の時だ。その時は確か一階席で、ボックス席ではなかった。……上から見るとずいぶん、印象が違う。
ボックス席は真っ赤な天鵞絨で覆われ、隣席は見えないし、正面なので周囲から覗けない位置だ。
「俺も五年ぶりだ。――前来た時はとにかく退屈だった記憶しかない」
殿下が窓の外を覗きながら言う。
「戦争中はときどき、王都から慰問団が来たけどな。本式の歌劇じゃなくて、アリアを歌うくらいの奴だけど。……歌劇なんて退屈だと思っていたけど、あのアリアだけはよかった。今日の演目はその曲が入っているから」
わたしはパンフレットを捲る。演目は――。
「『王女の帰還』。……国を奪われた王女が、紆余曲折の末に国と玉座を取り戻す話だ」
「へえ……勇ましい王女さまですのね」
何気なく言ったわたしの手首を、不意に殿下が掴む。
「エルシー。……お前は、リンドホルムの領地を取り戻したいと、思わないのか?」
突然のことにただ息を呑む。
「ええ?……まさか、そんな……」
「でも、弟が死んだせいで故郷を追われた。悔しくないのか?」
まっすぐ金色の瞳で見つめられて、わたしはびっくりして瞬きする。
「え……だって、法律だから仕方ないでしょう? おばあ様は、ご不満のようですが、わたしは……」
睫毛を伏せ、何となく、殿下から視線を逸らせる。
「女だからしょうがありません。……帰りたいと、思わないでもないですが」
実のところ、爵位については仕方がないと思っていた。ただ、あの城どころか領地にもいられなくなったこと、経済的な厳しさは予想をはるかに超えた。
……父の従兄、つまり、新たなリンドホルム伯爵及びその家族と、祖母の折り合いが非常に悪くて、あの城で過ごすことができなかったせいだ。
「それに、王都で仕事をしている今の状態は、別に嫌ではありません。働いてお給金を貰うのは、とても楽しいです。……貴族の娘として土地と領民に寄生して暮らすより、ずっと」
殿下は一瞬、金色の瞳を丸くしたが、ふっと力を抜いて言った。
「……そうか……」
開演の鐘が鳴り、劇場の灯りが落ち、舞台の幕が上がっても、殿下はわたしの手首を離そうとしなかった。




