13、奪われた唇
たとえ全てを失っても、わたしの心はわたしだけのもの
あなたを愛している いつまでもあなただけを――
プリマドンナのソプラノが、朗々とアリアを響かせる。
生まれて初めて見るオペラに、気づけばわたしは夢中になっていた。
狡猾な宰相に両親を殺され、国を奪われた王女が護衛騎士の手引きで密かに脱出し、男装して力を蓄え、ついに国と王位を取り戻す。最後の戦いに出る直前、常に彼女を支え続けた騎士へ、王女が永遠の愛を歌ったものだ。
勇ましい鎧姿でアリアを歌い切ったプリマドンナに、満場の拍手喝采が沸き起こる。わたしも手が痛くなるほど拍手していた時――不意に、強引に背後に引き寄せられ、ボックスの外から見えない場所で、誰かの堅い身体に抱きしめられる。
すっかり忘れていたけど、殿下と二人きりだった!
でもなんで! いったい何を――。
うなじを殿下の大きな手で押さえられ、暗がりで殿下の熱い息を感じたと思ったら、次の瞬間に唇を塞がれる。あまりのことにびっくりし過ぎて、抵抗すらできない。そのまま硬直するわたしを、殿下の唇がさらに深く奪ってくる。
それほど、長い時間ではなかったはず。だが劇場の喧騒も何もかも、わたしの中の音が消え、凍り付いたような時間が続く。
次の音楽が始まって、殿下の唇が一瞬、離れる。
「でん――」
「エルシー……」
狭いボックス席の、それも暗闇の中で殿下を振り払うこともできず、もう一度口づけられる。
何が起きているのか理解できず、なすがままに唇を貪られ続け、どれほどの時間が過ぎたのか。ようやく脳が動き始めて、わたしは殿下の胸をそっと押した。
「……これも、業務の一環なんですか?」
殿下がぐっと詰まったような間があったけれど、すぐに耳元で囁いた。
「……そうだ。抵抗は許さない」
そうして、もう一度塞がれて――。
後から思えば、この時、ちゃんと抵抗しておくべきだったのだ。わたしはそんな女じゃないと、全身全霊で訴えておくべきだったのに。
殿下のキスは、毒だ。
その口づけの甘さに脳が痺れたようになっていたわたしは、殿下を拒むことができなかった。
そのまま、その毒に犯されて、蜘蛛の糸に絡め取られるように、わたしは彼から逃げることができなくなってしまった。
この瞬間に、身分も何もかも釣り合わない、不毛な恋に囚われてしまったのかも――。
その後のオペラはまるで頭に入らなかった。カーテンコールも終わり、茫然としたままわたしは殿下に腰を抱かれ、来た時と同様、王族専用階段から外に出て、馬車に乗せられた。――幸いにも誰にも見られなかった、と思う。
さすがの鈍いわたしも、いろいろとおかしいと思い始めていた。
殿下はいったい、何を考えているのか。わたしを、どうするつもりなのか。
「今日のアリアも、なかなかよかったな」
馬車の中で、わたしの肩を抱いたまま、殿下は満足そうに言うが、後半、ほとんど頭が真っ白だったわたしは、何とも返答のしようがない。
「……初めてなので、よくわかりません……」
「気に入ったか?」
「……いえ……」
それよりも早く家に帰りたかった。耳もとで揺れるダイヤモンドが重い。
「今日、予約した店のシェフは隣国で修業して、美味いと評判だ。エルシーは魚介も好きだろう?」
最近は、魚介を冷凍して、新鮮なまま王都まで運ぶ技術ができたらしい。そんな話を聞いても、わたしはピンとこない。何より、さっきのキスのせいで、わたしの中の不安が大きく膨れ上がっていた。
「殿下、わたしは――」
上機嫌で話していた殿下が、喋るのをやめてわたしをじっと見た。
「なんだ?」
「……どうして、あんなことを――」
あんなこと、と言われて、殿下はようやく、わたしが屈託している理由に気づいたらしい。
「……どうしてって……それは……秘書官の業務だ」
「これが?」
抱き寄せられて抵抗しようとした、その耳元で、殿下が囁く。
「言ったはずだ。業務は多岐にわたると。……すべては俺の一存で決まる。俺が、キスしたいと思ったからだ」
「横暴過ぎます!」
殿下は長い指でわたしの顎を捉え、顔を上向けさせる。
「嫌か?」
「嫌に決まってます!」
「……気が強いな」
睨みつけてやると、殿下は困ったように眉尻を下げ、わたしをじっと見た。
「そんなに嫌がっているようには見えなかったが。嫌なら、お前はもっと暴れるだろう? だから俺は、満更でもないのかと……」
「驚いただけです! それに、あんなところで騒げないし……」
わたしは強弁したが、殿下は爪を立てる子猫かなにかをいなすような表情で、首を傾げている。
「まさか、あんなところで……初めてだったから、びっくりして……」
「そうか、初めてか……」
わたしがこれでもかと睨みつけているのに、殿下は心なしか嬉しそうに微笑んで、子供の癇癪を宥めるようにポンポンと背中を撫でてくる。
「それは悪かった。急にキスしたくなったんだから、しょうがないだろう。美味いものを食って、機嫌を直せ。デザートにチョコレートケーキを追加してやるから」
「食事は結構ですから、帰ります!」
「仕事を途中で放りだすのか?」
「これのどこが仕事ですか! 遊んでるだけじゃないですか!」
今日だって、書類仕事を中途半端なまま放り出してきたのだ。オペラは楽しくないわけじゃないが、これが仕事だと言われても納得できるわけがない。
「立派な業務だぞ?……お前は王子の秘書官なんだから、俺の楽しみに奉仕して当然だ」
「……楽しみに奉仕って……それが仕事?」
「当たり前だろ。王子の安全を守りながら、王子の楽しみをサポートするのが秘書官の仕事だ」
「安全?」
意味がわからなくて、わたしが眉を顰めて見上げれば、殿下がにやりと笑った。
「俺が妙な女に引っかからないように、お前はちゃんと俺のご機嫌をとるべきだ」
「はあ?」
「俺がお前につれなくされて、いじけてどっかの娼館にしけこんで、おかしな病気でももらってきたら、大事だぞ?」
「おかしな病気? 最近、流行り病なんて、特には……」
どういうことよ?
「病気はめちゃくちゃ流行ってるぞ。戦地は特に酷くて。娼館なんて、病気持ちばかりだから、絶対に行くな、ってロベルトにもしつこく釘を刺されてた。……その点、お前は男を知らないから、病気の心配はないしな……ってお前、俺の言ってる意味がわかってないだろ?」
いかにもおかしそうに言われて、わたしは思わずムッとして眉間に皺を寄せる。
「……戦地でも王都でも、何か病気が流行っていて、殿下の感染を防ぐために、わたしは殿下の楽しみをサポートすべきであると。要するにそういうことなんですよね?」
「まあ、要するにそういうことなんだが、具体的に期待されている業務の内容について、お前は理解しているように見えない」
「それは……」
たしかに、要するに何をすべきなのか、さっぱりわからないわけで、わたしは反論できなかった。
「で、ですがっ……具体的な業務内容については、週明けにでもクルツ主任に問い合わせて――」
「だーあああ、ダメ! クルツは陸軍の事務官だから、管轄外!」
「じゃあ、ロベルトさんに……」
言い争ううちに、殿下がわたしをがっちりと捕まえて、至近距離に顔を寄せて言った。
「ロベルトに聞く必要なんかない。俺とオペラに行って、俺と飯を食って、俺とキスをする。……キス以上のことは今日はしないが、いずれ俺が教えてやる。余計なことを余計な場所で、余計な奴に喋るな。守秘義務については最初に説明しただろう?」
「でも……!」
わたしの反論は、殿下の強引なキスによって封じられてしまった。
「あ……」
殿下が真正面からわたしを見る。ギラギラした金色の瞳に、わたしが映っていた。
「今のも、嫌か? 嫌なら、抵抗してもよかったんだぞ? それほど突然でもなかったし、馬車の中だから少しぐらい大声出したってよかった」
「それは……」
わたしは、抵抗できなかった。
彼が王子で、わたしが秘書官だから?
抵抗してクビになったら、収入が途絶えてしまうから?
わたしは――
黙り込んだわたしの耳元で、殿下が囁いた。
「お前は何も、気にしなくていい。キスは、俺がしたいからしてる。オペラは業務で、キスはその付属業務だ。俺の要求に応えるのも、お前の仕事だろ」
結局、わたしは何も言えないまま、その夜もご馳走を食べて家まで送ってもらった。
これではどう見ても、ただのデートだ。
着飾って、オペラを見て、高級レストランで食事をして――。
殿下と過ごすのが嫌なわけではない。多少横暴だけど、立ち居振る舞いも紳士的で会話も楽しい。傍から見たらただの恋人同士にしか見えないだろう。
でも、わたしたちの間には厳然たる身分差があって、そして、これはあくまでも業務で――。
こんなの、絶対によくない。よくないとわかっているのに、ジリジリと外掘りを埋められていくような、見えない蜘蛛の糸に絡めとられていくような、そんな気配にわたしはとてつもない不安を感じ始めていた。




