26、フィリップ殿下
結論から言えば、王妃と王太子妃を警察に拘束させる、なんてことにはならなかった。
そこはさすが、第三王子アルバート殿下付きの侍従官、カーティス大尉が機転を利かせ、護衛の身分を明かすことで事態を収拾した。
「でも、お嬢様を襲おうとしたんですよ! 誰だか知らないけど! 何だって、こんな人たちを庇うんです!」
「もう、いいのよ、ハンナ。誰だか知らない人に襲われて怖かったけど、幸い怪我もなかったし。老婦人がこれ以上襲ってこなければ、わたしはいいわ。でも、本当に誰だか知らない人が突然、熱い紅茶を投げつけてきて、怖かったわ!」
「アルティニアから出てきて、こんな恐ろしい目に遭うなんて!」
「外国人のあなたには怖い思いをさせたわね!」
「きゃん! きゃん!」
わたしとハンナは終始、王妃も王太子妃も知らない、という態度を取り続けた。知らない老婦人たちに踏み込まれたから、警察に駆け込んだ。当然のことでしょ。
だから、老婦人が本当に王妃だと知らされた、警察官は顔面蒼白になる。
「あらやだ、殿下のお母様だったなんて。てっきり強盗だとばっかり」
「だって名前を名乗らないんですもの、当然です! それにお嬢様に紅茶を投げつけたのは間違いないんです! もし、まともに被っていたら大火傷を負っていたんですよ!」
ハンナはわたしを抱き締めながら、周囲の男たちを見回して言った。
「身分ある相手だからって、見ているだけだなんて。ランデルの男ってホント、役立たずね!」
「ハンナ、それ以上は――」
カーティス大尉もジュリアンも他の護衛たちも、王妃と王太子妃の身分に押され、彼女たちを追い返すこともできず、結果的に乱闘を引き起こしてしまった。
「ミス・エルスペス、ハンナの言う通りです。僕たちがあまりに無能で、無力でした。……アルバート殿下からはきっと、お叱りを蒙るに違いありませんが、まずはあなたにもお詫びします」
神妙に頭を下げるカーティス大尉の言葉に被せるように、黒服の護衛たちに守られるようにして、王妃が憎々し気に言った。
「詫びる必要などない! 貴族の端くれにある者が、そんな愛人風情に頭を下げるなんて、世も末だわ!……しかもわたくしの腕を捻るなど……処分は覚悟しておきなさい!」
「あなた自身がわたしに暴力を振るったことは、多くの証人と、新聞記者が写した証拠写真もあるわ。彼はわたしの身を守るために、犯罪者を拘束しただけよ! 盗人猛々しいわね!」
わたしが冷静に言えば、王妃は黒服の背後でいきり立った。
「わたくしを誰だと思っているの! わたくしは――」
「今までもったいぶって名乗らなかったクセに、逮捕されそうになって慌てて名乗るなんて、滑稽ね! あなたが誰であろうと、暴力行為の証拠は挙がっているの。大昔ならいざ知らず、この国が法治国家を謳っている以上、身分で犯罪が帳消しになったりしません!」
「な――この、この――」
警察と護衛たちとの間である程度のすり合わせが行われたころ、玄関の呼び鈴が鳴り、王宮からの迎えの者がやってきた。出迎えに出たヴァルターさんが、蒼白な表情で居間に連れてきたその人は――。
「殿下――」
「フィリップ?!」
背が高くガッチリした体つきのその人は、黒に近いこげ茶の髪に琥珀色の瞳をし、年齢は三十半ばほど。アルバート殿下ともよく似た容姿からも、すぐに誰だかわかった。――新聞で何度か、肖像は目にしたことのある、王太子フィリップ殿下がご自身で、母と妻とを迎えに来たのだ。
「あ、あなた……わ、わたくし……」
王太子妃殿下はオロオロと動揺し、王妃は生き返ったように笑みを浮かべる。
「フィリップ! ああ、見て頂戴、この惨状を! 王妃であるわたくしを犯罪者呼ばわりする、この下賤な女を捕らえ、すぐさま牢にぶち込んで頂戴!」
王太子殿下の登場にその場は一気に緊張する。――ただの強盗事件だと思って、ハンナに呼びつけられてきた警察官たちは、いずれも顔面蒼白だ。しかし、フィリップ殿下は厳しい表情で周囲を見回し、数瞬、わたしの上に視線を留めると、すぐに自分の母親を見て、冷たく言った。
「あなたにはご自分の部屋を出てはならないと、国王陛下が命じていたはずです。にもかかわらず、ブリジットまで巻き込んで、このような不祥事を起こすなんて! ご自身の立場を全く、理解しておられない。もう、これ以上は庇えない」
「フィリップ?! 何を言うの! わたくしはお前の母親よ!」
「ええ、逃れられない運命でね。……王宮に連れていけ!」
王太子殿下が背後の数人に命令すれば、フロックコートの男性数人が護衛に守られた王妃を取り囲む。
「お前たちはブリジットの護衛だな。王妃の外出が禁じられていたのを、知っていたはずだ」
「申し訳ありません、しかし――妃殿下のご命令で……」
「どのみち、未然に止められなかった責任は、我々にある。先に母上を王宮に戻すが、お前たちはブリジットの護衛としてこの場に残るように」
王太子殿下が連れてきた男たちが、王妃とその付き添い婦人を連行するように連れて行き、妃殿下は茫然としたままその場に残る。
「フィリップ、どういうことなの?! フィリップ? お離し、わたくしを誰だと思っているの? お離しったら!」
連れ去られていく王妃がオーランド邸から出たのを確認して、王太子殿下は警察官に向き直る。
「……わが母は弟の長患いにより、精神に異常をきたした。王宮を出さないようにしていたのだが、監視をかいくぐって迷惑をかけた。警官諸氏には後ほど、改めて説明を行うが、今日のところはこれで引き取ってくれ。なお、このことは他言無用に」
王太子殿下に直々に頭を下げられ、警察間はお互い顔を見合わせる。指揮官と見える口髭を蓄えた警官が、びしりと敬礼して言った。
「承知いたしましました。それでは失礼します」
警官たちが去り、陶器の破片や紅茶の雫が散らばった居間を、ヴァルターさんとジュリアン、そしてハンナとで片付け、ヴァルターさんが改めてお茶を運んできた。わたしは一人掛けのソファに座り、ユールを膝に抱いて柔らかな毛を撫でながら、それらの情景をボーっと眺めていた。
ふと気づいて、ハンナに尋ねる。
「シャーロット嬢はどうなさっているの?」
「ミス・パーマーなら隣の部屋にずっと――」
ジュリアンが気づいて、控えの間で震えていたシャーロット嬢を連れてきた。
「シャーリー、ごめんなさい! 一人っきりにしてしまって!」
シャーロット嬢の茶色い瞳は涙で腫れ、頬には涙の跡がはっきりあった。
「わたしこそ! ユールを止められなくて! でも出て行くのも恐ろしくて……あんな、あんな……わたし、自分が役立たずで死にたい……!」
「シャーリー、そんなことないわ!……彼女の分のお茶もあるかしら?」
シャーロット嬢を抱き締めて慰めていると、ゴホン、と咳払いの音がして、王太子殿下がわたしたちを見ていた。
「すまない、ええと、ミス・エルスペス・アシュバートン? ……申し訳ないのだが、少しだけ話をさせてもらえるかな?」
居間の三人掛けのソファには、幽鬼のような青い顔で座る王太子妃殿下と、王太子殿下が座っている。わたしはシャーロット嬢にユールを預け、言った。
「食堂でお茶を飲んでいらして。また後でゆっくり――」




