24、雪の女王
その夜、かなり遅くにカーティス大尉だけが、オーランド邸に戻ってきた。
「ジョージ殿下のご逝去で、国王陛下のお心が弱っていて……アルバート殿下をお離しにならないのです」
王妃と国王の関係は冷え切り、晩餐さえも共にすることがなく、王太子殿下は雑務に追われ、王太子妃のブリジット殿下は王妃陛下につききりだと言う。
「殿下はミス・エルスペスのことをとても気にして、メッセージをことづかってきました」
白いカードに一言、「愛してる R」と走り書きされたメッセージを、わたしは手の中に握りしめる。
カーティス大尉は、少しだけ躊躇ってから、言った。
「聖アウグスト大聖堂での葬儀の時に、王妃陛下は特に、後ろの席にいたステファニー嬢を呼び出し、アルバート殿下の隣に並ぶようにお命じになった。形の上では婚約者としての扱いで、明日はそういう写真が新聞に出ると思います。その後、殿下はステファニー嬢のエスコートを拒否なさった。それで――」
カーティス大尉の表情が曇る。
「ステファニー以外の妃など認めない、これが昔からの国王陛下との約束だ、と王妃陛下が仰って、殿下が《ならば継承権は放棄する》と。その場は騒然となり、首相のウォルシンガム卿とマールバラ公爵が間に入り、とにかく有耶無耶のまま葬儀は終わりましたが――」
カーティス大尉の言葉に、わたしは尋ねる。
「ステファニー嬢はなんと?」
「僕の目から見ても、気丈にしていらっしゃいますね。後で、〈バーティが誰を愛していても、正妻としての務めは果たすつもりだ〉と、王妃陛下に言ったそうで、殿下の頑なな態度が批判されています」
異議申し立てがなされているとはいえ、議会が承認した正式な婚約者であるステファニー嬢をあくまで拒絶し、王位継承権の放棄も辞さないという殿下の態度は、王族の立場を弁えていないと、批判を集めつつあると言う。
「保守派の貴族の間では、議会に殿下を喚問すべきだなどと――」
「そんなことが……」
議会に王族を喚問するなんて、聞いたことはなかった。――どう考えても、名誉なことではない。
「……とにかく葬儀が終わったのなら、明日にはお戻りになるかしら?」
「ええ、殿下はそのつもりにしていらっしゃいます」
そうして、その夜も明けた。
翌日も、細かい雪が降り続いて、寒い日だった。
午後、ユールが鞠で遊ぶのを眺めながら、シャーロット嬢と二人、刺繍をしながらたわいもない話をしていると、玄関の方から騒がしい声がした。
「何かしら……?」
ユールが鞠をうっちゃって、グルグル……と威嚇を始める。そっと様子を見に行ったハンナが、戻ってきて耳元で、そしてシュルフト語で言う。
『どうやら、王太子妃と王妃が来たようです。身分を明かさないけれど、ヴァルターさんもカーティス大尉も身分に遠慮して、追い払うことができないようです』
シャーロット嬢はシュルフト語がそこまで達者ではないらしく、咄嗟に理解できずに首を傾げている。
『そもそも、いったい何しにいらっしゃったの?』
『アシュバートン家の女に用があると。卑しい女を王子妃になど認められないと、仰っているようです』
淡々と告げるハンナも、普段より表情は硬い。
わたしは数日前の、殿下の言葉を思い出す。
――雪の女王が王都に戻ってきた。俺を殺すために、国さえ売ろうとした、女が。
わたしは一瞬だけ目を閉じ、目を開けるとハンナに言った。
『王妃は身分を明らかにしてはいないのね? ならば――』
わたしの指示を聞いたハンナは茶色い目を見開くが、すぐに大きく頷いた。
やがて、黒いフロックコートの男数人に守られるように、身なりのいい女性が四人、居間に入ってきた。それから、ジュリアンとカーティス大尉と、この邸の護衛が三人ほど。……数では敵わない。殿下が不在の今、多くの護衛を平民のわたしにつけるわけにいかない。
わたしは「きゃん、きゃん」とけたたましく吠えているユールを抱きあげると、シャーロット嬢に渡して言う。
「この子を連れて下がっていて。あなたに用はないはずだから」
わたしは立ちあがって、入ってきた女性たちに対峙した。――ローズを殺した、雪の女王に。
入ってきたのは小柄な、老境に差し掛かった婦人だった。黒いドレスに黒いショールを羽織り、黒いボンネットを被っている。――今時珍しいバッスル・スカートというか、はっきり言えば時代遅れの服装だ。でも祖母もそうだったように、ある程度以上の年代の人の中には、頑として流行の服装を拒否する人がいる。黒いボンネットの内側、綺麗に化粧した顔の周囲を飾る髪は、若い頃は豪奢な金髪だったと思われるけれど、今は色が抜けて銀というよりは白かった。
皺の刻まれた表情は厳しく、青い瞳には軽蔑の色がありありと現れて、わたしをまっすぐに射抜く。
「どちら様でしょうか?」
問いかける自分の声が震えていないことに、わたしは少しだけホッとする。別に怖がる必要はない。わたしは何も悪いことはしていない。
「アルバートが身分の賤しい女を連れ込んでいるのは、本当だったのね。汚らわしいこと」
わたしは居間に入ってきた人々を見回して、もう一度尋ねる。
「どちら様ですか?」
黒いボンネットの老婦人の隣には、三十半ばと思われる上品な夫人。やはり黒いショールに黒いドレスだが、背後のバッスルもなく、現代的なシルエット。金茶色の髪を結って、黒いヴェールのついたトーク帽を被っている。それぞれお付きと思われる、中年女性が背後についている。彼女たちもみな、喪服姿だった。
わたしはその日、ジョージ殿下の葬儀が終わったことを受けて、喪服は脱いでいた。飾りの少ない白いブラウスの上に、チャコールグレーのカーディガン。スカートは濃いグレー地のチェック。室内のことで、髪はコテで巻いてウェーブを整えただけで、結っていない。
わたしが三十半ばの女性をまっすぐに見れば、彼女は困ったように、ボンネットの女性に目を遣る。その女性が名乗らない以上、自分は名乗れないとでも言うように。
「お前のような無礼で下賤な女に、名乗る名などないわ」
ボンネットの女性の、侮蔑感たっぷりな時代がかったセリフに、わたしはつい、吹き出しそうになる。突然やってきて暴言を吐いている方が、よっぽど無礼だと思ってしまったから。
わたしの態度が気に入らないのか、ボンネットの女性の背後の、お付きの人が喰ってかかる。
「無礼な! このお方をどなたと心得る!」
「お名前をお尋ねしましたのに、名乗るのを拒否なさったのはそちらです。わたしは千里眼の才能はありませんもの、どなたかわかるわけないわ?……あなたのご主人様が名乗るつもりはないと仰ったのよ? お付きの人のあなたが勝手に名乗ってよろしいの?」
もうわたしには、この前世紀の遺物のような人々を、からかう余裕まで生まれていた。だって、セリフからして滑稽だもの。
何をしに来たのか知らないが、老齢の方を立たせたままにしておくのも気が引けたので、わたしはソファーを勧めてみる。
「お座りになります? 立ったままではお疲れになりますでしょ。……ってわたしの家じゃありませんけど」
お付きの二人と、やや若い夫人が、老婦人を気遣うように見る。
「お年を召した方を立たせたままにしてはいけないと、祖母からも言われておりますの。どうぞ、お座りになってください」
わたしが改めて言えば、三十半ばほどの上品な夫人が、老婦人に恐る恐る言う。
「お、お義母さま、お言葉に甘えては……」
「そなたの指図は受けぬ!」
「じゃあ、立ったままでどうぞ。好きになさって」
からかわれているのに気づいたのだろう、老婦人がギロリと、ボンネットの下から睨みつけるけれど、わたしは笑って受け流した。
「他の方々はどうぞ、お座りになって。……護衛の方たちはもう少し下っていただけるかしら。邪魔だわ」




