12、デイジーの思惑
化粧室から戻ると、殿下は席にいなかった。カーティス大尉が言う。
「デイジーが来て、ヴァイオレット夫人が呼んでいると言って、あちらに――」
「ヴァイオレット夫人が?」
それほど親しい風でもなかったのにと、わたしは首を傾げる。
「デイジーは、この夜会で演奏する令嬢たちの取りまとめを、ヴァイオレット夫人から頼まれているそうなんです。シャーロットにもピアノを、と言われたそうですが……」
シャーロットは慌てて首を振る。
「わたしなんて、とんでもないです……こんなところで、人前で弾くなんて……」
「そうよね、わたしも人前で弾いたことなんてないわ」
それどころか、他人の演奏を聴いたこともほとんどない。田舎育ちというのは、つくづく不利だ。
休憩が終わっても殿下は帰って来ない。演奏が始まり、わたしの隣の席は不在のまま。愛人をわざわざ連れてきたのに、その愛人をほったらかしにするなんて、晒しあげもいいところだ。空いた席に周囲の注目が集まり、曲の合間にヒソヒソと囁かれる。
カーティス大尉が落ち着きなく周囲を見回し、シャーロット嬢が青ざめて下を向く。休憩が終わった時点で、ヴァイオレット夫人はちゃんと戻ってきて、席についている。――ミセス・デイジーが嘘を言って、殿下を呼び出したってこと? 二人で何をしているわけ?
次の休憩にようやく戻ってきた殿下は、どこか不機嫌そうだった。
「この休憩は時間が長いらしい。あっちの部屋で軽食が摂れる。エルシー、少し話がある。ジョナサンたちも」
わたしたちが殿下に近づく前に、殿下の周囲に人垣ができてしまう。砂糖に群がる蟻のように、会場の若いご令嬢たちが、王子様に群がるのだ。
普段、王宮の公式な夜会では、王子殿下に直接言葉をかけるなんて許されないが、今日は個人宅の私的な催し。アルバート殿下も一私人として、お忍びの参加だ。護衛はつくけれど、堅苦しいキマリはなくて、身分を乗り越えて殿下とお話ができる。――だから殿下も、愛人のわたしをパートナーに連れて来られたのだけど。
戦争の英雄でもあるアルバート殿下の美しい容姿にのぼせ上った令嬢たちが、せめて一声と殺到する。その中には、さっきすれ違いざまにわたしを「泥棒猫」と罵った、濃い青色のドレスと、深緑色のドレスの令嬢もいて、わたしは呆れた。人 人のことを「泥棒猫」だのなんだの言いながら、自分だって婚約者のいる殿下に群がっているではないの。
「アルバート殿下、ご挨拶を――」
「殿下、わたくし――」
「失礼、そこを開けてもらえるかな」
殿下は金色の瞳で周囲を睥睨して、令嬢たちの間からわたしに手を伸ばす。
「そこ、通してくれないか。俺の連れなんだ」
ところが、殿下がわたしの手を掴む前に深緑色のドレスの令嬢が突進し、わたしは突き飛ばされてバランスを崩す。
「あぶない、エルシー!」
倒れ込みそうになったわたしをカーティス大尉が抱き留め、その勢いで別の、ワインカラーのドレスを着た令嬢が尻もちをつく。
「きゃあ!」
「下がれと言っているのが、聞こえないのか! エルシー! 大丈夫か?」
殿下が慌ててわたしの側に駆け寄り、わたしを突き飛ばした令嬢を睨みつける。
「……わたしは大丈夫です、それより――」
わたしは尻もちをついてしまったご令嬢を気にするが、彼女はカーティス大尉が助け起こしてくれた。深緑色のご令嬢の父親らしき男性が走り寄ってきて、殿下に頭を下げる。
「申し訳ございません、殿下にご無礼を――」
「気をつけてくれ。みだりに俺の身体に触れることは許していない」
殿下が父子にきつく注意して、わたしの腰を抱くように隣室へと向かった。
隣室に用意されたビュッフェ形式の軽食。アルバート殿下は空いた四人席にわたしを座らせ、料理を取りに行こうとする。
「待ってください殿下、料理なら僕が――」
「お前はシャーロット嬢の料理を取るんだよ。俺のじゃなくて」
殿下がカーティス大尉を窘める。見れば、シャーロット嬢は茫然と突っ立ったままだ。わたしは正面の椅子にシャーロット嬢を誘う。
「こういう場所では、殿方に料理を取っていただくものなんですってね。シャーロット嬢もカーティス大尉にお任せして、お座りになったら?」
「で、で、でも……」
おろおろする彼女を余所に、殿下はさっさと料理を選び始める。
「ジョナサン、休憩時間はそんなにない。早くしろ」
不機嫌そのものの殿下に急かされ、カーティス大尉はシャーロット嬢に座るように指図し、慌てて料理を取りに行く。わたしはその間に、テーブルに備え付けの取り皿とカトラリーを人数分並べる。
やがて、殿下とカーティス大尉が料理の乗った皿を持ってきた。給仕がワインのグラスを運んできて、簡単な食事を摂る。サンドイッチや一口パイ、カナッペ、ハム、チーズ、野菜の盛り合わせ。
カーティス大尉が殿下に言う。
「大変な騒ぎになりましたね」
「まったくだな。昔から、王子ってだけで寄ってくる女はいたが、ここまでじゃなかったのに」
肩を竦める殿下にわたしは心底感心して言う。
「あんなにおモテになるなんて、びっくりですわ」
殿下は不快そうに眉間に皺を寄せる。
「どうも、今まではステファニーに遠慮していたらしいな」
「エスコートの相手が愛人のわたしなら、遠慮する必要はない、と思ったのかしら?」
わたしが首を傾げれば、カーティス大尉がその場を取り繕う。
「戦争が終わって、戦地から若い男たちが戻ってきて、今、社交界は相手探しですごいんです。不幸にも婚約者に死なれてしまったご令嬢や、生きて戻ってきたものの、離れていた間にお互いすれ違ってぎくしゃくして、婚約を解消することになったり。結構、組み換えも起きていて。現に、殿下もそうですから、あわよくば殿下に見初められて……と考える令嬢がいても不思議じゃありません」
「……俺はステファニーとの婚約は白紙に戻していたんだぞ? 勝手に心変わりだと決めつけやがって」
殿下は憮然として、ワインを呷り、さらに言った。
「それにしたって、あんなのは初めてだ。……昔はもうちょっと節度あるというか、ステファニーにバレないようにこっそり、声をかけてくる感じだったんだが」
もしかして、ステファニー嬢の目を盗んで、女性と逢うこともあったのかも。殿下とステファニー嬢の年齢差を考えれば、あり得ない話ではない。……だいたい、殿下は女性の扱いに妙に手慣れているし。
今まであまり考えたことのなかった、殿下の過去の女性関係にわたしが思いを馳せていると、殿下が言う。
「さっき、あの年増女から面白い話を聞いたぞ? 何だと思う?」
「年増女? もしかして、ミセス・デイジー?」
わたしが尋ねれば、殿下は笑顔を作っていたが、目は笑っていない。そしてとてつもなく不機嫌そう。
「デイジーが、何を言ったのです?」
カーティス大尉の問いに、殿下が吐き捨てるように言った。
「〈シャーロットが気にしている。ジョナサンと、ミス・アシュバートンがただならぬ仲だと〉」
「えええ?」
カーティス大尉とわたし、そしてシャーロット嬢も絶句する。
「……たしかに、聖誕節の買い物に護衛として付き添い、その時にドロシーとシャーロットに会いましたが――」
「シャーロットはお前たち二人の仲を誤解して、故郷に帰ると言ったのだったな?」
「はい。……ですが、誤解はすぐに解けました」
カーティス大尉が慌てて弁明し、シャーロット嬢も真っ青になって、必死に頷く。
「その話を、デイジーは何故知っている?」
「……ああ、それは、聖誕節に家族・親族で集まった中にデイジーもいて……ドロシーが何やら面白可笑しく喋っていて、殿下に関することは喋るなと、僕が釘を刺したのですが……」
全てを喋らなくても、カンのいいミセス・デイジーはシャーロットの誤解を察したのだろう。
「申し訳ありません! 妹がとんだ――」
「それはいい。都会に慣れない小娘が、護衛と護衛対象の仲を勘違いするなんて、よくあることだ。問題は、あの女、それをネタにエルシーを中傷し、俺に迫ってきやがった」
「まさか? デイジーが?!」
殿下は不愉快そうに、一口大のチーズタルトを口に放り込む。
「ミス・エルスペスはとても美しいが、彼女は昔から、男を惹きつける魔性で、ジョナサンもその魅力に囚われているんだろう、なんて言いながら、俺にしなだれかかってきやがった。気色悪い!」




