10、音楽会
マールバラ公爵邸の音楽会。夜七時開始に合わせ、わたしたちは六時半には公爵邸の門をくぐった。
王都の中心部を外れた高級住宅街。先代国王の王弟殿下であった、初代のマールバラ公爵に賜与された邸は、周辺でも随一の豪華さと広さを誇る。十分なスペースがあるはずの車寄せは、しかし、招待客の馬車でごったがえしていた。
夜の第一正装であるテールコートに、冬の寒さを防ぐための毛皮のついたオーバーコートを纏ったアルバート殿下が馬車を降りれば、すぐに金釦のついたお仕着せを着た従僕が駆け寄ってくる。
従僕の先導で玄関に入り、コートと帽子、ステッキを預けたところに、この家の執事らしき壮年の男性が挨拶に来た。
「これはアルバート殿下、お待ちしておりました」
「オズワルド小父様と、奥方にご挨拶を」
「はい、こちらでございます」
周囲の招待客よりも殿下が優先なのは、本日の客の中で殿下の身分が最も高いから。わたしは殿下のエスコートで、赤い絨毯の上をゆっくりと歩く。今日は黒い東洋の絹に、鴛鴦の刺繍の入ったイブニング。――以前、ビルツホルンの大使館の晩餐会では黒の長手袋を着用したけれど、今日はオーガンジーの、蝶のようなふわりとした袖のボレロを羽織った。左手の薬指の、サファイアの指輪を強調するためだ。殿下も黒い上着の襟元に、父の形見のサファイアのタイピンを刺し、二人の関係をさりげなく示している。
シャンデリアの輝く広い大広間にわたしたちが入っていくと、先に来ていた招待客が一斉に注目した。
アルバート王子と、元のリンドホルム伯爵令嬢。――婚約者のレコンフィールド公爵令嬢を差し置き、爵位すら失った元・伯爵令嬢をエスコートする王子を、皆はどう、思うだろうか。
――ステファニー嬢じゃないのか。
――ほら、あれが愛人の。
――戦争から戻ったら、すっかり心変わりして。
――ステファニー嬢もお気の毒。
そんなヒソヒソ声が耳に届くけれど、わたしは聞こえないふりをして前を向く。
ホールの中央には、立派なグランド・ピアノが置かれ、演奏者用の椅子も数脚、並べられている。音楽をこよなく愛し、芸術の保護者でもあった、故ブラックウェル伯爵エセルバート・クリーヴランド卿を偲んで、毎年彼の誕生日である十二月三十日に、父・マールバラ公爵が音楽を愛でる夜会を開催しているのだ。
マールバラ公爵と令夫人がわたしたちを出迎える。
「やあ、アルバート。よく来てくれた。それからエルスペス嬢も。ビルツホルン以来だね」
「お久しぶり、アルバート殿下。ようこそ、我が家の夜会に。それから、はじめまして、ミス・エルスペス・アシュバートン」
「お招きありがとうございます、公爵閣下、ヴァイオレット夫人」
公爵夫人は銀髪を綺麗にまとめ、瞳と同じ色の濃い紫色のイブニングドレスに、アメジストの首飾り。内心はともかく、王子が連れてきた愛人にもにこやかだ。殿下はヴァイオレット夫人の手の甲に軽くキスをして、親愛の情を示す。
「殿下が無事にお戻りになって本当によかったわ。三年前、報せを聞いた時は、エセルバートの二の舞かと思って」
涙ぐむ夫人に、殿下がわたしを指し示す。
「……マックス・アシュバートン……彼女の父親が、盾になって俺を庇ってくれたのです。その代り、彼は――」
「ええ、アシュバートン卿のことは聞いていましてよ。本当に戦争は辛いわ。もう二度とないことを願うばかり」
「そのための講和条約ですからね。オズワルド小父様の活躍で、無事に締結できました」
給仕がさりげなく運んできた発泡ワインのグラスを、それぞれ手に取り、軽く乾杯する。
「今日はピアノと、チェロのプロの方に来ていただいているの。お素人の演奏も数曲。楽しんでいってね?」
「ええ、楽しみですよ、ヴァイオレットおば様」
わたしたちは案内された席に並んで座り、ワインで喉を潤しながら周囲を観察する。
「盛況な催しですのね。毎年、こんなに?」
「俺はブラックウェル伯爵が戦死した年に来ただけだが、その時はほとんどお通夜のようだった」
戦時中ということもあり、これまではもっと小規模だったらしい。
「今年は次男のゴードンが正式に継嗣として、ブラックウェル伯爵を名乗る、その披露目も兼ねている。後で挨拶に行かないといけないだろうな」
さっきは別の客に挨拶していたせいですれ違いになってしまった、マールバラ公爵の現在の嫡男を、殿下が視線で教えてくれる。少しぽっちゃりとした、人の良さそうな青年だった。
「バイオリンが得意で、玄人はだしだ。俺も一度だけ聞いたことがある」
「……へえ……」
そんな話をしていると、「殿下」と聞き慣れた声がした。振り向けば、ジョナサン・カーティス大尉と婚約者のシャーロット嬢だった。
「ああ、やっと見つかった。いないからどうしたかと思った」
「すみません、車寄せが混雑して、なかなか降りられなくて。……こちらが婚約者のミス・シャーロット・パーマーです」
シャーロット嬢が緊張の面持ちで頭を下げる。シャーロット嬢は茶色い髪を結い、紺のジョーゼットに白いレースと刺繍の花が散らされた、可憐なイブニングドレス。ハイウエストでちょうちん袖に、白いリボンがついている。
「ああ、よろしく。アルバートだ。こちらはミス・エルスペス・アシュバートン」
「以前、お会いしたことがありますの。申し上げましたでしょ?」
「そうだったか? ああ、口の悪い妹がいると言っていたな。今日は妹は留守番か」
「妹はおとなしく音楽を聴いていられる性格ではありませんので」
カーティス大尉が苦笑する。
「それに今日は、シャーロットの実家パーマー家の縁での招待なので、カーティス家の者が大挙して押し寄せるわけにまいりません」
グレンフィリック子爵であるパーマー家は、ヴァイオレット夫人の実家、ミドルトン侯爵家の分家筋にあたる。その縁で毎年招待状が来るのだが、普段、この時期は領地で過ごすので、王都に住む未亡人の従姉が出向くだけなのだと言う。
「その従姉がデイジー・フランク、旧姓デイジー・ミルドレッド、シャーロットの父の姉の娘になります」
カーティス大尉がシャーロット嬢の背後に控えていた、妖艶な美女を紹介する。赤い唇の脇のホクロが妙に色っぽい。
「はじめまして、アルバート殿下。デイジー・フランクでございます」
人によっては赤と表現するであろう、鮮やかな金髪に青い瞳。髪は電気ごてで巻いて夜会巻きにして、耳元にダイヤのイヤリングが揺れる。濃いグレイのイブニングドレスの胸元は大胆に開いていて、殿下に向かって会釈すると胸の谷間が強調される。
「ああ、はじめまして」
殿下が素っ気なく挨拶すると、ミセス・デイジーは何とも言えない色を孕んだ目で殿下を見ている。
「感激ですわ。戦争の英雄とこんなところでお逢いできるなんて」
「別に英雄じゃない」
「そちらの方が、噂の恋人? ――従妹のシャーロットがお世話になったそうで」
ミセス・デイジーがわたしに向けて挨拶してきたので、わたしも普通に礼を返す。わたしの左手のサファイアを見て、一瞬、目を見開いた。
「いえ。こちらこそ、いつもカーティス大尉にはお世話になります。百貨店で偶然会っただけですわ」
「シャーロットは引っ込み事案で、いつも緊張のあまり、失敗してしまうのですわ。普段はそんなことないのに。田舎暮らしに慣れてしまって、王都に出てくるのを嫌がるからですわ。ねぇ、シャーロット?」
猫なで声、というのだろうか。甘いのに毒を含んだような声で、呼びかけられたシャーロット嬢が、とたんに緊張して固くなったのがわかる。
「今日も、シャーロットには不慣れな夜会でしょう? 何か失敗をしたらと思うと、居てもたってもいられなくて……ほんと、昔からシャーロットは物慣れない子なんですのよ」
「殿下がこちらに招待を受けたと聞いて、パーマー家に招待状が来ているか問い合わせて、混ぜてもらうことにしたんです。シャーロットと出掛けるいい機会でしたし。デイジーは、ヴァイオレット夫人の親族として、会の裏方にも関わっているんです。今回はシャーロットが心配だと言い張るので、ここまでついてきてもらったのですが」
デイジーの言葉に、カーティス大尉も何気なく相槌をうち、シャーロット嬢は青ざめて、今にも震え出しそうだ。
……まるで呪いみたい、とわたしは思う。この子は緊張のあまり、失敗をする、心配だわ、と言われ続け、いざ失敗すると、ほら、やっぱりと言われる。失敗をするように刷り込まれているようなものだ。でも周囲は、失敗ばかりするシャーロット嬢には、面倒を見てくれるデイジーが必要だと、ますますシャーロット嬢を追い詰めていく。
わたしはカーティス大尉を見た。
――ミセス・デイジーは、カーティス大尉の亡き兄の婚約者だったという。その後、デイジーは王都のフランク氏と結婚したが夫には死に別れ、カーティス大尉はシャーロット嬢と婚約した。
見たところ、ミセス・デイジーはカーティス大尉と同じ年頃か、数歳上くらいだろう。結婚できない年齢差ではない。三十前後になっても輝くように美しく、色香に溢れたデイジーに比べ、年下の従妹のシャーロットはほんの子供で、鼻の頭にはそばかすまで浮いて、はっきり言えば、地味だ。自信のなさが身の内から溢れ出ているし、実際、カチコチに緊張している。
……カーティス大尉は気配りのできる人だと思っていたのに、デイジーとシャーロットの微妙な関係に、どうして気づかないのかしら。




