9、身体の傷と心の傷
結局、礼拝堂には寄らずにまっすぐにアパートメントに戻ったわたしたちは、なんとなく気まずいまま過ごす。ただ、しばらくお留守番をさせられたユールだけが、戻ってきたわたしたちの周りを嬉しそうに駆け回っている。
「……ユール、そんなに走り回っては足を痛めるわ。走るなら絨毯のある部屋になさい」
わたしが抱き上げると、ユールは「きゃんきゃん」と鳴きながらパタパタ尻尾を振る。
夕食後、暖炉の前のソファに不機嫌そうに座る殿下の隣に、ユールを抱いたわたしが腰を下ろすと、殿下はユールごとわたしを抱き寄せる。
「すまない。エルシー。俺が……」
「もしかして、ハートネルの言葉を気にしていらっしゃるの?」
「……あいつの言ったことは一部は本当のことだ。俺が手を出したせいでお前は愛人と蔑まれて、おばあ様は死んだ。俺にそのつもりはなくても、ステファニーとの婚約が進んでしまって……」
殿下が目を伏せ、チラチラ揺れる暖炉の火を見ながら言う。
「……今のお前の不幸はみんな、俺のせいみたいなもんだ……」
「でもわたし、ハートネルのことはもとから好きではなかったわ。今はあんなことを言っているけど、以前はわたしのことを、爵位も財産も持参金も可愛げもないって、言いたい放題だったわ。突然、掌を返されても、信じられるわけがない。あの人と結婚して幸せになったかなんて、わからないわよ」
殿下はわたしの顔をじっと見つめ、言った。
「でも、お前は俺のことだって、好きじゃなかっただろう」
「横暴でしたものね。……無理矢理、あちこち連れまわされて……」
「リジーの記憶を思いださなかったら、今でも嫌いだったんじゃないか?」
わたしはユールのふかふかの腹毛を撫でながら微笑む。
「……わたし、別に殿下と出かけるの自体は嫌ではありませんでした。お出かけは楽しいし、殿下のお話しは面白かったし。ただ、身分違いだし、ステファニー嬢との婚約が決まっているのに、わたしをどうなさるおつもりかわからなくて、これ以上深入りしたくなかったの。……噂になって、傷つくのはわたしだけですもの」
高価なドレスや装身具を贈られ、豪華なディナーをご馳走になる。「業務だ」と言われて連れまわされるデート自体は楽しかったけれど、この後、捨てられる運命が明らかなだけに、わたしはその先に進むことを恐れた。「業務」だからと言われて逃げることも諦めていたけれど、本気で嫌なら、仕事を放り出して逃げることもできた。そうしなかったのはきっと、殿下のことが嫌いではなかったからだ。特に理由はなくても近づきたくなかった、ハートネルとは違う。
「俺は、ハートネルに奪われたくなかった。ハートネルと結婚した方が、エルシーの幸せだとわかっていても、どうしても、譲ることができなかった。俺は――」
腹毛を撫でられて、パタパタ動いていたユールの尻尾が、次第に静かになる。殿下の唇がわたしの唇に近づき、塞がれる。ユールが眠った規則正しい呼吸を感じながら、殿下のキスを受け入れる。
「……今夜は、抱きたい。いいか?」
耳元で熱っぽく聞かれて、わたしが思わず恥ずかしくて目を背ける。
「どうなさったの。……普段は了解も取らずに、強引になさるのに」
「無理矢理でもしたい。……でも本当は、お前から受け入れられたい。愛してる」
静かに頷くと、殿下はわたしの膝の上のユールをそっと抱き上げて、部屋の隅の犬用のベッドに運ぶ。ユールがよく眠っていることを確認して、殿下はわたしのもとに戻ると、今度はわたしを軽々と抱き上げた。
寝室も浴室も、すっかり夜の仕度が出来ていた。
明日の二十六日は使用人に休暇を与える日で、ジュリアンもアンナも仕事を休むため、簡単な朝食がすでにワゴンに乗せられて、清潔な布巾を被せてあった。
殿下はオーランド邸の使用人には昨日と今日に休暇を与え、明日は朝食後にオーランド邸に向かい、そちらで数日過す予定にしている。
三十日の夜には王都の、マールバラ公爵邸の夜会に招待されているが、それ以外の年末年始は、郊外のオーランド邸で、二人っきりで過そうと約束してくれた。
客観的にはただの愛人なのに、こんなに大事にされて、かえって怖いような気がする。
殿下はわたしを浴室に運び入れると洗面台に座らせ、綺麗に包装された贈り物を開くように、わたしの服を脱がせていく。黒いカーディガンを脱がし、黒い絹のブラウスの、ボタンを一つ一つ、外す。
「……明日からは、喪服はやめないか?」
「でも……せっかく買っていただいたのですから、勿体ないわ」
「まさか、そういう理由で喪服を着続けていたのか……」
おばあ様を亡くして、もうすぐ二か月になる。夫や父親で一年間くらい、それ以外の親族だと一月から三月くらい。祖母は唯一の身内だったから、三か月くらいは喪服で過ごしたかったけれど、働いている身ではそうもいかない。せめて年内は、と思っていたのだけれど。
「三十日の夜会はお前も一緒に来い」
「それは……」
いくら何でもまずいのでは……と思うが、殿下はわたしのブラウスを剥ぎ取りなら続ける。
「三十日は、マールバラ公爵の、戦死した嫡男の誕生日なんだ。……毎年、その日に音楽会を開く。嫡男の、追悼の意を込めて。衣裳も地味で、割と湿っぽい会なんだ。俺のパートナーはお前だと、お披露目するにはちょうどいい」
先の大戦で戦死したマールバラ公爵の嫡男、ブラックウェル伯爵を偲ぶ会。アルバート殿下を庇って戦死した、マックス・アシュバートンの娘を伴えば、家族から戦死者を出した貴族や、戦死者に同情的な貴族階級の心情に訴えかけられる、と殿下は言う。
「エルシーの代襲相続が認められていない理不尽さを、貴族たちに訴えかけるいい、機会だ」
わたしは殿下のタイに手をかけ、それを緩め、シュルリと抜き取る。ウエストコートのボタンを外し、その下のドレスシャツのボタンにも手を掛け一つ一つ外していく。
ドレスシャツの下から現れた、殿下の鍛えられた身体に掌を滑らせる。
殿下の身体にうっすらと、無数の傷がある。その傷を指で辿ると、殿下はわたしの右手を取り、自身の左わき腹に導く。そこには新しい傷が走っていた。
「三年前に、シャルローで受けた銃撃の痕だ。……マックスが俺を庇ったおかげで、俺は掠っただけで済んだ」
わたしは思わず殿下の顔を見つめる。殿下の金色の瞳が揺らぐ。
「俺を庇わなければ、マックスは死ななかったかもしれない」
わたしは殿下を見つめたまま、彼の裸の肩に両腕を伸ばし、縋りつく。
「そんなことは――ただ、あなたが生きていてくれただけで――」
「エルシー……」
殿下がわたしの唇を塞ぎ、咥内を貪る。わたしが殿下のうなじを抱き締めれば、裸の胸と胸が密着する。そのまま殿下はわたしを洗面台から抱き上げ、湯気の立つ浴槽に運び入れた。
長い時間をかけて、殿下はわたしの体中を念入りに洗った。
その間、わたしは殿下の体中に残る傷を一つ一つ手で触れていった。
戦争でついた傷だけじゃなくて、王妃の虐待でついた傷も残っているのだろう。
傷を受けるたびに殿下の心も傷ついたに違いない。
彼がわたしに執着するのはきっと、リンドホルムでの日々が、初めての平穏な時間だったからだろう。
幼いわたしとビリーと過ごした時間。
殿下は思い出の場所を取り戻し、幼かったわたしを手に入れて、奪われたものの埋め合わせをしたいのだ。
わたしも、この人を愛している。
だから――
溶かされていくような甘い時間を過ごしながら、わたしはただ、彼のなすがままに身を委ね、彼に翻弄された。
泡風呂のシャボンのように儚い、泡沫のような時であっても、今、愛されているのは、わたし――




