公爵令嬢ステファニー・グローブナーの悔恨④
「ステファニーとは、絶対に、死んでも、結婚しない」
殿下は国王陛下の御前で、そう、宣言したそうだ。強行するならば、亡命も辞さないと。
その言葉に、真っ青になったのが、王太子のフィリップ殿下だった。
フィリップ殿下にはまだ王子が生まれない。アルバート殿下が継承権を放棄し、王籍を離脱するようなことになれば、後継者問題はさらに混乱し、ブリジット妃への圧力はさらに強まるに違いない。
議会の承認を受け、王宮では婚約披露の晩餐会が、略式ながら開催されることになった。わたくしは晩餐会のために、姉・アリスンを付き添いに王宮に上がり、王族用の控室に入った。
アイヴォリーのローブ・デコルテの、胸元には真珠のチョーカーをあしらい、見かけだけは華やかに装っているが、気持ちは沈んでいる。
――きっと、バーティの機嫌は最悪だろう。
彼と夜会に出るなんて、四年ぶりだ。……戦争前の、壮行の夜会が最後だった。あの直後に婚約は白紙に戻り、彼は戦場に行って――。
控室で所在なく待つわたくしと姉の元に、突然、フィリップ殿下の来訪が告げられた。
「すまないね、ちょっと、話しておいた方がいいと思ったんだ。……今後のことについても」
フィリップ殿下はソファに座り、部屋に控える侍女にお茶を言いつける。
「晩餐会の開始は予定より遅れることになった」
「バーティ……アルバート殿下と、お話しはできますでしょうか」
わたくしの問いに、フィリップ殿下は気まずそうに眉を顰め、しばしの逡巡の上、言った。
「バーティは今夜は来ない」
「ええ?」
姉が悲鳴のような声を上げる。
「まさか、いくらなんでも、それは――」
フィリップ殿下も言う。
「……迎えに行った者の弁によれば、泥酔してとても、晩餐会に出られる状態ではないと」
「……泥……酔?」
「……何から話すべきか……」
フィリップ殿下が顎を撫でて考えるうちに、侍女が紅茶の盆を運んできて、わたくしの目の前に紅茶のカップとソーサーが置かれる。漂う香が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
侍女が壁際に下がり、わたくしと姉とフィリップ殿下の三人だけになる。わたくしたちの会話は、侍女にまでは届かない距離だ。
「……まず……バーティが結婚したがっている相手について、ステファニーやアリスンは知っているか?」
わたくしは頷いたが、姉のアリスンは首を振る。
「噂は聞いておりますけれど、お名前などはしかとは存じません」
「ミス・エルスペス・アシュバートン。故リンドホルム伯爵の令嬢で――つまり、シャルローでバーティを庇って戦死した、マクシミリアン・アシュバートン中佐の娘だ。彼女は代襲相続を願い出たが却下され、領地も財産も失い、祖母と二人、王都に出てきた。彼女が軍の事務職として働いて、暮らしを支えていたそうだ」
姉は初耳なのか、青い目を見開いていたが、わたくしは概ね、知っている情報だった。
「バーティは戦地から戻ったら、リンドホルムに赴いてマックス卿の墓に詣で、彼女に求婚するつもりでいたそうだ。ステファニーとの婚約は白紙に戻っているし、エルスペス嬢は伯爵の娘で、第三王子の妃になるのに問題ない身分だ」
わたくしは、思わず唇を噛む。
わたくしを気の毒そうに見て、フィリップ殿下は溜息をつく。
「……エルスペス嬢の祖母、つまり、マックス・アシュバートンの母親は心臓を患っていて、バーティが費用を出して療養院に入院させた。エルスペス嬢には王都に所有するアパートメントを提供し、まあその――男女の仲になった」
フィリップ殿下の言葉に、姉のアリスンが眉を寄せた。
「……つまり……病気の祖母を抱え、経済的に困窮した令嬢の弱みに付け込んで、愛人にしたってことですの? 仮にも、恩人のご令嬢を?」
「客観的に言えば、そうなるな。バーティは結婚するつもりだったから、少しぐらいの先走りは構わないだろうと思ったそうだけれど。でも、世間はそんな風には見ない」
フィリップ殿下は溜息をつき、紅茶を一口飲むと、カップをソーサーに戻す。
「……バーティはまさか、君たちの父上が、議会にまで手を回すなんて、思っていなかった。私もそうだけれどね。……しかも、公爵は弁護士に命じて、療養院に入院中だったエルスペス嬢の祖母に、二人を別れさせろと迫ったそうだ」
ガチャン、とアリスンがカップを取り落とす。
「まさかそんな……そのおばあ様はなんと……」
「老婦人はそこでようやく、入院費用のカラクリに気づいたらしい。心臓がショックに耐え切れず、体調が急変して息を引き取られたそうだ」
「なんてこと……」
姉が両手で口元を覆った。顔色は真っ青だった。――わたくしも、同じ表情をしているに違いない。
「祖母が死んだエルスペス嬢はバーティに別れを告げ、彼女に去られたバーティは酒浸りになって、婚約披露の晩餐会に出るどころじゃないんだ」
わたくしと姉は茫然と顔を見合わせる。
ほんの数日前、わたくしは彼女を「愛人」と罵ったし、殿下と別れて欲しいと、不躾なことを言った。お金のために身体を差し出すなんて、わたくしなら死んだ方がマシだとまで言った。
彼女はあの時、どんな表情をしていた?
わたくしの目をまっすぐ見返して、顔を上げ、背筋を伸ばし――
父を失い、爵位も領地も奪われ、病気の祖母を抱えて。
彼女の事情も知らずに、わたくしはなんてことを言ったのだろう。
その話を聞いた姉アリスンは、わたくしとフィリップ殿下を見比べ、言った。
「正直申し上げて、わたくし自身は、ステファニーとアルバート殿下の結婚は、よした方がいいと思っておりますの。……ステファニーが幸せになるとは思えません」
姉の言葉に、わたくしは驚いて反論した。
「アリスン! でも……確かに今は、殿下はあの女に心を奪われていらっしゃるけれど、あの人は殿下の元から去ったのでしょう? だったら――」
戦争に行く前の殿下はとても優しい方だった。愛がなかったとしても、殿下もわたくしを妃として受け入れるつもりでいらっしゃったはずだ。
「わたくしはバーティを!……殿下を愛していますの! バーティはわたくしのお願いは何でも聞いてくださったもの。優しいバーティならきっとわかってくださる――」
「ステファニー……そのことなんだが……」
フィリップ殿下が何とも複雑な表情で、わたくしを見た。
「バーティが言うには、戦前に君と親しくしていたのは、君の機嫌を損ねると、君が王妃に告げ口して、酷い場合は暴力を含む体罰を受けたと」
「体罰? エレイン様が? バーティに?」
わたくしがびっくりして身を乗り出す。
「……君は、もちろん知らなかったのだな?」
わたくしは慌てて首を振る。
「まさかそんな……」
「……告げ口はしていたの?」
アリスンに聞かれ、わたくしは躊躇ったけれど、小さく頷いた。
「……まだずっと子供の頃のことよ。その……時々……小さな喧嘩をしたりして、王妃陛下に申し上げれば、翌日にはバーティが謝ってくださって……」
「ステファニー……昔から、あなたのアルバート殿下への態度は、あまりに我儘が過ぎるとわたくしは思っていたの。でも殿下がそれを許していらっしゃるならと、敢えては何も言わなかったけれど……」
アリスンは睫毛を伏せ、深い溜息をつく。
「……ステファニー……もう、無理よ。アルバート殿下は王妃陛下の体罰を避けるために、仕方なくあなたの我儘を聞いていたのよ。そんな相手と結婚したいと思えるわけがないわ?」
「そんな……わたくしは知らなかったの! まさか、あの優しいエレイン様が体罰だなんて、誰が想像できると言うの?」
必死に言い募るわたくしを、フィリップ殿下が同情を含んだ琥珀色の瞳で見つめ、言った。
「そうだ、ステファニー。君のせいじゃない。でも、バーティが君とやり直すつもりになれないのも、私は当然だとも思う」
「そんな――」
思わず、目に涙が滲んでくる。――泣いたら、化粧がはげてしまうのに。
「わたくしは……わたくしは本当にバーティを愛していて……」
わたくしは両手で顔を覆った。
自分の愚かさを後悔してももう、間に合わない。
姉はわたくしの背中を慰めるように撫でて、フィリップ殿下に向き直る。
「ステファニーの幸せのためにも、アルバート殿下との結婚はやめた方が――」
「いやよ! わたくしはバーティを愛してるの! バーティと結婚するの!」
「ステファニー!」
アリスンがわたくしを咎めるけれど、わたくしは首を振って叫んだ。
「わたくしはバーティを愛してます! わたくしは彼の役に立てるわ! レコンフィールド公爵家の娘として、バーティを妃として支えます!」
「無理に嫁いでも、バーティは君を憎むだけだ。私自身、そんな不自然な政略結婚を、バーティに強いるつもりはない。ステファニー……今しばらくは婚約を維持するとしても、いずれは――」
「いいえ。わたくし以外にバーティの妃に相応しい者はいないわ。……わたくし、嫁ぎます。彼に憎まれても――」
援ける手もなく、愛もない妃の地位。――それでも、彼を愛しているから、わたくしはその場所に立つと決めた。
駅から王宮へと向かう馬車の中、殿下は無言で窓の外を見つめている。
きっと、一人残した彼女のことを考えているのだ。
「……バーティ?」
「……」
「バーティ?」
「気安く呼ぶな。……お前とは結婚しない」
わたくしの方を見もせずに、冷たく言い捨てるその言葉に、向かい側に座るバーソロミュー伯父様が眉を顰める。
「アルバート殿下。私の姪に対して、あまりな対応とは思いませんか。戦場の英雄とはいえ、残念ですな」
伯父様の皮肉に、殿下はふっと片頬を歪めた。
「首相閣下の溺愛する姪の、夫には相応しくないな。謹んでご辞退申し上げる」
「殿下――」
わたくしが口を挟めば、殿下は金色の瞳をようやく、わたくしに向けてくださった。
「わたくし、覚悟はできております。たとえ愛されない妃であっても、殿下をお支えすると決めました」
「はあ? 何言ってんだ、お前?」
「殿下が別の方を愛していても、わたくしはそれ以上に殿下を愛していますから」
殿下は金色の瞳を見開いて、穴が開くほどわたくしを見つめて、言った。
「……何が言いたい?」
「あの方をお側に置かれるなら、仕方がありません。たとえ殿下の愛がなくとも、わたくしは妃としての役割は果たしてみせます」
殿下は息を呑んで、掠れる声で囁くように言った。
「……それは……エルシーを愛人にしろということか? お前が正妻で?」
それはわたくしにとっては身を切るほど辛い覚悟で、わたくしは目を伏せて頷いた。でも――。
ダンッ! という音がして、わたくしの頭のすぐ横に、殿下の拳が叩きつけられ、わたくしが驚いて目を開けると、殿下の怒りの形相が目の前にあった。
「ふざけるなっ! 二度と口にしてみろ、次は殺すぞ?!」
何故、殿下がお怒りになられたのか理解できないでいると、対面に座る伯父様が、溜息をついた。
「……ステファニー、今のは、君がよくないよ」




