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prologue3

最終章の開始です。

 リンドホルム城の、黄色く染まった楓並木の下を馬車が走り抜ける。窓の外を黄色い楓の葉が流れていく。


 ガラガラ……馬車の車輪の音が響く中、僕はただ、ボロボロと涙を流していた。止めようとしても止められない涙が、膝の上に滴り落ちる。

 

 エルシー……僕の、光。

 ここを離れたたら、もう二度と、彼女に会うことはできないだろう。


 ガタン、馬車の車輪が小石を噛んで、大きく揺れた拍子に、僕の隣の座席に置いてあった、スケッチブックが跳ね、床に滑り落ちた。

 僕が手を伸ばして拾い上げるより早く、対面に座っていたマックス・アシュバートンがそれを手に取る。


「あ――」


 ページがほどけて、中の素描が出てきた。――僕がスケッチした拙い絵。エルシーの――。


 僕は涙を拭うのを忘れて、おそるおそるマックスの顔を見る。マックスはじっと、僕の絵を――彼の、娘を見つめていた。


「……エルシーが、好きなのか?」

「……」


 僕は俯く。……その通りだけれど、頷く勇気がなかった。

 僕は十四歳で、エルシーは七歳。ほんの、幼女だ。……きっと僕はどこかがおかしい。汚れのない無垢なエルシーに恋する、変態だ。


「……エルシーはまだ、子供だ」

「……」

「それでも、エルシーが?」


 僕はさらに深く俯くしかなかった。

 マックスは僕の膝の上に、閉じたスケッチブックを返してから、言った。


「初恋は、叶わない。何故だと思う?」


 僕は上目遣いにマックスを見た。――エルシーと同じ、ブル―グレーの瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。


「弱いからだ。……恋を叶えるには、幼い時は弱すぎる。大人でも弱い者は大切な者を守ることができず、奪われる。……私のように」


 僕は息を呑んだ。……マックスの言う「奪われた者」が、誰であるか悟ったから。


「強くなりなさい。力でも、金でも、何でもいい。奪われないためには、強くならなければ。そうでなければ、大事な娘をやることはできない」

「……おばあ様は、僕ではダメだって……」

「今の君ではね。この地上でも最弱クラスだ。そんな男に、誰が大事な娘を預けられる?」


 マックスのブル―グレーの瞳が、少しだけ細められる。

 マックスは身体が大きく、強くて――この彼ですら守れなかった愛しい人を、僕が守れる日が来るとはとても思えなかった。でも――。


 僕は膝の上のスケッチブックを抱き締める。

 

 いつか――僕が強くなれたら――その時は――。



***


 リンドホルムを追い出されてから、もう、いくつもの季節が巡った。たった一度の春、たった一度の夏、たった一度の秋。エルシーと過ごした一年にも満たない日々が、俺の心の支えだった。……時々、誰もいない場所でそっと開く、スケッチブックの中の、拙いエルシーの素描。


 エプロン・ドレスをヒラヒラさせて、ブランコを漕ぐ姿。荒れ地(ムア)で見つけたウサギを見つめる横顔。ようやく咲いた、薔薇の香りを嗅ぐ、小さな笑顔。


 可愛い、可愛い、エルシー。スケッチブックに閉じこめた、思い出の中の、エルシー。七歳の幼い彼女。


 ――今はもう、それすらも失われた。




 ステファニーとの婚約は、ステファニーが五歳になる前に決められた。

 王妃は俺の前で殊更にステファニーを可愛がった。――たぶん、えこひいきされることは気分がよかったのだろう。ステファニーは一層、俺に纏わりついきたが、邪険にすればステファニーは王妃に告げ口し、後できつい折檻を受ける羽目になる。


 我儘放題のステファニーは、ついに俺のスケッチブックにも目を付けた。


『バーティは絵ばっかり描いていらっしゃるのね。わたしにも見せてくださいまし』


 俺が断れば、案の定、ステファニーは王妃に告げ口し、王妃が俺の部屋に来て言った。


『下手な絵を描いているそうね。スケッチブックをお見せなさいな』

『嫌です』


 ――俺の、初めての反抗だった。王妃は青い目を見開き、笑った。


『いけない子ね、バーティ。あの、憎らしい女にそっくり』


 なおも白い手を伸ばしてくる王妃を振り切って、俺はスケッチブックを暖炉の火の中に投げ込んだ。炎の舌が、舐めるようにスケッチブックを蝕んでいく。


 俺の――エルシーが、燃えていく。最後の思い出も、何もかも――。


 俺はスケッチブックが燃えるのを見届けてから、王妃を見た。


『どうします? 次は俺も火の中に投げ込みますか?』


 その頃はもう、俺はもう王妃の背丈を抜いて、身体も鍛えていた。

 青い顔で王妃が一歩、二歩と下がる。俺は一歩前に出て、笑った。


『安心してください。アッサリ殺したりはしません』

『……わたくしを、脅すの?』

『まさか。やるときは何も言わずにやりますよ』


 ――王妃が、ジョージのいる離宮に籠りがちになったのは、その、直後だ。 


 


 その後も表向き、俺は自分を押し殺して過ごした。

 士官学校を出て、小遣いから少しずつ投資して、徐々に、資産を殖やした。


 力と、金と――。


 独り立ちに必要な、強さを手に入れるために。




 大戦が勃発し、多くの兵士や将官が死んだ。

 王族の誰かが戦場に立たねばならないくらい、国の損害は大きかった。

 俺以外に戦争に行ける奴がいないのだから、しょうがなかった。どこまでも便利遣いされる自分に嫌気が差していたが、あるいはこれはチャンスかもしれないと思った。


 婚約者のステファニー。俺の未来を縛り付け、俺を操ろうとする王妃の傀儡。戦争の危険を理由に、俺は父上やレコンフィールド公爵を説得して、ステファニーとの婚約を白紙に戻すことに成功した。不思議と、一番抵抗するかと思った王妃は何も言わなかった。


 ――ようやく、俺から興味を失ったかと思っていたのに。あの女の狂気を俺は、読み違えていた。




 俺の部隊が本拠地を置いていたシャルロー村は、グリージャとの国境に近い、山間の長閑な村だった。

 酪農と葡萄の栽培、ほそぼそとしたワイン作りで生計を立てている、けして豊かでない村だったが、人々は素朴で親切だった。

 本部に届く郵便は、二週間に一度。俺の居場所を特定されないために、手紙のやり取りも制限がかかっている。部下とその家族に不自由をかけていることが、申し訳なかった。


 戦地に送られる手紙の量が人望と比例するのであれば、マックス・アシュバートンとジョナサン・カーティスは、周囲に愛されているのだろう。俺の人望は最低クラス。……友人と呼べるのはロベルトくらいで、一緒に戦地にいるのだから、しょうがない。

 その時、マックス・アシュバートンの元に来た封筒の、いかにも貴族の女性らしい、流麗な文字に目を留める。


 ――おばあ様の文字? いや、もしかしたら、これは――。


 ちょうど執務室に入ってきたマックスに手紙の束を渡した。

 たまたま、ロベルトは席を外して、部屋には二人きりだった。


「家から手紙が来ました。……娘から」


 煙草を吸おうと口に咥えたまま、俺はマックスを見上げる。――エルシーの。では、やはり――。


「エルシーを、憶えていますか?」

「あ、当たり前だ! 忘れたことなんか、ない」


 口から煙草が落ちるのもかまわず俺が言えば、マックスは苦笑いして、俺に写真を差し出す。


「同封されていました。エルシーと、ビリーです。エルシーが十五で、ビリーが十三。寄宿学校に入るそうで――」


 震える手で、写真を受け取る。ピアノの前に座る少女と、その脇に立つ制服の少年。よく似た容姿の二人。

 俺がリンドホルムにいた時、ビリーはまだスカートを穿いていた。エルシーもほんの子供で――。


 ピアノの前に座るエルシーは、まだ幼さは残るものの、すっかり女性らしくなっていた。髪は長く、上半分を結って、肩から背中を覆っていた。レースのついたブラウスの胸が柔らかな曲線を描いている。幼い時の面影の残る、人形のように整った容貌。ツンと澄ました猫のような――それでもわずかに綻んだ唇が、花びらのように清楚で――。


 エルシー――。


 スケッチブックを燃やしてから、エルシーはただ、脳裏に描く思い出の中だけの存在だった。年々、おぼろげになる記憶の中の彼女が、再び鮮やかな像を結び始める。


 エルシー。俺の、ただ一筋の光。俺の――。




「ビリーでは、リンドホルムを守ることはできない」


 写真のエルシーの姿を凝視していた俺の耳に、マックスの言葉が突き刺さる。


「え?」


 思わず顔を上げると、正面からマックスがじっと俺を見ていた。


「だから、私はビリーの後はエルシーの代襲相続を認めるように、国王陛下に請願書を提出し、認められています」


 何の話かよくわからず、俺はただ、呆けたようにマックスを見上げていた。

 ビリーは確かに身体が弱かったけれど、写真を見た限りは、普通に育っているようだが……。


「ですがこのご時世、女が代襲相続した場合、婿選びは非常に困難だ。領地の経営も。――将来、殿下が気にかけてくださるなら――」

「俺が、婿になるよ!……ビリーの問題が何かよくわからないが……俺なら……」


 マックスは眉を顰めて、じっと俺を見つめて何か考えていた。


「レコンフィールド公爵令嬢との婚約は?」

「あれは白紙に戻した。俺の帰りも待つなと言ってあるし……そのうち、適当な男と結婚するさ」

「……そうでしょうか?」


 マックスは首を傾げ、それから言った。


「……まだ、エルシーのことを? エルシーはずいぶん、子供だった。もう、リジーの記憶もあいまいになっているでしょう」

「それでも、俺は忘れてない!」


 俺は必死に頼み込んだ。俺の勘が告げていた。このチャンスを逃したらダメだと。――マックスから結婚の許しをもぎ取るんだ!


「マックス! 俺はけっこう、金もあるんだ。拳闘(ボクシング)部にも入って、腕っぷしだって……あんたの言うとおり、力をつけたんだ、だから――」


 マックスは一瞬、目を逸らしてじっと遠くを見て、それから視線を戻して言った。


「……まあ、娘に求婚する、許可は出しましょう。エルシーが、何て言うか知りませんが」


 俺の全身を歓びが突き抜ける。――何の根拠もないが、エルシーは俺との結婚を承知してくれると、俺はこの時確信していた。単純な俺は、もう、エルシーと結婚できる気分になっていた。


 戦争が終わったら、俺はマックスとリンドホルムに行って、エルシーに結婚を申し込む――。



 その喜びが粉々に砕け散るのは、わずか一月後。

 突然の襲撃に平和だった村は地獄絵図となり、マックスは俺を庇って銃弾に倒れる。

 息絶えたマックスの胸のポケットから取り出したエルシーの写真は、穴が空き、血まみれになっていた。


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