公爵令嬢ステファニー・グローブナーの悔恨③
結局、わたくしは殿下にお会いできないまま、邸に戻る。殿下の方より電話で抗議がいったのだろう、邸に帰りつくと、父が書斎で待っていた。父は表面上は穏やかに、しかし内に怒りを込めてわたくしに言った。
「約束もなく、軍の施設に王子殿下をお訪ねするなど、公爵家の者の矜持もなくなったか、痴れ者が」
「……申し訳ございません」
わたくしはふいに思い出して言った。
「でも、あの女の名前がわかりました」
「なんだと?」
父が顔を上げてわたくしを見る。
「司令部の事務官をしていたんです! 間違いないわ、あの人でした!」
父の、青い瞳が大きく見開かれて、パチパチと瞬きする。
「事務官だと言うのか?」
「はい、司令部で書類の処理をしていると。名前も聞きましたわ。エルスペス・アシュバートンで、ストラスシャーの出身だと」
父の瞳がさらなる驚愕に見開かれる。
「アシュバートンだと? ストラスシャーの? ……なんてことだ!」
「ご存知なの?」
「……ああ、シャルローの戦いのとき、殿下の盾になって死んだ護衛が、マクシミリアン・アシュバートン中佐だ。……ストラスシャーの、リンドホルム伯爵だった」
わたくしがあっと思う。殿下の部隊が潰滅した、激戦の時の――。
「……なるほど、そういうことか……」
父は肘掛椅子の背もたれに凭れるようにして、しばらく目を閉じて考えていた。
「だいたいの構図が読めてきた。殿下は命懸けで自分を守ったアシュバートンの娘が、零落しているのを見かねて援助した。父親への恩義もあり、その娘との結婚を志した。……そういうことならば、こちらにもやりようはある」
父はわたくしをじっと見つめると言った。
「いいか、ステファニー。この件はしばらく、お前は口を出すな。わしの目の黒いうちは、アシュバートンの娘を王子の妃に迎えるなんて絶対に認めん。……すべて、わしに任せておけ」
この時の情報をもとに、父が何をしたのか、わたくしが知るのはもっと後のこと。取り換えしのつかない罪を重ねたと気づいた時には、すべて手遅れだった。
首相を務めるバーソロミュー伯父様が我が家を訪れたのは、その頃だ。彼はわたくしの母の、双子の兄だ。自身、貴族院議員として、長く政治家としての地歩を固め、自らベックフォード伯爵の爵位を得ている。
「聞いたよ、ステファニー。アルバート殿下に婚約を拒否されているそうだね」
「伯父様……」
応接室に呼び出されてみれば、バーソロミュー伯父様はフロックコート姿で長い脚を組み、左手の指には葉巻を挟んでいた。
「困ったことだ。まあ、私としては、三男坊に可愛いステファニーは勿体ないと思っているがね? 結婚後はオーランド公爵に陞爵するとはいえ、この節、王子にたいした領地も分けられないし、王族の妃は制約も多い。いっそ、鞍替えしたらどうかね? ステファニーなら、もっといい男がたくさんいる」
伯父様が吸い込む、強い葉巻の香りに、わたくしは咽そうになりながら、微笑んだ。
「……わたくし、殿下を愛しておりますわ。他の方なんて、考えたこともなくて……」
「ならば、強引に決めてしまってもいいのかね? 結婚前から愛人を囲うような男と」
「きっと、事情があるのです。バーティは優しい方だから」
わたくしの言葉に、バーソロミュー伯父様が皮肉そうに笑った。
「優しい男は長年の婚約者をあっさり捨てないし、病気の祖母を持つ元・伯爵令嬢を、金にものを言わせて愛人にしたりはしない」
その言葉に、わたくしは目を瞠った。
「……どういう、ことですの?」
伯父様はふうっと紫煙を吐き出し、肩を竦めて見せた。
「何、ちょっと調べたらすぐにわかる。……最初は、父が戦死して没落した令嬢への同情心だったかもしれないがね。だが、はっきり言えば彼女は美しい。ちょっと冷たい雰囲気で犯しがたい気品すらある。そんな女が、金銭的な援助をチラつかせれば自分のモノになる状況だ。……殿下も、若い男だった、というだけのことさ」
わたくしが意味を理解しかねて固まるところに、ソファの背後に立っていた、わたくしの兄のチャーリーがまぜっかえす。
「そんなにいい女なの? あのバーティが引っかかるくらい?」
「ああ、私も若い頃なら引っかかったかもな。媚びない女をいいようにできるなんて、ある種、男の夢だろう?」
伯父様が喉の奥で笑う。その様子が何とも下品な気がして、わたくしはつい、眉を顰めた。
「なんだか、いやらしいわ。伯父様もチャーリーも」
「これは失礼、ステファニーの前では相応しくない会話だったな。……まあとにかく、例の女にも同情の余地はある。だが、王子の我儘をこれ以上許容できない。王家への牽制も含め、強硬な手段に出ることにした」
「強硬な手段?」
わたくしが聞き返せば、バーソロミュー伯父様は大きく頷いた。
「陛下のご裁可が下った。アルバート殿下とステファニーの婚約は認められた。このまま、議会にかけて承認を取り付ければ、そう、簡単には覆せない」
「……それはちょっと強引過ぎるのではないですか? 僕は兄として、たとえ王子であっても、不実な男のもとに妹をやりたくない」
チャーリーが言えば、伯父様が首を振る。
「グリージャの方がきな臭い。殿下を王女と結婚させる、なんてことを言い出したやつがいてね。そこへもってきて、この愛人騒動だ。政府の意見をはっきりと表明しておく、必要があるのだよ」
父・レコンフィールド公爵と伯父で首相のバーソロミュー・ウォルシンガム卿の主導により、わたくしとアルバート殿下の婚約が、議会に掛けられることになった。
その承認が得られれば、わたくしと殿下の婚約は正式なものとなる。
だからその前にわたくしは、どうしても殿下にお聞きしたかった。
どうして、わたくしから心変わりしたの?
もう、わたくしのことは愛していないの?
わたくしの、何がいけなかったの?
もう、やり直すことはできないの?
あの日、わたくしは殿下が例の女と、十番街のローリー・リーンのメゾンを訪れたと聞き、慌てて仕度をして向かった。
不躾なのはわかっている。でも、こんな形で政治的に婚約が決まってしまうのは、あまりに惨めだ。
確かに政略結婚かもしれない。でも、わたくしはずっと殿下を愛してきたのだから。
せめてそれを伝えることぐらい、許されるでしょう?
わたくしはたぶん、恋と嫉妬に狂って、おかしくなっていたのだろう。
少なくとも平静さは欠いていた。
だから周囲が止めるのも聞かずに強引にメゾンに踏み込み、殿下を出せと要求した。
「殿下はいらっしゃいませんよ! ここから先は現在、お客様がいらしゃるので――」
豊満な身体を派手なドレスで包んだマダム・リーンが、わたくしの行く手を阻もうとする。
「行って! 奥よ! 殿下を捕まえて! お願い!」
わたくしに命じられ、メゾンの奥に踏み込んだ護衛の男と、見覚えのある男性が揉み合いになる。――殿下の護衛であるジョナサン・カーティスだ! 彼がいるということは、きっと殿下もこの奥に――。
無我夢中で開けた扉の奥で、数人のお針子に囲まれ、下着一枚の若い女性が振り返り、ブルーグレイの瞳を見開き、悲鳴を上げる。
慌てて身を隠すように後ろを向いたその背中。真っ白いそこに、いくつも赤い痕が散らばっていた。
殿下からの寵愛の証。
それを目の当たりして、わたくしの最後の矜持が崩れ落ちていく。
殿下は、わたくしに触れようとはなさらなかった。
ピクニックに乗馬、オペラ、絵画の鑑賞会に、王宮の夜会。
わたくしたちはいくども週末を共に過ごし、殿下は常にわたくしをエスコートし、そばにいてくださった。
でも、それだけだった。
我儘はなんでも聞いてくださったけれど、わたくしに指一本、触れようとはなさらなかった。
どんな時も紳士的で適切な距離を保ち、心の内を見せてはくださらなかった。
だからこそわたくしは――
本当のことを言えば、わたくしは殿下にキスしていただきたかった。
抱きしめていただきたかった。愛していると囁いていただきたかった。
だからこそ、わたくしは殿下を試すように我儘を言い続け、叶えられることで彼の愛を信じようとした。
我儘を言えば、殿下は叶えてくださる。
予定を捻じ込めば、先約を断ってわたくしに付き合ってくださった。
美術館に行くはずだったのに、突然、乗馬がしたいと言えば、殿下は文句一つ言わず、手配してくださった。
彼がわたくしに触れないのは、彼の誠実さと潔癖さのゆえだと。
不器用で誠実な彼に、わたくしは愛されているのだ、と。
――なのに、この女には触れるのだ。
高価な贈り物を選び、アパートメントに住まわせ、夜を共にする。
金と権力にものを言わせ、没落した美しい彼女を自分のものにした。
婚約者同然のわたくしではなくて、別の女を――
信じたくない現実が、わたくしの面前にさらけ出される。
それでもわたくしは、本当に愛されているのは自分だという、幻に縋りたかった。
『でも、所詮は愛人でしょ? 本気だったら、手を出したりせずにもっと大事になさるわ。……以前の、わたくしに対するみたいに、礼儀を守って紳士的に振る舞うはずよ。バーティはそれのできる方だもの』
彼女に投げつけた言葉は、ただの強がりだ。
自分が愛されていなかったかもしれないという事実に目を瞑り、触れられないことが彼の愛だとすり替える、おためごかしだ。
本当は気づいているのに、わたくしはどうしても、認めたくなかった。
殿下は――バーティは、一度として、わたくしを愛してはいなかった、のだと。




