公爵令嬢ステファニー・グローブナーの悔恨②
わたくしが十七歳の時。
アルバート殿下自ら戦場に赴くことになり、その前にわたくしとの婚約を白紙に戻した。
――無事に、帰れるかわからないから。
わたくしの未来を縛りたくない、という殿下の意向を、わたくしも父も、受け入れざるを得なかった。
でも、その頃のわたくしはもう、アルバート殿下の妃になる以外の人生を思い描くともできなかった。殿下とわたくしは相思相愛だと、わたくし自身が信じていたから。
だからわたくしはただ、殿下の無事なお戻りを神に祈り、待った。
そうして四年の月日が過ぎて、ようやく殿下が王都に戻られた時も、わたくしは彼の心を疑うことすらしなかった。
なのに――
戦争から戻った殿下は、わたくしを見てはっきり言ったのだ。
ステファニーと結婚するつもりはない。
本当は昔から、ずっと好きな人がいる。ステファニーじゃなくて、彼女と結婚したい。
はっきりと告げられた言葉に、わたくしは打ちのめされた。
ただ茫然と泣き暮らすだけのわたくしと違い、父であるレコンフィールド公爵は、すぐに殿下の身辺を調査した。
「どうやら、女がいるらしい」
父の書斎に呼ばれて、そう告げられたのは、七月に入ってから。
アルバート殿下らしき人が、最近、頻繁に女性を伴ってレストランに足を運んでいると。
わたくしの胸が嫉妬で痛んだ。何度も話し合いたいと殿下に申し入れたが、すべて拒否されて会うこともできていない。
「名前がはっきりしない。社交界では見たことのない女だと」
……社交界にはデビューしていない、つまり、貴族の娘ではないということ――?
「殿下はその女性と結婚すると仰ったわ。いくら何でも、貴族じゃなければ結婚は無理ではなくて?」
「最近は、海の向こうの、大富豪の娘を嫁に迎える貴族家もいる。王室に嫁いだ事例はないが、そういう女なら、我々が名を知らない可能性もある」
海の向こうの新興国は、物質の豊かさで我が国を凌駕しつつある。……先の大戦で被害を受けず、経済発展を続ける新しい国。かの国の大きな銀行や大企業のご令嬢と、どこかで知り合ったのだろうか。
依頼した探偵は優秀で、旧ワーズワース邸の仮面舞踏会に殿下らしき男性が若い女性と現れたとか、歌劇場のボックス席でオペラを観劇しただとか。アルバート殿下と若い女の写真を見て、わたくしは嫉妬で目が眩むような気がした。見たこともない若い女に寄り添う男性は間違いなく殿下で、二人の距離は驚くほど近い。
ほっそりとした、少し冷たい感じのする綺麗な女だった。モノクロームの写真からは髪や瞳の色はわからないが、髪の色は淡く、最新流行のドレスを纏い、耳元や首筋を飾るのは高価な宝石だとわかった。
父が写真を示しながらわたくしに尋ねる。
「十番街にある、ローリー・リーンのメゾンを知っているか?」
「ローリー・リーン? ドレス・メーカーの? ええ、最近流行のメゾンよ? わたくしも一度だけ作ったことがあるけど……なんて言うのかしら、ちょっと奇抜なところがあって、わたくしの好みには合わないので、その後は行っていないのだけど」
わたくしはどちらかと言うと、ふんわりと可愛らしい雰囲気のドレスが好みで、ローリー・リーンの、どことなくシャープな雰囲気のドレスはあまり似合わなかった。でもこの写真の女性は綺麗に着こなしている。……こういうタイプの女性が、殿下のお好みなのか。
「その店に、殿下が女と頻繁に出かけて、相当な額の買い物をしているらしい」
「じゃあ、このドレスや宝石は全て、殿下がお買い求めになっているの?」
「そうだ。殿下は戦争に行く前に自動車や航空機にかなりの投資をして、それが戦時景気でずいぶん当たって、結構な財産になっている。王室からの手当て以外の、自由になる財産をお持ちだ。それで、女を着飾らせているのだ」
わたくしは眉を曇らせる。
考えてみれば、殿下はわたくしが頼めば遊びに連れ出してはくださったが、殿下から誘われたこともないし、ドレスや宝石を買ってくださったことはなかった。誕生日はいつも花束だった。……自由になるお金があまりない、とも仰っていたけれど。投資が上手くいって財産を増やした今、他の女には気前よく貢いでいる、ということなのか。
「富豪の娘ではないようだ。それから殿下が最近、バージェス街に高級アパートメントを購入されたらしい。……もしかしたら、その女を住まわせるおつもりかもしれん」
「それじゃあまるで……」
愛人ではないの、と言おうとして、わたしははしたなく思って口を閉ざす。
「要するに、身分も金もない卑しい女ということだ。そんな女に入れあげて――何ということだ!」
父が不愉快そうに奥歯を噛みしめる。
「殿下とお前の婚約は、陛下との昔からの約束だ。それを勝手に反故にされては、我が家の沽券にかかわる!」
「お父様……エレイン様は……王妃陛下は何ておっしゃっているの?」
「……姉上は、最近は離宮に籠って、ジョージ殿下につきっきりだ。相当、お悪い。……お気の毒な方だ。我が子が不治の病と知らされた時の、姉上のお気持ちを思うと……」
父はしばらく目を閉じて、それからわたくしを見てきっぱりと言った。
「だからこそ、お前はアルバート殿下の妃にならねばならん。フィリップ殿下のところにも男児が生まれる兆しはない。このままだと、アルバート殿下が王位を継ぐことになるが、なおのこと、王妃は我が家から出すべきだ。私は引くつもりはないから、そのつもりでいろ」
「はい、お父様……」
わたくしは王妃になりたいわけではないけれど、殿下にあれこれ強請って散財させるような女に、みすみす彼を渡すわけにはいかないと思ったのだ。
わたくしはどうしても、アルバート殿下ときちんとお話がしたかった。
わたくしの何がいけなかったのか。全部、殿下ご自身から説明していただきたかったし、その権利があると思っていた。
何度もお電話をかけたけれど、司令部もご自宅も、拒否されるばかりだった。しかも、どうやら殿下は、アパートメントに例の女を連れ込み、泊まり込んでいるという。
わたくしの嫉妬心が爆発し、矢も楯もたまらず、殿下がお務めになる、陸軍の司令部に直接乗り込んでいた。
そして、わたくしは写真の女を見たのだ。
高級メゾンの美しいドレスではなく、地味な、事務職員の制服を身にまとった、彼女を。
陸軍司令部で、応対した初老の文官は、見るからに迷惑そうだった。
頭に血が上っていたわたくしは、自らの迷惑行為に気づかず、通された応接室に居座った。
――殿下がお戻りになるまで帰らない、と。
かなり長い時間待たされた後で、一人の女性がお茶の盆を捧げて応接室に入ってきた。その顔を見て、わたくしは息が止まるかと思った。
彼女だった。
殿下が寄り添うように、腰に手を回していた女性。写真とは違い、実物の彼女は少し暗めの金髪をうなじで簡素にまとめ、瞳の色は灰色がかった深い青。派手な化粧もしていないのに肌は抜けるように白く、唇はわずかに綻び、物堅く清楚な雰囲気がある。整いすぎて冷たい印象さえする容姿には、笑顔も媚びも怯えもなかった。
飾り気のない白いブラウスに濃紺のロングスカート。黒いタイを締め、サファイアの小さなピンで留めている。――それだけが、唯一の装飾。むしろ飾りのないことが彼女の美を引き立てていた。フリルやレース、宝石で飾った自分が、恥ずかしくなるほど――。
あまりじろじろ見るべきではないと思いながらも、わたくしの目は彼女に釘付けだった。彼女はテーブルの上に銀の盆を置くと、無言で、流れるような動作でお茶を淹れていく。
その所作は貴族の令嬢として訓練されたもの。ふわりと漂う香も、文句ない。
綺麗な色の出た紅茶のカップとソーサーに銀のスプーンを添え、わたくしの前に置いた彼女に、わたくしは尋ねる。……声が震えないようにするのに、必死だった。
「あなたはこちらの事務官ですの?」
彼女は付き添いのフェーズ夫人の前にお茶を置きながら、わたくしの方を見もせずに、砂糖壺を薦めながら言う。
「……はい。書類の処理を担当しております」
声はやや低い。でも艶があって、しっとりと耳になじむ声。そして発音も、貴族階級特有の綺麗な標準発音だった。……こんなところで地味な制服を着て働いているのが、全く不似合いな女性。まさか殿下がお側に置きたくて無理を言ったのだろうか?
わたくしは動揺を悟られないように、砂糖を紅茶に入れ、ゆっくりとかき混ぜる。わたくしが名を問えば、彼女は、拍子抜けするほど、あっさりと名乗った。
……エルスペス・アシュバートン。ストラスシャー出身の、十九歳。わたくしよりも二歳も下なことに、少しだけ驚く。アシュバートンという姓に聞き覚えがあるような気がしたけれど、その時は思い出せなかった。




