3.
魔力暴走の夜を境に、屋敷を包む空気は劇的に変わった。
新しく迎えた侍女頭や使用人たちは誰もが真面目で、館は見違えるほど清潔になり、あちこちに季節の花が飾られるようになった。けれど何より変わったのは、ギルバート様と私の距離だった。
「アリア、少し茶に付き合わないか。新しく仕入れた茶葉があるんだ。」
「まあ、喜んで!」
車椅子を押して中庭に出ると、ギルバート様は穏やかな微笑みを私に向けてくれるようになった。かつての冷徹な「死神公爵」の面影はどこにもない。私が図書室で難しい顔をして本を読んでいると、そっと隣に来て「こちらの本の方が、挿絵が多くて分かりやすいぞ」と、植物の図鑑を勧めてくれたりもした。
ギルバート様が私を気遣ってくれるたび、胸の奥が甘く、切なく疼く。魔法のない私だけれど、私の拙い看病や、ただ側にいるという選択が、この方の凍てついた心を少しずつ溶かしているのだとしたら。そう思うだけで嬉しくて、愛おしくて、彼への想いは募るばかりだった。この穏やかな日々がずっと続けばいい、そう願わずにはいられなかった。
けれど、幸福な時間は、あまりにも唐突に引き裂かれた。
ある朝、いつまで経ってもギルバート様が寝室から起きてこられない。胸騒ぎがして、私と家令のハンス、執事のロマンが部屋へ踏み込むと、彼はベッドの上でシーツよりも白くなり、荒い息を吐いたまま意識を失っていた。
「ギルバート様……! 嘘、どうして!?」
身体に触れると、驚くほど熱い。ハンスが慌てて医者を呼んだが、診断結果は絶望的なものだった。
これまで長い時間をかけて彼の身体に蓄積されていた特殊な毒が、ついに限界を迎えて一気に暴発したのだという。どんなに呼びかけても、ギルバート様は深い昏睡状態に陥ったまま、ピクリとも動かなかった。
「な、んで?…どうしたら…!」
動転する私たちのもとへ、追い打ちをかけるように激しい足音が近づいてきた。部屋の扉が乱暴に開け放たれ、入ってきたのは、数人の私兵を従えたギルバート様の叔父であるバルドー侯爵だった。
「やはりな。ギルバートの奴、ついに毒が回ったか。」
バルドー侯爵は、昏睡するギルバート様を歪んだ笑顔で見下ろすと、すぐに私へと冷酷な視線を向けた。その手には、見覚えのない一通の書状が握られている。
「さて、そこの小娘。いや、シルフィード子爵家のスパイ、アリアよ。お前を国家反逆罪、および公爵暗殺未遂の容疑で逮捕する!」
「な……何を、おっしゃっているのですか!?」
叫ぶ私に、バルドー侯爵はひらひらと書状を突きつけた。
「お前の部屋から、実家へ宛てた密書が見つかったのだ。困窮した実家を救うため、ギルバートを騙してアスラン公爵家の内部情報を流し、挙句に毒を盛ったという決定的な証拠がな!」
「そんなの嘘です! 私はそんなもの書いていません!」
「黙れ! 貧乏子爵家の娘が、無償で死神の看病などするはずがない。最初からこれが目的だったのだろう!」
それは、実に見事な捏造だった。私の実家が財政難であることを逆手に取った、逃れようのない罠。ハンスやロマン、新しくきた侍女頭たちが「アリア様がそんなことをするはずがない!」と必死にかばってくれたが、バルドー侯爵の連れてきた私兵たちに力ずくで押さえつけられてしまう。
私は両腕を掴まれ、引きずられるようにして連行された。
連れて行かれたのは、屋敷の最下層にある、陽の光も届かない冷たい地下牢だった。鉄格子の向こうから、バルドー侯爵の勝ち誇ったような嘲笑が響く。
「無駄なあがきだったな。ギルバートはもう目覚めない。数日後には、魔力暴走の危険性と王族暗殺容疑を理由に、国から『公爵の爵位剥奪及び処刑』が執行されることが決定した。お前も、あの世で甥のかっこうの話し相手になるがいい!」
重い鉄の扉が閉まり、あたりは完全な静寂と暗闇に包まれた。
「ギルバート様……ギルバート様……っ!」
一人残された地下牢の床は、芯まで凍りつくように冷たかった。
膝を抱え、ガタガタと震えながら、私は闇を見つめた。
ああ、私……また、何もできなかった……!
脳裏に蘇るのは、前世のあの雪の日の記憶。
教会の扉を閉ざされ、冷たい路地裏で、誰にも知られずに息絶えていった、あの孤独な死の感覚。どんなに歴史を変えようとも、結局は強力な権力と悪意の前に、魔法も持たない私のような無力な存在は、ただ踏み潰されるだけなのだろうか。
…ギルバート様が…死んでしまう…。
私を救ってくれたあの大きくて温かい手は、二度と私を掴んでくれない。暗闇の中、涙がとめどなく溢れ、頬を濡らしていく。
守りたかった。
今度こそ、あの人を救って、二人で幸せになりたかったのに!
底のない絶望が、私の身体をじわじわと侵食していく。それはまさに、魂が引き裂かれるような、あまりにも暗く、長い夜の始まりだった。
どれほどの時間が経ったのだろう。
私は冷たい牢獄の隅で膝を抱えていた。暗闇は五感を奪い、心をじわじわと削っていく。ギルバート様が処刑される。魔法のない私には、この分厚い鉄格子を力任せに壊す術などない。
やっぱり、私じゃ誰も救えなかったのかな……。
諦めが頭をよぎったその時、頭上の小さな通気口から、冷たい風と共に一ひらの白いものが舞い降りてきた。
それは私の頬に触れ、かすかな冷たさを残して消えた。
――雪だ。
その瞬間、凍りついていた私の脳裏に、前世のあの光景が鮮烈に蘇った。
激しい吹雪の中、すべてを失って死を待つだけだった私。そんなみじめな私を見つけ、大きな手を差し伸べてくれたギルバート様。それを思い出した瞬間、タイムリープしてから今日まで、私が何のために必死に生きてきたのか、その理由が身体の奥底から火となって湧き上がってくる。
「……泣いている時間はないわ。私には、まだ打てる手がある!」
私は這うようにして、牢の壁際に設置されている、古びた鉄製の排水管へと近づいた。
中世の石造り建築において、壁の中に埋め込まれた太い鋳鉄の管は、音を歪ませずに上層階へと伝える格好の「伝声管」となる。これは前世の没落時代、古い城の構造を熟知した囚人の手記を読んだことで得た、物理的な知識だった。この管は、地上の「厨房の裏口」へと垂直に繋がっているはず。
私はドレスのコルセットを固定していた金属製の頑丈なピンを引き抜き、その先端で、排水管の接合部を硬く、規則的に打ち付けた。
――カン、カン、キン。……カン、キン、カン。
石壁を叩いても音は周囲に吸収されてしまうが、金属と鉄管の衝突音は、個体を伝わる振動波となって、遮音性の高い石造りの床を突き抜け、真っ直ぐに厨房へと響き渡る。
その合図を待っている人間が、上にはいるはずだった。
数日前、私が屋敷の悪徳使用人たちを容赦なく叩き出した際、家令のハンスを通じて新しく雇い入れた夜勤の雑役夫たち。彼らは全員、私が実家の没落回避の過程で結託していた「情報ギルド」が、私の指示によって公爵家の中に合法的に潜り込ませた、私自身の「手駒」だった。
万が一に備えて、ギルドの人間が内部から動けるよう、事前に物理的な通信ルートと人員を配置していた。
鉄管を叩き終えてから、約十五分。
地下へ続く階段から、見張りの私兵が小さく呻いて倒れる鈍い音が聞こえた。続いて、小気味よい金属音と共に、牢獄の重い鉄扉が解錠される。
「お見事です、アリアお嬢様。」
現れたのは、給仕の衣服をまとった情報ギルドの連絡員だった。彼は見張りの私兵のポケットから奪い取った鍵の束を使い、私の目の前の鉄格子を速やかに開けた。
「バルドー侯爵の私兵どもは、交代の時間を厳守する軍人気取りですが、そのぶん隙だらけです。彼らが詰め所で夜食のスープを口にしている隙に、全員の意識を刈り取ってあります。」
「ありがとう。……頼んでいた『あれ』は?」
私が問い詰めると、男は懐から分厚い防水布に包まれた書類の束と、手のひらサイズの小さなガラス瓶を取り出した。
「命がけで手に入れてきました。侯爵が隣国と交わした本物の密書、そして、閣下に盛られていた毒の、これが唯一の『特定解毒薬』です。ただし、強引に神経を覚醒させる劇薬ですので、取り扱いにはご注意を。」
「ええ。これで、反撃の準備は整ったわ。」
書類と薬瓶を泥だらけのドレスのポケットに押し込み、私は地下牢の暗闇を蹴って、光の差す地上へと駆け上がった。
翌朝、王宮の謁見の間は、重苦しい熱気に包まれていた。
集まった貴族たちの中心には、車椅子に無惨にも縛り付けられ、ぐったりと首を垂らしたままのギルバート様がいた。その前に立つのは、勝ち誇った笑みを浮かべたバルドー侯爵だ。
「諸卿! 聞いての通り、アスラン公爵は魔力の暴走の兆候を見せ、国を危機に陥れようとした! さらに小貴族の娘と共謀し、国費を不正に流用した疑いもある。よって今ここで、彼の爵位を剥奪し――」
「その言葉、そっくりそのままお返しいたしますわ!」
重厚な扉を力任せに押し開き、私は叫んだ。
一斉に視線が私に集まる。地下牢から脱出し、不眠不休で走ってきた私のドレスは汚れ、髪は乱れていた。貴族たちが「何事だ」「あのスパイの娘か」と騒ぎ立てる中、私は堂々と胸を張って大理石の床を歩いた。
「何をしにきた、この罪人め! 出会え、この狂人を叩き出せ!」
バルドー侯爵が顔を釣り上げ、怒号を飛ばす。しかし、私は懐から掴み出した書類の束を、高位貴族たちの足元へ向けて勢いよくぶちまけた。
「狂っているのはどちらでしょうか! そこにあるのは、バルドー侯爵が隣国と内通し、アスラン公爵家の弱体化を狙ってギルバート様に毒を盛り続けていた、決定的な証拠です! 侯爵の署名が入った裏帳簿も、隣国の高官からの密書も、すべてそこにあります!」
貴族たちがざわめき、書類を拾い上げる。内容を確認した重臣たちの顔色が、次々と変わっていった。
「な、何をデタラメを……! そんなものは偽造だ!」
「デタラメかどうかは、きちんと調査すれば自ずとわかるでしょう…。」
バルドー侯爵の顔から余裕が消え、みるみるうちに血の気が引いていく。額から嫌な汗を流し、大声を張り上げる姿は、見る影もなく醜かった。私はそんな侯爵を無視し、急いで縛り付けられているギルバート様のもとへ駆け寄った。
彼の肌は冷たく、呼吸は虫の息だ。蓄積された毒のせいで、心臓が止まりかけている。
お願い、間に合って……!
私は情報ギルドから受け取った薬瓶の栓を抜き、迷わずその液体を自分の口に含んだ。それは、ギルバート様を蝕む毒草の、唯一の解毒薬。だが、健康な人間が口にすれば内臓を焼くような激痛に襲われる、極めて危険な劇薬だ。
じわりと舌が痺れ、呼吸が苦しくなる。…それでも構わなかった。私はギルバート様の青白い唇に、自分の唇を重ねた。驚きに息を呑む貴族たちの前で、昏睡して喉を開かない彼の口内へ、私の体温と共に、すべての解毒薬を執拗に、泥臭く流し込んでいく。
「ん、ぐ……っ!」
彼が小さく呻き、薬を温かい唾液と共に飲み込むのを確かめてから、私は唇を離した。強烈な薬効の副作用で私の視界が激しく揺れ、床に膝をつく。
「…うッ…アリア……?」
地をはうような、けれど、確かに力強さを取り戻した声が、静まり返った広間に響いた。そして、ギルバート様の長い睫毛が震え、その奥から、夜の海のような深い瞳がこちらを見つめていた。
――喉の奥を、内臓が焼けただれるような凄まじい激痛が突き抜けた。
深く、冷たい闇の底に沈んでいた俺の意識は、その痛みと、それ以上に強烈な「温もり」によって、強制的に引きずり上げられた。唇に残る、柔らかくて、ひどく熱い感触。鼻腔をくすぐる、嗅ぎ慣れた、狂おしいほどに愛おしい花の香り。
アリア……?
重い瞼をこじ開けると、眩い光の中に、ボロボロになった彼女の姿が映り込んだ。
ドレスは泥に汚れ、美しい髪は乱れ、その白い頬には擦り傷まである。俺に解毒薬を口移しで飲ませた彼女は、その劇薬の副作用に耐えるように胸を押さえ、床に激しく膝をついていた。
視界が急速にクリアになっていく。
ここは王宮の謁見の間だ。俺は車椅子に無惨に縛り付けられており、周囲には冷ややかな目で俺たちを見下ろす貴族たち。そして、目の前には、浅ましいほどに顔を歪めて狼狽している叔父、バルドー侯爵の姿があった。
「これはどういうことですかな!?」
「な、何をデタラメを……! そんなものは偽造だ!」
叔父の怒号が耳き、アリアのボロボロの姿を見るのと同時に、すべてを理解した。
俺が昏睡している間に、この男は俺の爵位を奪おうとしたのだ。そして、アリアを、何らかの濡れ衣を着せて連行したのだ。
その直後、激しい怒りが、心臓の奥から燃え上がった。
けれど、それ以上に、俺の胸を満たしたのは、圧倒的なまでの熱い感情だった。
彼女がなぜ、出会った最初からあんなに必死な目で俺を見つめていたのか、その本当の理由は分からない。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
世界中の誰もが俺を「死神」と呼び、遠巻きに見捨て、早く死ねと呪い続けてきた中で。魔法も持たない、こんなに小さくて、脆くて、普通の娘が。俺の命を救うために、こんなにボロボロになりながらここまで駆けつけ、自らの身体を害するような劇薬を煽ってまで、俺を呼び戻してくれた。
…ただの奇妙な娘だと思っていた。
だが、違った。
彼女は、俺の絶望の人生に嵐の様に無断で入り込み、居座って居場所を作ったあげく…俺を守り、暖かくあり照らしてくれた…光だった。
「よくも……アリアを、傷つけたてくれたな!」
低い、地を這うような声が、俺自身の口から漏れ出た。
その瞬間、俺の身体を縛り付けていた頑丈な縄が、内側から溢れ出た魔力の圧力によって、一瞬で木端微塵に弾け飛んだ。
俺はゆっくりと、車椅子から立ち上がった。
いつも俺の自由を奪い、呪いのように身体を蝕んでいた強大すぎる魔力が、今は驚くほど静かに、俺の意志のままに脈打っている。暴走などではない。アリアが命がけで繋いでくれたこの命を、彼女を守るために使うのだという、確固たる制御がそこにはあった。
俺から放たれる圧倒的な威圧感に、周囲の貴族たちが恐怖で一斉に息を呑み、後ずさりするのが分かった。
「ひっ、ひぃいいいっ!?」
一番近くにいたバルドー侯爵が、その風圧に耐えかねて情けない悲鳴を上げ、無様に床へひっくり返った。
尻餅をついたまま、ガタガタと歯の根を鳴らし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている。先ほどまでの傲慢な態度はどこへやら、あまりにも惨めで、醜悪な姿だった。
「ギ、ギルバート、違う、俺は、お前のために……! 薬を盛るなど、何かの間違いだ! 騙されるな、その女はスパイだぞ!」
必死に床を這いずりながら、見苦しく命乞いをする叔父を、俺は冷徹に見下ろした。貴族たちの足元には、アリアがぶちまけた、叔父の国家反逆罪を示す証拠の数々が転がっている。
「黙れ、老犬が。貴様の罪は、すべてそこに転がっている。これ以上、その汚い口で彼女を侮辱するな!」
一喝すると、叔父は完全に戦意を喪失し、床に額を擦りつけて震えだした。周囲の貴族たちも、すでにどちらが本物の「アスラン公爵」であるかを理解し、叔父に軽蔑の目を向けている。
勝負は、一瞬で決した。
俺は醜い人間たちから視線を外し、床にへたり込んでいるアリアのもとへ歩み寄った。
しゃがみ込み、その細い身体を、両腕で優しく、壊れ物を扱うように抱き上げる。彼女の身体は、驚くほど軽くて、温かかった。
「無茶をするな、アリア。……だが、救われたよ。」
俺の胸に顔を埋め、安心したように小さな涙をこぼす彼女の髪を、そっと撫でる。
これまでずっと、俺の手は誰かを拒絶し、世界を諦めるためにあった。けれど今、この腕の中にいる愛おしい少女を抱きしめるために、俺の手は確かにあるのだと知った。




