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バルドー侯爵の陰謀が白日の下に晒され、アスラン公爵邸に本当の平穏が訪れてから、三ヶ月の月日が流れた。
かつて「死神公爵」と怯えられ、昼間でも厚いカーテンを閉め切っていた主の寝室には、今や明るい太陽の光が燦々と降り注いでいる。適切な治療と、何より毒の入っていない温かい食事によって、ギルバート様の身体は見違えるほど健康を取り戻していった。
車椅子に縛り付けられていた細い身体は、今や見違えるほど逞しく、背筋をすっと伸ばして歩くその姿は、誰もが目を奪われるほど高貴で、美しい。本来の圧倒的な威厳を取り戻した彼は、公爵としての職務を完璧にこなし、社交界の勢力図を塗り替えつつあった。
中庭に咲き誇る色鮮やかな薔薇を眺めながら、私は自分の胸にそっと手を当てた。
……ああ、本当に良かった。私の役割は、もう終わったんだわ。
胸の奥を、ちりちりとした切ない痛みが駆け抜けていく。
元々は、彼を悲惨な死から救うため、そして同時に我がシルフィード子爵家の没落を回避するために、半ば強引に「契約婚約」という名目でこの屋敷に乗り込んだのだ。
バルドー侯爵が失脚した今、我が家を脅かす借金話も投資詐欺もすべて未然に防がれ、実家の破滅の未来は完全に消え去った。そして、何よりも私がこの命を懸けて救いたかったギルバート様は、もう死の影に怯える必要のない、完璧な公爵となられた。
彼が輝けば輝くほど、しがない貧乏子爵家の娘でしかない自分の存在が、不釣り合いに思えて仕方がなかった。
傲慢な親族を排除した今、彼にはもっと相応しい、地位も名誉もある高貴な公爵夫人が現れるべきなのだ。彼に恋をして、彼のすべてを愛してしまったからこそ、私のエゴで彼の未来の足枷になりたくなかった。
「アリア様、本当に……本当に行ってしまわれるのですか?」
荷物をまとめた私を見て、新しく雇い入れた侍女頭が涙を浮かべて私を引き留めた。後ろでは、家令のハンスと執事のロマンが、いつになく沈痛な面持ちで立ち尽くしている。
「ええ。元々、我が家を救うための不躾な婚約申し込みでしたから。ギルバート様が本来の姿に戻られた今、これ以上私がこの場所に留まる理由は、どこにもありませんわ。ハンス、ロマン、新しい使用人のみんなも……今まで私を支えてくれて、本当にありがとう。」
私は努めて明るく微笑み、深々と頭を下げた。ハンスたちは何かを言いたげに口を動かしたが、私の固い決意を察したのか、それ以上は何も言わず、ただ悲しげに私を見送ってくれた。
最後に、彼に挨拶をしなければならない。
私はトランクを廊下に置いたまま、一通の書類を抱えて執務室の扉を叩いた。
「入りなさい。」
中から聞こえた、低く、心地よく響く声。扉を開けると、デスクに向かって書類にサインを走らせているギルバート様の姿があった。窓からの逆光が彼の美しい銀髪を輝かせている。その姿があまりにも眩しくて、私は一瞬、息をすることを忘れてしまいそうになった。
「ギルバート様。お仕事中、恐れ入ります。」
私はデスクの前に歩み寄り、抱えていた書類を静かに机の上に置いた。
「これは……我がシルフィード子爵家からの、婚約辞退届です。身分不相応な申し出であったこと、改めてお詫び申し上げます。」
ギルバート様を動かすペンが、ぴたりと止まった。
彼は机の上の書類を一瞥すると、すぐに夜の海のような深い瞳を上げ、私を真っ直ぐに射抜いた。その瞳には、明らかな怒りと、それ以上の激しい焦燥が浮かんでいる。
「……どういうつもりだ、アリア…?」
「お言葉の通りです。貴方様はもう、ご自身の足で立たれるほどにお元気になられました。周囲の脅威も去り、アスラン公爵家は安泰です。ですから、もう私のような無力な者が、婚約者の座に居座り続ける必要はありません。」
私はこれ以上、彼の顔を見ていると決意が鈍ってしまいそうになり、一礼して背を向けた。
「これまで、本当にありがとうございました。どうか、お元気で――」
「ッ!行かせるわけがないだろう!」
激しい怒号と共に、後ろから強い力で腕を引かれた。視界がぐるりと回り、気がついた時には、私はギルバート様の逞しい胸の中に強く閉じ込められていた。
「ギルバート、様……っ!?」
「なぜだ、なぜ俺を置いていこうとする!? 俺が何か、お前の気に触れることをしたか? それとも、身体が治った俺には、もう用がないというのか!」
耳元で響く彼の声は、酷く荒く、そして子供のように震えていた。
私は彼の胸を押し返そうとしたけれど、今の彼の腕は驚くほど力強くて、微動だにしない。彼の胸の鼓動が、ドレス越しにドクドクと私の肌へと伝わってきて、胸が苦しくなるほどに高鳴った。
「違います……用がないだなんて、そんなわけありません! 私は、わたしは…貴方様が好きですッ!…一人の男性として、心からお慕いしているからこそ、身分違いの私が側にいてはいけないと思うのです。貴方には、もっと相応しい高貴なお妃様が――」
「そんなものは、世界中のどこを探してもいない!」
ギルバート様は私の言葉を力任せに遮り、さらに腕の力を強めて私を抱きしめた。その大きな手が、私の背中を優しく、けれど絶対に離さないという確固たる意志で包み込む。
「身分などどうでもいい。家格など、俺がいくらでも引き上げてやる。俺が欲しいのは、アスラン公爵家に相応しい女ではない。アリア、お前だけだ!」
彼は私の首筋に顔を埋め、切なげに熱い息を吐き出した。
「誰もが俺を死神と呼び、遠巻きに死を待っていた時、お前だけが俺の前に現れた。魔法も持たない小さなお前が、悪徳使用人を駆逐し、魔力の嵐の中でも俺を抱きしめてくれた。挙げ句に、己の命も顧みず、あの劇薬を口移しで飲ませてまで、俺を暗闇から引っ張り上げてくれたんだぞ……!」
彼の声が、愛おしさと情熱で微かにかすれていく。
「お前がいない世界なんて、俺にとっては再び暗闇に戻るのと同じだ。俺の心を溶かしたのは、お前の温かいスープと、お前がくれた無償の優しさだ。お願いだ、アリア。俺をまた、一人にしないでくれ。俺の側にいて、生涯、俺の隣で笑っていてほしい。……愛しているんだ、お前を。」
今のギルバート様には、前世の記憶はない。大雪の路地裏で私に手を差し伸べたことも、彼は覚えていない。
けれど、今、目の前にいる彼は、前世のあの孤独な魂のままに、私を激しく求めてくれている。私の看病が、私の恩返しの気持ちが、彼の心を本当に救い、変えたのだ。
その事実が、私の目から大粒の涙を溢れさせた。切なさは一瞬で消え去り、胸の中が圧倒的な幸福感で満たされていく。
「本当に、私でいいのですか……? 魔法も、何も持たない、ただの私で…!」
「お前がいい!…お前じゃなければ、俺は…生きている意味がない。」
ギルバート様はゆっくりと顔を上げ、私の涙をその大きな親指で優しく拭った。そして、愛おしさが破裂しそうなほどに甘く、熱い眼差しで私を見つめ
「愛している。」
そう告げるとそっと唇を重ねてきた。それは、あの謁見の間でのキスとは違う、お互いの愛を確かめ合うための、深く、とろけるように甘い、口づけだった。夕暮れの光が窓から差し込み、私たちの影を一つに溶かしていく。
「はい……私も、貴方様を愛しています。ずっと、ずっとお側におります、ギルバート様。」
私たちは腕を回し合い、もう二度と離れないことを誓うように、強く抱き合い続けた。
数ヶ月後、アスラン公爵邸の庭園は、見たこともないほどの鮮やかな花々と、眩い幸福の光に満ち溢れていた。
今日は、私たちの正式な婚約式。
客席の最前列には、涙ぐみながらハンカチで目を押さえるお母様と、誇らしげに胸を張るお父様の姿があった。ハンスやロマン、そして屋敷中の使用人たちも、誰もが心からの笑みを浮かべて私たちを祝福してくれている。
私は、淡い桃色のシルクのドレスに身を包み、緊張で少し震えながら、祭壇の前で待つギルバート様のもとへと進み出た。
今日の彼は、目が眩むほどに美しく、堂々とした公爵の姿そのものだった。彼は花の道を歩いてくる私をじっと見つめ、やがて ──世界で私にしか見せない、極上の甘い微笑みを浮かべた。
「アリア、手を。」
差し出されたのは、骨張った、とても大きな手。
前世のあの狂った雪の日、あと数センチのところで届かずに闇に落ちてしまった、あの憧れの手だ。
私は、自分の白く滑らかな右手を、迷わずにその掌へと重ねた。今度は、あの時掴めなかった温もりが、ハッキリと、熱いほどに肌に伝わってくる。
ギルバート様は私の手を優しく包み込み、もう片方の手で、ベルベットの箱から一つの指輪を取り出した。
それは、夜の海を切り取ったかのような、深い、深い青色をした魔石の指輪。
あの雪の日、彼の指で鈍く光っていた、私の命を救ってくれた、あの指輪だ。
「この命も、この心も、すべてをお前に捧げる。永遠に愛している、私のアリア…。」
ギルバート様はそう囁くと、私の薬指へと、その青い指輪をそっと嵌めてくれた。少し大きめの指輪が、私の指をぴったりと包み込む。そして彼は、指輪の嵌った私の薬指に、愛おしそうに誓いのキスを落とした。
その瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が、広間全体を包み込んだ。
前世の絶望の淵で、掴めそうで掴めなかったあの大きな手は、今世で、何よりも温かい「永遠に離さない愛の手」となった。私は、世界で一番愛する人の腕の中に飛び込み、溢れんばかりの幸福の中で、彼と共に生きる輝かしい未来へと、一歩を踏み出すのだった。
終わり




