第52話:壁抜けの絶対座標と、暴走する深層心理(後編)
血と錆の匂いが充満する地下牢獄で、銀色の髪を汚泥に浸したシルフィアは、完全に心を閉ざし、底なしの虚無へと沈み込もうとしていた。
彼女のトラウマの追体験領域。システムが『介入不可』と定めた絶対のイベントプロテクト(見えない壁)が、俺と彼女の間に無慈悲な境界線を引いている。
どれほど叫んでも、どれほど手を伸ばしても、分厚いガラスの向こう側にいるように俺の行動はすべて弾き返されてしまう。
「クロ様……。今まで、ありがとうございました。貴方様の隣で見た光のすべてが、私の、たった一つの宝物です」
シルフィアの焦点の合わない金色の瞳から、最後の一滴の涙がこぼれ落ちる。
彼女は自分の罪深き過去に囚われたまま、この冷たい闇の底で永遠に己を罰し続けることを選んでしまったのだ。
(……ふざけるな。ゲームのシナリオライターが書いた安いお涙頂戴のバッドエンドなんぞに、俺の最高の戦友を奪われてたまるか)
俺は頭のフライパンを深く被り直し、システムのプロテクト――空間に張り巡らされた見えない壁の判定ラインを、冷徹なゲーマーの目で睨みつけた。
フルダイブ型VRといえど、所詮はプログラムの塊だ。
見えない壁の正体は、特定の座標への侵入を弾くコリジョン(当たり判定)の連続体にすぎない。そして、どんなに強固な壁であろうと、物理演算エンジンが座標の位置情報を更新する瞬間――わずか1フレーム(約0.016秒)の間に、必ず当たり判定が消失する『隙間』が存在する。
圧倒的な速度でそのフレームの隙間に物体をねじ込めば、壁をすり抜けて向こう側へ到達できる。いわゆる、壁抜け(クリッピング)のバグ技だ。
だが、HP1でステータスが貧弱な俺の現在の敏捷力では、自力でその速度を生み出すことは不可能だった。
「レオン! リナリー!」
俺の鋭い声に、絶望に打ちひしがれていた二人が弾かれたように顔を上げた。
「ハッ! ここに!」
「クロ様、私に何ができるっ!?」
「俺を、あの見えない壁に向かって全力で吹き飛ばせ」
俺の狂気的な指示に、二人は一瞬だけ息を呑んだ。
だが、彼らは俺を信じ切っている。次の瞬間には、いかなる躊躇も捨て去り、俺の無茶苦茶なオーダーを実行するための陣形を構築していた。
「クロ様、御身に衝撃が走ります! 精霊さん、クロ様の背中を一番強い風で押してっ!」
リナリーが両手を掲げ、圧縮された暴風の魔力を俺の背後に展開する。
「このレオンの渾身の盾撃、とくとお受けくだされ! ぬおおおおおッ!!」
レオンが俺の背後へと回り込み、大盾アイギスを構えて猛然と突進してきた。
俺は見えない壁に向かって走り出し、己の持つ最高速度のステップスキルを発動する。
そこに、リナリーの暴風による加速判定と、レオンのシールドバッシュによる凄まじいノックバックの運動エネルギーが、俺の背中にドンッ!と同時に叩き込まれた。
三つの加速要素が完全に重なり合った瞬間、俺のアバターの移動速度はシステムの上限値を遥かに超え、処理落ちによる残像を引き起こした。
そして、見えない壁のコリジョンが更新される、たった1フレームの空白。
ガギィィィンッ!というエラー音と共に、空間がガラスのようにひび割れる。
システムの絶対のルールを、バグと戦友たちの力が強引に打ち破ったのだ。
「……っ!」
激しい衝撃と眩暈を振り切り、俺は前のめりに転がりながらも、プロテクトの向こう側――シルフィアのいる闇の領域へと侵入を果たした。
「……え?」
闇の底へ沈もうとしていたシルフィアが、信じられないものを見るように目を丸くする。
俺は冷たい石の床を蹴り、崩れ落ちていた彼女の前に滑り込むと、その細く冷え切った両肩を、力任せに抱き寄せた。
「あ……く、クロ、様……? どうして、結界が……」
「システムが設定したトラウマなんぞで、俺から逃げられると思うな。お前は俺のパーティの暗殺者だ。俺の許可なく、勝手に離脱することは絶対に許さない」
俺は彼女の肩を抱きしめたまま、その耳元で低く、はっきりと告げた。
「過去に何人の命を奪ったとか、自分が壊れた道具だとか、そんな設定はどうでもいい! 俺が知っているのは、俺を誰よりも大切に想い、俺のために本気で怒って、泣いてくれる、不器用で最高に可愛い今の『シルフィア』だけだ!」
「っ……あ……あぁ……っ!」
「俺はお前という存在のすべてを肯定する。だから、もう二度と、自分を偽物だなんて言うな。俺の隣を、勝手に空けるな」
俺の熱を帯びた言葉が、彼女の耳から、凍りついていた心の奥底へと直接流れ込んでいく。
システムが彼女の脳に押し付けていた『殺戮兵器・六番』の呪縛が、俺の手の温もりと、絶対に彼女を離さないという強い意志によって、音を立てて砕け散っていった。
「あぁぁぁぁぁぁっ……! クロ様っ! クロ、様ぁぁっ!!」
シルフィアは俺の胸に顔を埋め、俺の背中に腕を回して、衣服が千切れるほどに強く握りしめた。
彼女の口から漏れるのは、もはや過去の絶望の悲鳴ではない。魂の底から救済された、安堵と、狂おしいほどの愛おしさに満ちた、子供のような嗚咽だった。
俺は彼女の銀色の髪を何度も優しく撫で、その温かい涙が俺の胸を濡らすのをただ静かに受け止めていた。
その瞬間。
夢魔の胞子が作り出していた『骸の檻』のテクスチャが、限界を迎えたようにポロポロと光の粒子となって崩壊し始めた。
冷たい石の床も、鉄格子の牢獄も、すべてが白光に包まれ、空間そのものが劇的な書き換え(リライト)を起こしていく。
(……過去のトラウマ領域、完全突破。これでシステムによる精神干渉は終わったはずだ)
俺はそう安堵し、目を閉じていた。
だが、夢魔の胞子の本当の恐ろしさは、恐怖を見せることだけではない。プレイヤーの心の中にある『最も強い感情』を読み取り、それを際限なく肥大化させて具現化することにあるのだ。
恐怖と自己嫌悪が完全に消え去った今。
シルフィアの心の中をオーバーフローするほどに満たしている感情は、ただ一つしかなかった。
「……クロ、様」
不意に、俺の胸に顔を埋めていたシルフィアが、ゆっくりと顔を上げた。
周囲を覆っていた白光が収まり、俺たちが座り込んでいる場所の情景が、完全に別のものへと変貌していることに気づく。
床には、足首まで埋まるほどのふかふかの純白の絨毯。
壁には暖炉の火が優しく揺らめき、部屋の中央には、天蓋付きの異常に巨大なキングサイズのベッドが鎮座している。
まるで、王族がハネムーンで使うような、甘い香りに満ちた超高級スイートルーム。
そして、俺の腕の中にいるシルフィアの姿もまた、先ほどまでの血に濡れた暗殺者の衣装から、完全に別のものへとバグ変化を遂げていた。
(……なっ!? これは、ロビー空間で一瞬だけ見せた、あの……!)
彼女の身を包んでいたのは、薄く透き通るような純白のシルクで編まれた、極限まで防御力の低い新妻のネグリジェだった。
華奢な肩のラインも、控えめながらも形の良い胸の谷間も、すらりとした太ももも、すべてがうっすらと透けて見えている。
「クロ様。私の過去のすべてを、その大きな心で受け入れてくださって……本当に、ありがとうございます」
シルフィアの甘く、ひどく粘り気のある声が俺の鼓膜を震わせた。
彼女の金色の瞳からは、先ほどまでの涙の痕跡は消え去り、代わりに、とろけるような熱情と、俺という存在を骨の髄まで食べ尽くしてしまいたいというような、重く危険な愛欲の光がギラギラと輝いていた。
「あ、おい、シルフィア。待て、お前、様子が……」
俺が後退りしようとした瞬間、彼女の細い手が俺の胸ぐらを掴み、そのまま俺の身体をふかふかの絨毯の上へと強引に押し倒した。
「今の私の心には、もう一切の迷いも恐怖もありません。あるのは……愛するクロ様と、身も心も、魂の果てまで一つになりたいという……この想いだけです」
馬乗りになったシルフィアが、俺の顔の両脇に手をつき、艶やかに潤んだ桜色の唇をペロリと舐める。
フルダイブ型VRの触覚フィードバックが、彼女の火照った体温と、甘い吐息、そしてネグリジェ越しに押し付けられる極上の柔らかさを、俺の脳内に容赦なく叩き込んでくる。
(嘘だろ……! トラウマの追体験イベントをクリアしたと思ったら、そのままヒロインの欲望が暴走した、極甘のR18イベントにシームレスに突入しやがった!)
「ああ、クロ様……。もう我慢できません。私のすべてを、貴方様に捧げます……っ」
恐怖というストッパーを完全に破壊され、リミッターが外れた暗殺者の、猛烈で逃げ場のない逆襲。
俺の効率主義のチャートは、甘い香りが充満するこの密室で、彼女の狂おしいほどの愛と欲望によって、完全に押し潰されようとしていた。




