第5話:虚無(マップ外)の散歩と、T字の旧神
光も、音も、風すらない。
ただ、どこまでも続く灰色の空間。上を見上げれば、本来あるはずの空の代わりに「ペラペラに引き伸ばされた地面の裏側」が広がっている。
「……主様。ここは、本当に……死後の世界ではないのですね?」
俺の腕の中で、シルフィアが震える声で尋ねてきた。
無理もない。壁抜け(クリッピング)で進入したこの『マップの裏側(Out of Bounds)』は、通常のプレイヤーが決して入ることのないデバッグ用の暗黒空間だ。
足元には透明な床(当たり判定だけが残された不可視のオブジェクト)があるだけで、一歩でも踏み外せば「奈落(無限落下判定)」へと落ちてゲームオーバーになる。
「死後の世界? 違う違う。ただの『楽屋裏』だ。……おっと、そこは見えない穴(当たり判定の抜け)がある。俺の歩いた軌跡をミリ単位でトレースして歩けよ」
「は、はいっ……!」
シルフィアは、俺が後ろ向きに歩いてできた足跡を、祈るような目で正確に踏みしめながらついてくる。
彼女の視点では、俺が「虚無の世界に新たな理(道)を創り出しながら歩いている」ように見えているらしい。
「(それにしても、相変わらず手抜きの構造だな。本来のフィールドの下に、開発用のテストモデルが放置されっぱなしじゃないか)」
俺は暗黒空間の遠くに見える、奇妙な物体を見つけた。
それは、灰色ののっぺらぼうのような人型のオブジェクトが、両手を水平に広げた『T字ポーズ』のまま、空中にピタリと静止している姿だった。
「主様……! あれは……ッ!」
シルフィアが息を呑み、短剣を構える。
「凄まじい神気です……! 意思も顔も持たぬ、純粋な力の塊……。もしかして、神話に語られる『古き神々』の封印された姿では……!?」
「あ? 違うぞ。あれはただの『テスト用アセット』だ。開発者がサイズの確認か何かに使って、消し忘れたゴミデータだよ」
「ゴ……ゴミ……!?」
Tポーズで固まっているのは、3Dゲーム開発におけるデフォルトの姿勢(Tスタンス)のまま放置されたテストモデルだ。
だが、RTA走者にとって、空中に浮いているオブジェクトはすべて『足場』である。
「(ちょうどいい。この先は透明な床が途切れてるから、あいつの頭を踏み台にして空中ジャンプの回数をリセット(回復)させよう)」
俺は頭にフライパンを乗せたまま、助走をつけて虚無の空間へ飛び出した。
そして、微動だにしない灰色の神の頭頂部に向かって、ピンポイントで踵を振り下ろす。
ポンッ!
「よし、ジャンプ回数リセット」
俺は灰色の頭をトランポリンのように踏みつけ、再び空中へと跳躍した。
「……あ、あ、ああ……」
シルフィアは、その光景を見て両手で口を覆った。
神話の時代から封印され、触れることすら許されない『古の神』の頭を、泥靴のまま、まるで路傍の石ころのように踏み躙ったのだ。
しかも、頭に調理器具を乗せた男が、一切の感情を持たずに。
(なんという……なんという不遜! なんという絶対的優位……! あのお方にとって、神々すらも『自らを高みへ押し上げるための踏み台』に過ぎないというのか!)
シルフィアの中で、俺の存在が「人間」という枠組みを完全に突破した瞬間だった。
「お、NPC。ボーッとしてる暇はないぞ。追手が来た」
「え……? 追手?」
俺が着地した直後。
灰色の虚無空間の奥から、「ぐちゃぐちゃに絡み合ったポリゴンの塊」のような、おぞましい何かが猛スピードで迫ってきた。
それは生物の形を成しておらず、テクスチャがバグって赤と黒のノイズを撒き散らしている。
「な、なんですかあれは!? この世の怨念が実体化したような……存在そのものが世界を歪めている……!!」
シルフィアが絶望的な声を上げる。
無理もない。あれは『Error_Mob_00』。
開発途中でモーションの設定に失敗し、ゲームをクラッシュさせる致命的なバグを引き起こすため、表の世界から「裏側(ゴミ箱)」に隔離された没モンスターだ。
「接触すると『物理演算エラー』で即死する厄介なギミックなんだよな。まともに戦ったらフリーズしてRTAが強制終了する」
「ふ、フリーズ……!? それは、時間が凍りつくということですか!? 主様、ここは私が囮に! あなただけでも先へ——」
「馬鹿言え。バフ要員をロストさせるわけないだろ」
俺は前に出ようとしたシルフィアの襟首を掴んで後ろに放り投げた。
このNPC、AIのくせになぜか自己犠牲の精神が強すぎる。俺のタイムを落とす気か。
俺はインベントリから、ルーツの街で大量に余らせていた『銅の剣』を1本取り出した。
そして、迫り来るポリゴンのバケモノ(怨念の塊)の真正面に立ち、頭のフライパンをカンッと叩いてタイミングを計る。
「(没データの当たり判定は、中心の1ドットしかない。そこに……こいつをめり込ませる!)」
俺はタイミングを極限まで合わせ、バケモノの中心に向かって『銅の剣』を真っ直ぐに投げつけた。
直後。
剣が没モンスターの中心に刺さった瞬間——ゲームの処理システムが完全に悲鳴を上げた。
バケモノの巨体が、まるでブラックホールに吸い込まれるように「ギューーッ」と一点に圧縮されたかと思うと、次の瞬間、無数の針のように細長く引き伸ばされ、宇宙の彼方へ向かって「ビョォォォォン!!」とゴムのように飛んでいって消滅した。
『衝突判定オーバーフロー(コリジョン・エクスプロージョン)』。
計算しきれない接触ダメージを与えられ、対象の座標が限界を突破して「宇宙の果て(描画限界)」まで弾き飛ばされるバグ技だ。
「……えっ?」
シルフィアが、ぽかんと口を開けて空を見つめる。
「よし、障害物排除。あれで宇宙の果てまで飛んでいったから、もう戻ってこないだろう」
「う、宇宙の果て……? たった一本の、安物の剣を投げただけで……あの絶望の化身が、存在ごと弾け飛んだと……?」
シルフィアは震える足で立ち上がり、俺の背中を見つめた。
フライパンを被ったその後ろ姿は、もはや彼女にとって「歩く全能の神」そのものであった。
「(主様は、ただ次元の壁を抜けただけではない。この『世界の裏側』という神の領域に巣食う悪意すらも、圧倒的な力で掃除してしまわれたのだ……。あのお方の真の目的は、この世界の淀みを浄化すること……!)」
「よし、真上に王都の地下水脈の座標が見えた。ここから真上に『多重ジャンプ』して表の世界に復帰するぞ。舌噛むなよ、NPC」
俺はシルフィアを抱え直し、真上の空間(表世界の床下)に向かって、猛烈な勢いでジャンプ入力を連打し始めた。
◆ ◆ ◆
——同時刻。
『クロニクル・オブ・クリエイター』の全システムを統括する、天界の管理者ルーム(サーバーコントロール室)。
『ピピッ! 警告。警告』
『座標外(Out of Bounds)への不正アクセスを検知しました』
『エラー:没データ[Error_Mob_00]が、描画限界外へ強制射出されました』
『エラー:テストモデル[Type_Gray_01]の頭頂部に、想定外の接触履歴(踏みつけ)を検知』
真っ白な空間の中央にある水晶体が、不吉な赤い光を点滅させていた。
「……なんだ、このログは?」
水晶体を管理する上位存在——純白の翼を持った天使(チート対策プログラム)が、眉をひそめてエラーログを見つめる。
「不正な座標移動。あり得ない数値の衝突判定……。また『ノイズ』が発生したのか。早急にパッチ(神罰)を当てねば、システムが崩壊してしまう」
天界の管理者はまだ気づいていない。
この世界を脅かすノイズの正体が、頭にフライパンを乗せてバック走を続ける、たった一人の「アホなゲーマー」であることに。
真の世界の危機に向けたカウントダウンは、少しずつ、だが確実に進み始めていた。




