第47話:Z軸の座標崩壊と、絶対防壁に宿る愛(後編)
魔王城外門『嘆きの黒門』の前に広がる巨大な盆地で、世界そのものが悲鳴を上げていた。
体高三十メートルを超える外郭の絶対守護者、絶冥の巨兵ヴァルガン。
その何千トンという圧倒的な物理質量と魔力が乗った巨大な鋼鉄の拳を、聖騎士レオンは己の背丈ほどもある大盾アイギスのみで真っ向から受け止め、ただの一歩も退かずに拮抗していた。
「ぬおおおおおおッ!! 退かぬ! このレオン、クロ様の盾として、たとえ天が落ちてこようとも絶対に退かぬわぁぁぁっ!!」
レオンの分厚いブーツが大地を砕き、彼の強靭な筋肉が限界を超えて膨張する。
彼の背後には、このマップの境界線である見えない壁が存在している。そして彼の正面からは、シルフィアの双剣による暴風のノックバックと、リナリーの精霊魔法による物理的な押し出しの力が、巨兵ヴァルガンをレオンに向かって強制的に押し込んでいた。
ガギィィィィィィィィィンッ!!!!
二つの巨大な当たり判定が、逃げ場のない極小の空間座標の中で激しく衝突し、めり込み合う。
(私は、誰の命も奪えない無能な鉄屑だった。けれど……!)
レオンは顔の血管を浮き立たせ、血の混じった汗を流しながらも、その兜の奥の瞳にはかつてないほどの歓喜と誇りの光を宿していた。
人間族の聖騎士団にいた頃、攻撃ができない彼は「ただの肉の壁」「戦場のお荷物」と蔑まれ、味方を守り切ることすらできずに追放された。
どれほど強固な防御を持っていようと、敵を倒す矛がなければ誰も救えない。その残酷な真理に絶望し、死に場所を探していた彼を拾い上げたのが、目の前で頭にフライパンを被っている奇妙な主君、クロだった。
クロは彼に「攻撃しろ」とはただの一度も言わなかった。
その代わり、彼の絶対的な防御力を利用して、世界の理そのものを破壊する神の如き戦術の『起点』として彼を配置したのだ。
(クロ様。貴方様は、この無能な亀を、世界の誰よりも必要としてくださった。私の守りを、神すらも殺す最強の剣へと変えてくださった。ならば……この命、この魂のすべてを懸けて、貴方様の御期待に応えてみせましょう!!)
「おおおおおおおッ! 我が主の覇道に、ひれ伏せぇぇっ!!」
レオンの命を燃やすような咆哮が響き渡った瞬間。
ゲームの物理演算エンジンが、ついに処理の限界を超えて完全に決壊した。
絶対に重なり合ってはならない巨兵ヴァルガンとレオンの当たり判定が、見えない壁に挟まれて完全に飽和する。システムはエラーによる世界のフリーズを回避するため、矛盾の塊となった巨大オブジェクト――ヴァルガンの空間座標を強制的に再計算し、弾き出そうとした。
だが、X軸(左右)もY軸(前後)も、レオンとマップの境界線によって完全に塞がれている。
逃げ場を失ったシステムが最終手段として選択した座標は、ただ一つしかなかった。
ズォォォォォォォンッ!!
空間が奇妙に歪み、赤黒いノイズが空中に走ったかと思うと。
体高三十メートルの巨大な鋼鉄の像が、まるで底なし沼に飲み込まれるように、硬い岩盤の地面をすり抜けて一瞬にして真下へと落下したのだ。
Z軸――つまり、地面の下の『マップ外』への強制的な座標転落である。
「な……が、ガ、ガァァァァァッ!?」
巨兵ヴァルガンは、自身の足元の大地が突然消失したかのように虚空へと落ちていき、最後にその巨大な腕を地上へ伸ばそうとしたが、それすらも異次元の闇に飲み込まれ、完全に姿を消した。
システム上、マップの最下層(死の判定ライン)まで落下したオブジェクトは、どれほどHPが残っていようと無条件で『即死』として処理される。
ピロロロロンッ!
ボスの撃破を示すファンファーレが虚しく鳴り響き、固く閉ざされていた魔王城の嘆きの黒門が、重々しい音を立てて自動的に開き始めた。
「……終わったな。マップ外追放(異次元送り)、見事に成功だ」
俺は虚空のステータス画面を閉じ、頭のフライパンをコンッと叩いた。
土煙が晴れた先には、地面の底なしの穴など存在せず、ただ平坦な岩盤が広がっているだけだ。巨兵は、世界の裏側へと完全に消え去った。
ガシャンッ、と。
凄まじい大役を終えたレオンが、大盾を杖にするようにしてその場に片膝をついた。彼の全身からは限界を超えた疲労の湯気が立ち上り、息は荒く乱れている。
俺は静かに歩み寄り、その分厚い鋼の肩に手を置いた。
「見事だった、レオン。お前のその一歩も退かない覚悟があったからこそ、あの巨大なバグを引き起こすことができた。……お前は、俺の誇る最強の盾だ」
俺の偽りのない称賛の言葉に、レオンの巨体がビクンと跳ねた。
「ク、クロ様……ッ! ああ、なんという勿体なきお言葉! このレオン、たとえこの身が砕け散ろうとも、一生貴方様の御盾として立ち続けることを、ここに誓い……誓い、まするぅぅっ!」
彼は兜をかなぐり捨て、滝のように涙を流しながら、俺の足元に縋り付いて男泣きを始めた。
かつて無能と蔑まれた騎士は、この理不尽なRTAの世界において、誰よりも輝かしい存在意義を見出していた。俺はそんな彼の頭を、どこか照れくさい気持ちでポンポンと撫でてやった。
だが、そんな熱い男同士の絆と感動の時間は、コンマ数秒で桃色の暴風によって掻き消されることになる。
「クロ様ぁぁぁっ! やったぁ! 勝ったよ勝ったよーっ!」
ドスッ!という柔らかくも暴力的な衝撃と共に、背後からリナリーが俺の首に思い切り飛びついてきたのだ。
「うおっ!?」
「えへへー、あんなにおっきな敵が一瞬で消えちゃうなんて、クロ様の作戦って本当にすっごーい! もう、私、クロ様のことカッコよすぎてどうにかなっちゃいそうっ!」
リナリーは背後から俺に完全に抱きつき、その規格外に豊満な双丘を俺の背中にこれでもかと押し当てながら、俺の頬に自身のすべすべとした頬をスリスリとすり寄せてきた。
泉で洗い立ての彼女のピンクブロンドの髪から、甘く瑞々しい果実のような香りが漂い、俺の脳髄を直接揺さぶってくる。
(……ッ! しまった、戦闘終了後のイベント判定が早すぎる! レオンとの感動の余韻に浸る暇もなく、好感度イベントが強制スタートしやがった!)
俺の好みのストライクゾーンを完全にぶち抜いている彼女の容姿と、距離感ゼロの反則的なスキンシップ。効率至上主義の冷徹なゲーマーであったはずの俺の心臓は、ボスの攻撃を避ける時よりも遥かに激しく、バクバクと早鐘を打ち始めていた。
「お、おい、リナリー。離れろ、歩きにくい……っ」
「えー、ヤダヤダ! 私も魔法ですっごく頑張ったんだから、ご褒美にこのままギュってさせてよ! あっ、そうだ! クロ様、汗かいてるでしょ? 私の服の袖で拭いてあげるねっ!」
彼女は俺の前に回り込むと、タイトな法衣の胸元をさらに強調するように身を乗り出し、甘い吐息がかかる至近距離で俺の顔を拭おうとしてきた。その無防備すぎる谷間が、俺の視界を完全に埋め尽くす。
だが、その桃色の天国(あるいは地獄)は、一筋の銀色の閃光によって阻まれた。
「――その薄汚い遊び人の袖で、クロ様の尊いお顔に触れるな!!」
シュンッ!と風を切る音と共に、シルフィアが俺とリナリーの間に滑り込んできた。
彼女は耳の先から首筋までを嫉妬と羞恥で真っ赤に染め上げながらも、金色の瞳を吊り上げてリナリーを威嚇し、俺の左腕にギュッと力強くしがみついた。
「ク、クロ様! あのような胸の脂肪しか取り柄のない女に構う必要はありません! 汗でしたら、私が先ほどの泉で清めたばかりの、この清潔な絹のハンカチで……っ! いえ、クロ様がお望みとあらば、わ、私の……その、素肌で拭っていただいても……っ!」
シルフィアは後半、自分でも何を言っているのか分からなくなったのか、顔から火が出そうなほど赤くなりながら、涙目で俺の腕に自身の柔らかな胸を懸命に押し当ててきた。
「あーっ! シルフィアお姉ちゃんまた邪魔した! 私がクロ様といい雰囲気だったのに! クロ様は私の弾力の方が好きなんだもんねっ!?」
リナリーが負けじと、俺の右腕を胸の谷間に深く挟み込んで引っ張る。
「だ、黙れ淫魔! クロ様は貴女のような軽い女よりも、私のこの……一途な、誠心誠意の愛をお望みなのです! クロ様、どうか私の方を向いてください……っ!」
シルフィアも必死に俺の左腕を引き寄せ、潤んだ瞳で懇願してくる。
右から、甘く危険な精霊術師の誘惑。
左から、健気で切実な暗殺者の懇願。
俺はHP1の虚弱な肉体を両側から極上の柔らかさでホールドされ、もはや一歩も身動きが取れなくなっていた。
(……なんでこうなった。俺はただ、最速で魔王を倒して世界をクリアしたかっただけだぞ。なのに、俺の覇道はいつからこんな、ラブコメディのド真ん中にルート変更してしまったんだ)
「ふはははは! 素晴らしい! 戦いの後のこの賑わいこそ、我らパーティの真骨頂! クロ様、両手に咲く美しき華を、どうか心ゆくまでご堪能くだされ!」
一人だけ完全に蚊帳の外にいるレオンが、立ち上がりながら豪快に笑い声を上げて親指を立てている。
俺は天を仰ぎ、深い溜め息を漏らしながらも、両腕から伝わる二人の戦友の温もりを、決して振り払うことはできなかった。
無機質なデータではない、彼女たちの熱すぎる想いと嫉妬。それに振り回される時間が、俺は自分でも嫌になるほど愛おしくなってしまっていたのだ。
「分かった、分かったから二人とも引っ張るな。……行くぞ。魔王城はすぐ目の前だ」
俺は照れ隠しのように頭のフライパンをコンッと叩き、両腕に二人の美少女をぶら下げたまま、重々しく口を開けた『嘆きの黒門』へと歩き出した。
予測不能なバグと、限界突破のラブコメディ。
俺たちの騒がしくも最強のパーティは、いよいよ魔王城の深部へと、その狂った覇道を進めていくのだった。




